パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その四

2005-12-19 10:52:00 | 自分史

 我が家の真向かいのM上さんちの西隣は吉田さんちで、親友の和夫さんがいた。M上さんの東側には道庁の官舎が南へ並んでいた。さらに南には村上の木工場があった。
 木工場だから広い貯木場があり、太くて長い丸太が沢山積んであって、子供達はその上で鬼ごっこや隠れんぼをして遊んだ。が、足を滑らせて落ちて怪我をした子がいて、それ以来、こどもは立ち入り禁止になってしまった。
 でも、木工場から出る木っ端を冬のストーブの炊きつけにするのに買ったか貰ったかしたものをリヤカーに積んで、家までふうふう言って運んだ。堤防が完備する前は、豊平川の上流から運んだらしい。

 この近くに創成側の取り込み口があって、夏にはそこが格好の泳ぎ場所になった。子供達は六尺の赤ふんや黒い三角のふんどしをつけて急流に飛び込み、唇が紫になるまで泳いだ。

 我が家の西側に細い小路があり、それは護国神社の裏へ出るのだった。我々はなぜかその小道を『近道』と呼んでいた。その近道を通って、私と和夫さんは山鼻小学校へ通った。
 護国神社へ出る少し手前に大きな屋敷があって、門柱に『S川組』と言う大きな表札が掛かっていた。
父親はでっぷりと肥えた巨体を自家用車に押し込んで毎朝出掛けた。母親は色の白い痩せぎすの体を和服に包んで旦那をお見送りしていた。芸者の出だと言う噂があった。そこの子は母親によく似ていて色白で細い流し目をしていた。
 その子は途中から転校してきたのだった。その子の鼻歌は『上野の山から九段まで~』と、浪花節だった。だから学校の帰り道、三人で作り話を交替でしながら帰るのが常だったが、彼の話はいつも艶っぽくて男女の話がほとんどで、子供の癖に凄い事を知っているなと内心驚いてばかりいた。

 一所懸命に思い出そうとしているのだが、子供の頃の女の子との記憶がほとんど無いので我ながら驚いているのである。前出のM上さんちの栄子は女の子には入ってなく、近くの道庁の官舎にいたS保さんちの邦子さんは男っぽくて駄目、同じく道庁官舎のY道さんちの子はいつも病身でめそめそしていて母親の陰に隠れていた。と言う事は、私自身がまだ男になりきって居らず、男の目で見ていなかったと言う事なのだろう。

 男女の事が少し分かってきたのは、小学校の五、六年の頃だと思う。
家にあった主婦の友を母親に隠れて読んだ。局所と言う字を辞書をで引いてなるほどと感心したりしていた。

******************************

 小学校六年の夏休みの8月15日、母が子供達を縁側へ集めた。上の姉二人は援農に言ってまだ帰っていなかった。
奇妙なアクセントの言葉が聞こえてきたが、理解はできなかった。
母は泣いていた。

 その放送を境に、全てのものがひっくりかえってしまった。白が黒になり黒が白になった。神が人間になり、敵が味方になった。
子供には何がなんだか理解できなかったが、何か大変な事が起こったという事だけはなんとなく分かった。



コメントを投稿