吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

蓼科保養学園Ⅱ

2015年10月28日 | Weblog

蓼科保養学園に行っていた友人たちとは、今はあまり交流がない。

    いや、しばらくは文通をして付き合っていた女子がいた。

           まあ甘酸っぱい青春の思い出である。

彼女はしばらくしてから、養女にいったのだがその家が

僕の入った学校の創立者が理事長をしている霊友会に入っていると知ったのは

  諏訪に帰ったとき彼女の家に行った時のことである。

思いがけない偶然というのは、すぐそこにあるのだなと感じた。

            それは余談として、脇に置いておこう。

さて、蓼科保養学園であるが 期間は7月3日に入園して9月20日に退園する。

その期間内に1日だけ家族に会える面会日というのがある。それが8月5日であった。

その日にとった写真が、後にも先にも保養学園の生活を垣間見ることが出来るものだ。

1日なので学園を知るには少ないが、ご覧いただければと思う。

この日は僕も水泳(プール遊び)を許され、弟と一緒に暑い日の中を泳いだ。

男子は手拭いをかぶっている。日よけのためである。

後ろがそれぞれの班の寝泊まりする部屋になり、廊下には干し物がかかっている。

廊下前には冬を過ごすための薪がストックされていた。

廊下はこんな風になっている。班別行動である。僕は生活委員だったので、先頭にいた。

作品を教室に飾ったりしてある。

自由時間がとられていて、家族と一緒に遊びに行けた。我が家は父・母・弟・祖母と一緒に、蓼科湖に行った。

それぞれに自由時間を楽しみ、帰ってきてから茶話会が開催された。

日記を見ると「いただきます」を、僕が言った様である。

  当時の日記や生活委員の時のノートやらがまだとってある。

あまりきれいでないというか、きたない字なので恥ずかしい次第だが。

当時の事がいろいろと思い出せる。この年になるとなかなか覚えていることは少ないが、

こうしたきっかけがあると結構思い出せるものだと驚いている。

良く残っていてくれたと、感激をしている。

     何が変わったのかはわからなかったが、きっとこの学園での経験が

  中学・高校・大学を経て、勤めた会社や周りの人たちとの絆に一役かっているのだろうと思うと

感謝の一言では言い表せないものがある。

 


蓼科保養学園

2015年10月13日 | Weblog

僕はこの御柱の2か月後に、蓼科保養学園に行く事となった。

「蓼科保養学園は、身体の虚弱な児童の健康増進を図るために1923年(大正12年)に小沢侃二によって設置され、1948年(昭和23年)に諏訪市に寄贈、1952年(昭和27年)から虚弱児施設として運営されてきた。近年では児童福祉施設として、希望児童を広く受け入れるようになっている。 対象となる児童は諏訪市内の小学校5年生で、ほぼ各小学校の児童数に比例して、年間を4期(第1期から第4期まで、各3ヶ月)にわけて各期男子20名、女子20名の40名、年間計160名を限度に受け入れている。 入園児童は約3ヶ月の間親元を離れ、共同生活を送る。その間親と会えるのは中間点に設けられた面会日のみであり、それ以外の連絡は全て手紙で行う。

市職員の生活指導員2名と保育士4名が交代制で生活指導を行い、児童の生活をサポートする。また、小学校教諭2名が学習指導を行い、通常の小学校と同様に学習も進められ、退園後に各小学校で授業に対応できるよう配慮されている。栄養が考慮された手作りの食事が、朝、昼、おやつ、夜と提供される。

