前回で、戦闘機の機体がキラキラ光る様子を”戦争が美しかった”と書いたが、同時期に室蘭、釧路等に爆撃や艦砲射撃を受け、何百人も民間人に犠牲者が出ている。
戦争とは殺し合いなのだ、と言う事である。
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私が絵を描いたり、文章を書いたり、本を読んだりするのが好きなのは、やはり、幼少時の生い立ちや環境が大いに影響を持っていると思われる。母の血筋もあるだろうが・・・。
戦前には(昭和15年まで)女中さん(今で言うところのお手伝いさん)が、二人もいたから、それに上二人が女で初めての男の子と言うので、大事にされた、と言うより大いに甘やかされたので、手のつけられないヤンチャ坊主になってしまっていた。
だから、だはんこく(むずかる。言う事をきかない)と、父の拳骨が飛んできた。終いには父の兵児帯で縛られて、台所の室(地下の野菜貯蔵庫)へ入れられて御免なさいと言うまで出してもらえなかった。
絵本はたくさんお下がりがあったと思うが、何と言っても大きなデンチクがあったのがいばれる(?)のではないか。
八畳の居間と六畳のおもちゃ部屋(子供部屋)には出窓が大きく二面にあって、その出窓の下が棚になっていて、本やおもちゃが入っていた。で、居間の方の出窓の台には大きな電気蓄音機が乗っていて、幼児が立って胸くらいの高さがあったから、70~80cmはあったと思う。
二人がそのチコンキ(電蓄)の両側に立ってバクダン(お米をポップコーンのように焼いて膨らませたもの。リヤカーにバクダンの機械を積んで各家庭を回って、希望の物を長い円筒状のアミの中に入れ、回しながら火で炙り、一度に破裂させる)を食べながらレコードを掛けて聞くのだが、そのレコードたるや、越後獅子あり、未完成交響楽あり、郭公ワルツあり、東海林太郎の赤城の子守歌あり、つまり玉石混交。
父はモボ(当時流行りのモダンボーイ)を自負していたので、流行り物はかなり買い込んだらしい。と長姉の美和子が言っていた。(大丸藤井の同僚とカンカン帽をかぶって写した写真があった。カフェの女給さんと一緒のもあって、母が妬いたと言う話もある)
おもちゃ部屋(子供部屋)の窓は二重になっていて、内側はすり硝子で、夜になると秋にはススキの揺れる陰が映り、夏には池のほとりで鳴く蛙の合唱を子守り歌に寝入ったものである。
この池も戦時中に石炭殻で埋め立てられ、その上に土で1メートルくらいのクレーターが作られて、カボチャの苗床になった。そこへ人糞を撒いて育て、飢えを凌いだのである。
家の前の通りに出ると、西には藻岩山を望み、東には創成川の上流の加茂鴨川、その東に幌平橋があり、豊平川のせせらぎを聞けた。北側は畑があり、その向こうは大きな笹薮、その向こうが護国神社だった。で、その笹薮の中が子供達のサンクチュアリイ、つまりお医者さんごっこの場所だった。
我が家の真向かいには二階建てのM上さんちがあり、親父さんは魚屋でリヤカーに魚を積んで犬に引かせて住宅街を売って歩いた。おかみさんは家で煙草を売っていた。
子供は長男の一成、次男が隆、次が長女の栄子の三人、この兄弟はこの静かな住宅街には珍しい餓鬼大将だった。お医者さんごっこの指導権も彼等が持っていた。一成はいつも左腕の袖で涎を横殴りに拭いていたから、そこはいつもぴかぴかに光っていた。そして振り返って自分の踵を見るのが癖だった。
私が高校を出た頃、父は二条市場前に文具や小間物の店を出したが、その前を通り掛った土工風の三人連れの中に一成がいたのを発見した。
彼は踵を振り返って見る癖を成人してもまだ堅持していた。
成人して土工の格好をしていても、彼と確認できた。
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