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大堰の別邸―源氏物語第18帖 松風の巻その1

2013-05-31 09:28:49 | 源氏物語
―源氏物語を読もうとして、須磨明石までは読み進める人は多いと思います。
でも、作家の現代語訳としても、明石以降はちょっと続かない、
その繰返しできたように思います。
原文を読み始めて、それもひとりではなかなか読めないので、大学の講座を聴講してきたのですが、
原文に親しむにつれ、あまりに多くのものがその背景に、
詰まっていて、どこまでも尽きることなく奥が続いている、
そういう感慨に至ります。

松風の巻もそのひとつです。
明石の君の上京を促すべく動いたのは、入道でした。
源氏の言辞だけでは、明石の君の“身のほど”の嘆きを払拭することができなかったからでした。
姫君をこのまま明石にとどめておくこともできない、と明石一族は思ひ嘆く日々であったのです。
ここで、大堰の別荘が突如登場、
この別邸はどういうものか、
その謂れはそのまま明石の君の血統を語ることになるんですね。

  母君の御祖父、中務の宮
  と聞えけるが領じたまひける所
  大堰川わたりにありける


ここで指摘できることは、
 1 母方は皇族の血筋であること
 2 中務の宮は史実の人物(醍醐天皇の皇子兼明親王)
  を想定していたのではないかということ
 3 この別邸は天龍寺かその近くの臨川寺に比定されること
とのこと。
物語としては1が重要になってきますが…
  

ここでもうひとつ重要な伏線がこの巻の冒頭で語られていること、
気付かされます。
―これだから、講座で研究者の話を聴く甲斐があるというものです。

二条東院が完成し、花散里が西の対に移り住み、東の対には明石の君の住いに北の対にはその他の女君たちを予定されていたのですが、
母屋である寝殿は、源氏自身の泊る所として空けてある

  寝殿はふたけ給はず

これに注目するんですね。
本邸の二条院はというと、西の対に紫の上、東の対は源氏の住い、北の対は源氏お付きの女房たち、寝殿はやはり基本的に空いている

この状態を中世の注釈書「河海抄」はいう。
  寝殿は妻室の居所なり、
  源氏はいまだその人なし
  さるやうありて、ふたけす、とあるか
そして、漢籍の「礼記」を引いて
  妻とは、聘(招聘:婚姻の儀式)をなした者
  妾は、聘を経ていない者
と区別されていたという。

紫の上は身分的には親王の血を引き、
寵愛されほとんど正妻扱いだったにもかかわらず、
略奪結婚であったため、世間的には妻とは認められていなかった、
ことがわかります。
これは何を意味するか、
後半若菜の巻で、女三宮を正妻として迎えることになる、
伏線というわけす。

紫式部はどこまで先を構想して、この巻を執筆していたのか、
その根拠として、この巻の冒頭
  東の院造りたてて
実は澪標に造営の構想が語られてから2年半かかっていることになり、
この広さの邸宅にしてはかかりすぎ、らしい。
つまり、作者自身の構想を練る時間が費やされた、といえるかもしれない、
ということらしい。
ここまで、深読みできるとなると、
平伏、ですね。
  

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