毎日の生活は平日・土曜日・休日に分かれてタイムテーブルが決まっており、それにあわせて生活する。」

僕の小学校からは女子1名・男子1名が選出?されて、この学園での共同生活を経験した。

僕はどうも貧血症らしかったようで、血沈の沈殿速度が速かったのを覚えている。

きつかったのは水泳禁止という事だった。友達たちが楽しそうに泳いでいるのを見ているのは、結構つらかった。

それでも先生の許可を得て、何回か泳いだ覚えがあるがその度に血をとられ、

             検査されたのをこれを書いていて思い出した。

学園では生活委員をやっていて、その時の日記や委員会のノートを今でも持っている。

写真はいろいろあるが、今日のところは父たちが来た面会日の写真と

学園を出たのち冬に先生たちを訪ねた時の写真を載せておくことにする。

父・母・祖母・弟と僕である。父はこの時清陵高校の教師であった。

                             気を付け  をしている僕。

  ここでの生活は新しい経験ばかりであった。この当時の友人と今もやり取りをしている。

奇妙な縁で出会った友人もいる。

             ここに居たのはもう53年も前の事である。


御柱祭参加

2015年10月07日 | Weblog

僕が小学校5年生のとき、昭和37年寅年に御柱祭があった。

その時騎馬行列の中の草履とりをやった。

どういった経緯なのかはわからないが、小学5年生2人・小学6年生2人の中に

二軒下の家の同級生と参加することになった。

衣装はおふくろや祖母が中心になって、近所の人たちと縫ったようだ。

色付きでないのが残念だが、ブルー・イエロー・レッドと目立つ色彩だった。

自分で言うのもなんですが、結構可愛いでしょう?

近くの家のおじいさんたちに所作を教わりに行き、学校から帰ってから

休みの日もずっと練習をしていた記憶がある。

隣で傘を使った所作をしているおじさんたちとも合わせなくてはいけないので

     それが大変だったことを覚えている。

草履をうまく置くことができるまで、時間がかかった。

  もし来年御柱祭を見に行った時に、騎馬行列にあったらみてください。

そこそこ見ごたえのあるものだと思います。

これはちょうど我が家の前で披露しているところである。

各家の前でやるわけではなく、ご祝儀を出してこの踊りをやってくれと頼まれることもある。

      とにかくひたすら歩いては踊り・踊っては歩くというのが、

二日間続くのであるから大変な重労働であった。

草鞋は予備で1足持っているのだが、一日で2足ともすり切れた。

誰でもできるわけではなく、ちょうどその年にその学年になっていないと選ばれないわけだから、

      大変貴重な経験をしたと思っている。

東京に出ていく前にいい思い出となった、出来事である。

 


大正15年の御柱祭

2015年09月18日 | Weblog

来年が御柱祭の年になるが、大正15年の御柱祭は、我が家にとっては大変だったらしい。

曽祖父である一太郎が秘書をやっていた政治家小川平吉が、

犬養毅(政友会総統になる前)を我が家の二階に招き、御柱祭を見物したのである。

父は当時3歳であったので、あまり記憶はなかったようだが写真には写っている。

小川射山は小川平吉の事である。犬飼木堂先生御席の左・子供を抱えているのが犬養毅である。

小川平吉はその隣、平吉の隣には奥さんも座っている。

小川射山先生御席と書いてある左に丸坊主頭の子供がいる。それが父・日出男である。

曽祖父・一太郎は写真下、烏帽子をかぶった子供の右にいる。その隣が祖父・自由也である。

この2階で、40年後位に明法学院の合宿で生徒たちが寝起きしたり勉強したりしている。

中庭にも騎馬行列が入り、騎馬行列恒例の草履取りの踊りが催されている。

この当時は、後ろに離れ(書院)があった。数年後には祖父のアイロンの不始末で焼けてしまう事になる。

今は見慣れている枯山水の庭を作り、様相が一変することとなっていく。

この当時の新聞が残っている。この新聞をネタに、父は一冊の本を作っている。

結構読むと当時の風俗がわかっておもしろい。そのうちに機会があったら掲載してみたい。

いまはもう家も壊してしまって無いが、壊す前の写真が残っているので載せておく。

 


中洲の記憶

2015年09月12日 | Weblog

エビス〇板店と読める写真。幟には祝 出征 三村順治君とある。

後列の左から4番目に祖母直江・6番目に祖父自由也(じゅうや)が写っている。

僕の記憶にあるエビス屋は、お菓子屋だったように思う。

  12月31日の夜中上社へ2年参りに行くときに、

            ここでフクトクというお菓子を買うのが楽しみだった。

丸いうす焼きせんべい(大社せんべい)のようなものを三角に折り、中に小さな玩具が入っていた記憶がある。

  僕の家の近くと北斗神社の下に1軒づつあったような・・・。定かではない。

下の写真には、後列右1番目に祖母が写っている。

 帝国在郷軍人会という看板が掲げてあるが、【僕の通っていた中洲小学校の様である。】と

見たときに思ったが、どうも右端に少し見える文字から《中洲村役場》ではないかと思う。

下の写真は、間違いなく中洲小学校だと思う。

校庭から教務室や図書室に入っていく入口の前だろう。

                      brass bandがあったようだ。

僕の祖母や祖父が写っているから、結構この写真で見る人が見れば

            顔のわかる人がいるのではないか?


中洲村の戦時

2015年08月25日 | Weblog

写真を整理しながら、戦後を考えていた。

ブログやホームページでも掲載しているが、

僕の父は昭和20年5月25日渋谷で空襲を経験し、

8月5日にあの湯の花トンネル列車銃撃事件にも遭遇している。

湯の花トンネルでは寸でのところで、生き残る事が出来たという。

写真は慰問袋づくりをしている祖母をはじめとした、

中洲村の愛国婦人会の人たちの様子を写したものである。

皆どんな思いでいたのであろう・・・。何かの資料になればいいと思っている。

僕の叔父も特攻隊に志願し、訓練を受けたが特攻当日に終戦となり

  中洲に帰ったそうである。帰ってくるときは、恥ずかしくて

隠れるようにしてきたという話を聞いている。

         そして軍隊での無理がたたったのか、25歳でこの世を去った。

なかなか素敵な叔父だったそうである。会ってみたかったと思う。

  人生は時として残酷である・・・。


峠入口バス停脇

2015年08月18日 | Weblog

茅野から前宮前・高部を通り・守矢資料館を過ぎて

西沢川を渡ると、峠入口のバス停がある。

余談ではあるが、僕の小さい頃西沢川は《天井川》と呼ばれていた。

今は工事をして低くしてしまったが、昔は道路の上を川が流れていたのだ。

残念ながらその写真を探したが無いので、何とも歯がゆい。

御柱の時の写真に、その橋の上から見物する人たちが見えるものがあったような・・。

県道であるこの道は年々交通量が増え、大型のトラックなどが通るのに

ぎりぎりになったので壊されて、改修されたとか・・。

よくこの土手に登って、イタドリやグミ(桑の実)・土筆や芹・よもぎ等を

取りにいったものだ。そんな懐かしいものは今はほとんどない。

          そろそろ本題に戻ろう。

そのバス停の脇に、新しい塀と土留めの石が積まれている。

そこに、道路に向かって碑が建っている。

これは先日高祖父彌平治に関係するもので、《守矢翁頌徳碑》という。

           彌平治は鹿乙として鹿肉納入最後の人であったという。

  浄瑠璃曲をよくやって、門人も300人余りいたそうである。

その彌平治が七十歳の時、門人たちがこの碑を建てその徳をたたえたそうである。

末尾にあるように、撰文は小川平吉(政治家で曽祖父がこの人の秘書をしていた)。

書は中村不折(洋画家であり書家である。そして祖母の叔父にあたる)が書いている。

よく拓本を取りに来る人が絶えなかったようだ。

親父たちが夏帰ると、学生らしき人が拓本をとらせてほしいと来たという。

しばらく敷地の中にあったが、これも一里塚と同様修復していただけてある。

不折氏の字を使って彫られたものは、我が家にはいくつもあるが。

  ぼくの大好きな文字は《天壌無窮》。これは僕の祖父が彫ったものだが、

 ー 天地とともに永遠に極まりなく続く様 ーなんとも雄大な言葉だと思う。

なんとも、その道の凄い人たちがこの場所で生きていたと思うと、

             感動を覚えざるを得ない。

来年は御柱祭がある。前宮から上社本社への道にあるので、機会があればご覧ください。

 


