吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

諏訪の薬食い。鹿食免と我が家。

2018年08月29日 | Weblog

 我が家は「守矢家」という諏訪大社上社の神事を司った神長官の唯一の分家であり、大政所として《鹿食免》を発行する要職も務め、職を辞した後は神社と甲信一帯への鹿肉の納入・販売の一手を行い、交通の要所である杖突街道の入り口で茶屋を営む事を生業として代々続いて来た家である。すでにホームページに「守矢日出男百科」と称して父達の様々なものを掲載しているが、FBにジビエとして定着してきた鹿肉と我が家の事を書いておこうと思う。昭和4年6月23日から11日間に発行された信陽新聞に『龍門紀傳』として載っている守矢如瓢が僕の高祖父である。最後の鹿乙と呼ばれ、鹿を狩る事も生業であったようだ。鹿肉を神饌として上社に収めるとともに、甲州一帯への鹿肉が我が家を通していた。龍門紀傳には、こうある
【神宮寺(じんぐうじ)守矢(もりや)氏(し)の納入(のうにゅう)せる鹿肉(ろくにく)は諏訪神社緒祭典唯一(すわじんじゃしょさいてんゆいいつ)の御贄(みにえ)なるは緒(しょ)記録(きろく)記載(きさい)の如(ごと)くなるが往古(おうこ)は四月十五日の酉の祭の如きは御頭(おとう)郷(ごう)よ...り鹿(ろく)肉(にく)三百三十貫白鷺(しらさぎ)一羽其(その)他(た)種(くさ)々の供物(くもつ)を収めたるものにて、中世(ちゅうせい)は鹿肉三十三貫(かん)となり、現今(げんこん)は僅(わづか)に三貫(かん)三百匁(もんめ)となり、それさへ年によりては缺(けつ)乏(ぼう)して他の代品を供するにいたれり。而(しか)して往古(おうこ)此(この)鹿(ろく)肉(にく)は斯(か)く多量なりしを以て、社頭(しゃとう)にてはこれを鹽(しお)ゆでとし神(じん)符(ふ)として一般の参詣者に下げたるものにて既記(きき)鹿食(しかじき)の免(めん)として箸(はし)を出(いだ)したるはこれが為なり。又守矢氏の屋敷(やしき)神(かみ)を鹿(しか)乙(おと)明神(みょうじん)と呼べるが其(その)祭神(さいじん)を詳(つまびら)かにせざれどそのみ贄(にえ)の鹿(しか)に関係あるは推考(すいこう)するに難(かた)からず。鎌倉時代の上社の諷物(もの)『諸神(しょしん)勧(かん)請段(だん)』ちうにも所載(しょさい)あれば其(その)由緒(ゆいしょ)の古きを證(しょう)すべし。】
【大政所(おおまんどころ)職(しょく)たりし関係を以て上社神饌(しんせん)の第一たる鹿を一手に納入し、副業として神(しん)符(ふ)の鹿(ろく)肉(にく)を販賣(はんばい)し、鹿(しか)乙(おと)の名を馳(は)せしは古老(ころう)の皆(みな)知(し)るところなり。當(とう)時(じ)神社(しんしゃ)より特許(とくきょ)されし『鹿食之免(かじきのめん) 諏訪(すは)大祝』とある板木(はんき)は鹿(ろく)肉(にく)の箸(はし)袋(ぶくろ)に押せしものにて、この板木は往年(おうねん)守矢氏にて土蔵(どