熊本ラーメンで知られた桂花が事実上倒産して、民事再生法の適用を申請した、ということをあるブログの記事で知った。桂花ラーメンといえば、マー油を使ったあの独特の味。桂花自体は東京や横浜などにも店舗展開しているが、あの味のレシピは本店のごく限られた者しか知らない、まさに桂花のトップシークレットだという話をどこかで読んだか聞いたかしたことがある。
かく言う私も、会社員時代は横浜のビブレ21や渋谷のプライム(当時)の桂花にはよく通ったものだった。それが、この頃はトンとご無沙汰で、渋谷に行く機会はあってもセンター街の店に行ったのは、覚えている限りここ3年くらいで一度しかない。
そんなこととない交ぜになって、上記のブログの記事が妙に気になった。
私が桂花に行かなくなったのは、食べるのもをキネシオロジー的に筋反射テストで決めるようになったという事情によるものなので、このブログの筆者とは違うが、それでも思う。──そうか…あの桂花ラーメンでさえ陳腐化してしまったということなのか、と。
陳腐化というのはマンネリとも似ているが、マンネリとはどこか違うような気がする。これはあくまで私の中での定義だが、マンネリが「同じものばかりで飽きられてしまう」というニュアンスなのに対して、陳腐化というのは「ふと気づくと、時流から取り残されてしまった」というような感じ。そう、上でブログの筆者が「社会全体がめまぐるしく変化する中で、90年代から止まっているような」と書いている、あの感じだ。
だから、マンネリがどこか滑稽なのに対して、陳腐さには「気づいたら、そこには誰もいなかった」的な、とても物悲しさを感じる。桂花もまた、そんなところにポツネンと立っていたのだろうか。
かく言う私も、会社員時代は横浜のビブレ21や渋谷のプライム(当時)の桂花にはよく通ったものだった。それが、この頃はトンとご無沙汰で、渋谷に行く機会はあってもセンター街の店に行ったのは、覚えている限りここ3年くらいで一度しかない。
そんなこととない交ぜになって、上記のブログの記事が妙に気になった。
実は昨年、10年ぶりに食べる機会があったのだが、ずいぶん淡白な味になったなと感じたことをおぼえている。
いや、薄くなったとか不味くなったとかじゃなく、新鮮味がないというかなんというか。
社会全体がめまぐるしく変化する中で、90年代から止まっているような印象をもってしまった。
(中略)
桂花ラーメンは明らかに変わっていなかったように思う。僕らみたいに二十歳前後に通っていた人間にとっては懐かしいけれど、そうでない人間にとっては、いまや普通のラーメンにしか映らなかったのではないか。正直言うと僕自身、わざわざ新宿まで食べに行こうとは思わないし、行ったら行ったで別の店に行くような気もする。
私が桂花に行かなくなったのは、食べるのもをキネシオロジー的に筋反射テストで決めるようになったという事情によるものなので、このブログの筆者とは違うが、それでも思う。──そうか…あの桂花ラーメンでさえ陳腐化してしまったということなのか、と。
陳腐化というのはマンネリとも似ているが、マンネリとはどこか違うような気がする。これはあくまで私の中での定義だが、マンネリが「同じものばかりで飽きられてしまう」というニュアンスなのに対して、陳腐化というのは「ふと気づくと、時流から取り残されてしまった」というような感じ。そう、上でブログの筆者が「社会全体がめまぐるしく変化する中で、90年代から止まっているような」と書いている、あの感じだ。
だから、マンネリがどこか滑稽なのに対して、陳腐さには「気づいたら、そこには誰もいなかった」的な、とても物悲しさを感じる。桂花もまた、そんなところにポツネンと立っていたのだろうか。
しかしながら関西の麺類事情でもつい4~5年前飛ぶ鳥を落とす勢いだったお店も後続が二匹目のドジョウを狙って同じような商品を提供し、さらには他のお店がまったく違う商品を出すうちに君臨していたはずのその位置には誰もいないなんてことがありました
確実に市場は動いています
マンネリはひたすら同じことを続けても多くの人に見られている場合を言い、非難と称賛の対象になりうるのでしょうが、陳腐なのは動きが見えず非難の対象にすらならないということなんでしょうかね
マンネリと陳腐の他にもう一つ、ワンパターンという言葉もあります。
ワンパターンという言葉はマンネリや陳腐と重なる部分がありますが、同時に、それを極めるとそれ自体が一つの価値を持ってしまうようなニュアンスも感じます。例えば『水戸黄門』のように。
とすると最後は、マンネリにも陳腐にもならずに、いかにワンパターンを極めるか、というところに行き着くのかもしれません。