我が家の屋敷神

2015年08月13日 | Weblog

古い文献に、などというと「おっ!」と思うが

僕の手元にあるのは、大正六年の信陽新聞の切り抜きである。

ここに特集が組まれ、僕の家の歴史が書かれている。

僕の高祖父『彌平治』という人の事が書いてある。

その中に我が家の屋敷神についての記述がある。

【又 守矢氏の屋敷(やしき)神(かみ)を鹿(しか)乙(おと)明神(みょうじん)と呼べるが

 其(その)祭神(さいじん)を詳(つまびら)かにせざれどそのみ贄(にえ)の鹿(しか)に関係あるは

 推考(すいこう)するに難(かた)からず。

 鎌倉時代の上社の諷物(もの)『諸神(しょしん)勧(かん)請段(だん)』ちうにも

 所載(しょさい)あれば其(その)由緒(ゆいしょ)の古きを證(しょう)すべし。】

     韻を踏んだ唱がその後に続いている。

古い写真を整理しているときに、それらしい祠の写真を見つけた。

この手の事で世話になっている方に知らせると、早速ホームページに掲載されていた。

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/sikaoto.htm (ご覧ください)

昇り旗は(初午)となっているので、どうも稲荷を祀っているような感じ?

商売をやっていたこともあり、そういった風習があったのだろうと漠然と思った。

ただこの土地には〇〇牧といって、同じ系譜を持つ苗字の集まりがあったと記憶している。

   それの牧の集まりが、初午だったように覚えている。

上社には神馬の対の像もある。それがどう繋がるのかはわからないが、興味のあることではある。

いずれにしろ、我が家の屋敷神が祀られているのは天狗山。

僕はその場所に行ったこともないのだが、行ってみたいと思う。

 


鹿食免

2015年08月08日 | Weblog

諏訪大社上社の近くに、諏訪市博物館がある。

ここに父の名前で寄託しているものがある。

上社のお札などを売っているところで目にすることもある物の版木だ。

昔々我が家の先祖が上社の大政所という職についていた時に、使っていた物らしい。

それを「鹿食免」という。

      

蔵を片付けているときに発見したという事だ。

これ以外に何枚かの版木があったという事だが、燃やしてしまったらしい。

まあ何という事だろうというしかない!!

昔仏教が伝来した時、肉を食べるのは禁止という事になった。

しかしそうは言っても、上社の神事に欠かせないのが鹿である。

しかも肉食という文化は連綿と続いてきたものなので、逃げ場を作ったのである。

このお札を持つことで肉を食べるのを許されるという、口実である。

箸袋に刷り、その箸袋に入れた箸で肉を食べれば許されたのである。

その後甲州一帯の鹿肉・上社の神事で使う鹿肉の全てが我が家を経由したのである。

それと同時にこの鹿食免を全国にいる肉を食べたい人たちを救済するかのように、

津々浦々まで諏訪神社が出来ていく事になったのである・・・・と、僕は思っている。

 


きもちの問題

2015年08月07日 | Weblog

気持ちを改めてみるために、レイアウトを変えました。

カバー写真は以前我が家のあった所に、倒されておいてあった石柱(一里塚?)を

市にお願いして、新たにできた歩道に建てていただいた時の写真です。

      

     

旧杖突街道の入り口になります。バス停は《峠入口》となっています。

  

 この上に行くと、藤森輝信氏の建てた高過庵と泥船があります。

  あまり上手に撮れていません・・。

http://matome.naver.jp/odai/2139015961027337701

藤森氏は守矢資料館を建てたことでも知られています。

守矢神長官の現当主守矢早苗さんと同級生という事で頼まれたとか・・・聞いてます。

郷里に帰り、友人たちと飲み喋り。昔を思い出しました。

自分のルーツはここにあるのだと。家は無くなろうと、僕はここに居たんだと!

ここで育って、泣いて笑って怒って遊んだんだよ。

        強くそう思った次第 

     緑なすふるさとは 離れてこそなお 我がふるさと。  翔