キネシオテーピング協会主催の『キネシオーテーピング学術臨床大会』に行ってきた。この『学術臨床大会』は協会本部が年1回行っているもので、キネシオのプラクティショナーが全国から参加する。実は(昔の呼称で言う)キネシオの指導員は大会参加が義務、ということになっているが、いろいろな理由で参加しない/できない人も多いので、イスラム教徒の「メッカ巡礼の義務」のような“努力義務”になっているのが実態である。
私もキネシオの指導員(現在は制度が変わって、CKTIという名称になった)ではあるが、自分ではセミナーはやってないし、治療の中でテーピングが占める割合もどちらかと言えば小さいので、普段あまりキネシオというものを意識していない。だから、この『学術臨床大会』に(しかも北海道とか九州とかのような遠くから)参加している人たちのような、熱心な“キネシオ使い”の中にいると、どうも場違いな感じがしてしまう。
それでは、なぜ私は自分がそれほど使っていないのに、丸1日(実際には土日の2日間行われるが、土曜日は治療院の仕事があるため参加していない)費やしてキネシオの大会に出ているのだろう? それが今回やっとわかった。
治療家というものは多かれ少なかれ同じような傾向があると思うのだが、ある一つの治療法なり治療体系なりを学んで、それを使い、磨きをかけ、それなりの結果を出していると、だんだん「心が狭くなっていく」ものなのではないだろうか。自分が身につけ、ある意味、体の一部になってしまったような治療法には愛着が生まれるが、逆にそれゆえに、それとは違う体の見方や治療をだんだん認められなくなってくる。
私が鍼灸学校に行っていた頃のことだが、あるアメリカ人の講師によるアメリカにおける代替医療の状況についての講演があった。その講演の最後のQ&Aで、講演を聴きに来ていた鍼灸師の一人が「アメリカで、カイロプラクティックなんかを外して鍼灸だけを代替医療として認めさせることはできないですか?」のような質問をしていたのを、良く覚えている。私はカイロを学んだ後に鍼灸学校に入ったので、その質問に日本の鍼灸師の歪んだ優越感のようなものを見たような気がした──日本ではカイロプラクティックなどは国家資格にはなっていない上、鍼灸治療には長い歴史があるせいか、「それを身につけた我々は、他の治療家とは違う」という思いを持っている人が他の施術をやっている治療家よりも多いような感じを、私は当時から持っていた。
が、仮にそうだとしても、もちろんそれは鍼灸師だけのことではない。カイロプラクターもオステオパスもアロマテラピストも、それを好きになり、それにのめり込んでいけばいくほど、それが最上のもののように思え、その方向からしかものを見なくなり、それ以外のものの見方をすることを心の底では軽蔑するようになる──あぁ、あの人たちは「本当にものを見る」ということがどういうことかわかっていない。かわいそうに…、と。こうして「心が狭くなっていく」のである。
そして更に始末が悪いのは、多くの人が「自分は心が狭くなっている」ということに気づいていないことだ。先に書いた、あの質問をした鍼灸師の先生も、そんな指摘をしたら「自分は決してそんなつもりで質問したわけじゃない。ただ自分は、鍼灸こそ代替医療にふさわしいと思っているだけだ」と言っただろう。
さて、キネシオの大会の話だ。私にとって久しぶりのキネシオの世界はとても刺激的で、そこで思い出したこと、新たに気づいたことがあったと同時に、そのことを批判的に評価する心の声を聞いた。
「何だ、××について全く考慮してないじゃなないか。ダメだな」
「これだけで済むワケないじゃん。きっと何かを見落としてるよ」
…なるほど。私もずいぶん「心が狭くなっている」。いや、自分がそうであることに気づいていなかった。
この大会に出たからといって、急にテーピングがうまくなるわけでもなく、臨床にガンガン、テーピングを取り入れるようになるわけでもないだろう。ただ、ここで教わり知った、体を見る新しい視点は、多分いつかきっと役に立つ時が来る。しかしそれ以上に、「自分の心が狭くなっていた」こと、そしてそれに気づいていなかったことに気づけたのは大きい。それによって私の心が急に広くなることはないとしても。
