吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

蓼科保養学園

2015年10月13日 | Weblog

僕はこの御柱の2か月後に、蓼科保養学園に行く事となった。

「蓼科保養学園は、身体の虚弱な児童の健康増進を図るために1923年(大正12年)に小沢侃二によって設置され、1948年(昭和23年)に諏訪市に寄贈、1952年(昭和27年)から虚弱児施設として運営されてきた。近年では児童福祉施設として、希望児童を広く受け入れるようになっている。 対象となる児童は諏訪市内の小学校5年生で、ほぼ各小学校の児童数に比例して、年間を4期(第1期から第4期まで、各3ヶ月)にわけて各期男子20名、女子20名の40名、年間計160名を限度に受け入れている。 入園児童は約3ヶ月の間親元を離れ、共同生活を送る。その間親と会えるのは中間点に設けられた面会日のみであり、それ以外の連絡は全て手紙で行う。

市職員の生活指導員2名と保育士4名が交代制で生活指導を行い、児童の生活をサポートする。また、小学校教諭2名が学習指導を行い、通常の小学校と同様に学習も進められ、退園後に各小学校で授業に対応できるよう配慮されている。栄養が考慮された手作りの食事が、朝、昼、おやつ、夜と提供される。

毎日の生活は平日・土曜日・休日に分かれてタイムテーブルが決まっており、それにあわせて生活する。」

僕の小学校からは女子1名・男子1名が選出?されて、この学園での共同生活を経験した。

僕はどうも貧血症らしかったようで、血沈の沈殿速度が速かったのを覚えている。

きつかったのは水泳禁止という事だった。友達たちが楽しそうに泳いでいるのを見ているのは、結構つらかった。

それでも先生の許可を得て、何回か泳いだ覚えがあるがその度に血をとられ、

             検査されたのをこれを書いていて思い出した。

学園では生活委員をやっていて、その時の日記や委員会のノートを今でも持っている。

写真はいろいろあるが、今日のところは父たちが来た面会日の写真と

学園を出たのち冬に先生たちを訪ねた時の写真を載せておくことにする。

父・母・祖母・弟と僕である。父はこの時清陵高校の教師であった。

                             気を付け  をしている僕。

  ここでの生活は新しい経験ばかりであった。この当時の友人と今もやり取りをしている。

奇妙な縁で出会った友人もいる。

             ここに居たのはもう53年も前の事である。


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1 コメント

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2015-10-20 20:51:10
すっかり忘れているので、あー確かにそうだったと思い出してます。
私も水泳の時は、みんなより15分早くプールを出なければならず、体調が悪く外出禁止になったりもしましたわ。
外出禁止が解けた日に、立ち幅跳びをしたら、両太ももの毛細血管が切れて、一面に細かい紫斑が出てびっくりでした。
やっぱり、まさしく虚弱児だったんですね。
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