私にとってキネシオの大会は、そのことを気づかせてくれるものだったのである。
私もキネシオの指導員(現在は制度が変わって、CKTIという名称になった)ではあるが、自分ではセミナーはやってないし、治療の中でテーピングが占める割合もどちらかと言えば小さいので、普段あまりキネシオというものを意識していない。だから、この『学術臨床大会』に(しかも北海道とか九州とかのような遠くから)参加している人たちのような、熱心な“キネシオ使い”の中にいると、どうも場違いな感じがしてしまう。
それでは、なぜ私は自分がそれほど使っていないのに、丸1日(実際には土日の2日間行われるが、土曜日は治療院の仕事があるため参加していない)費やしてキネシオの大会に出ているのだろう? それが今回やっとわかった。
治療家というものは多かれ少なかれ同じような傾向があると思うのだが、ある一つの治療法なり治療体系なりを学んで、それを使い、磨きをかけ、それなりの結果を出していると、だんだん「心が狭くなっていく」ものなのではないだろうか。自分が身につけ、ある意味、体の一部になってしまったような治療法には愛着が生まれるが、逆にそれゆえに、それとは違う体の見方や治療をだんだん認められなくなってくる。
私が鍼灸学校に行っていた頃のことだが、あるアメリカ人の講師によるアメリカにおける代替医療の状況についての講演があった。その講演の最後のQ&Aで、講演を聴きに来ていた鍼灸師の一人が「アメリカで、カイロプラクティックなんかを外して鍼灸だけを代替医療として認めさせることはできないですか?」のような質問をしていたのを、良く覚えている。私はカイロを学んだ後に鍼灸学校に入ったので、その質問に日本の鍼灸師の歪んだ優越感のようなものを見たような気がした──日本ではカイロプラクティックなどは国家資格にはなっていない上、鍼灸治療には長い歴史があるせいか、「それを身につけた我々は、他の治療家とは違う」という思いを持っている人が他の施術をやっている治療家よりも多いような感じを、私は当時から持っていた。
が、仮にそうだとしても、もちろんそれは鍼灸師だけのことではない。カイロプラクターもオステオパスもアロマテラピストも、それを好きになり、それにのめり込んでいけばいくほど、それが最上のもののように思え、その方向からしかものを見なくなり、それ以外のものの見方をすることを心の底では軽蔑するようになる──あぁ、あの人たちは「本当にものを見る」ということがどういうことかわかっていない。かわいそうに…、と。こうして「心が狭くなっていく」のである。
そして更に始末が悪いのは、多くの人が「自分は心が狭くなっている」ということに気づいていないことだ。先に書いた、あの質問をした鍼灸師の先生も、そんな指摘をしたら「自分は決してそんなつもりで質問したわけじゃない。ただ自分は、鍼灸こそ代替医療にふさわしいと思っているだけだ」と言っただろう。
さて、キネシオの大会の話だ。私にとって久しぶりのキネシオの世界はとても刺激的で、そこで思い出したこと、新たに気づいたことがあったと同時に、そのことを批判的に評価する心の声を聞いた。
「何だ、××について全く考慮してないじゃなないか。ダメだな」
「これだけで済むワケないじゃん。きっと何かを見落としてるよ」
…なるほど。私もずいぶん「心が狭くなっている」。いや、自分がそうであることに気づいていなかった。
この大会に出たからといって、急にテーピングがうまくなるわけでもなく、臨床にガンガン、テーピングを取り入れるようになるわけでもないだろう。ただ、ここで教わり知った、体を見る新しい視点は、多分いつかきっと役に立つ時が来る。しかしそれ以上に、「自分の心が狭くなっていた」こと、そしてそれに気づいていなかったことに気づけたのは大きい。それによって私の心が急に広くなることはないとしても。
私にとってキネシオの大会は、そのことを気づかせてくれるものだったのである。
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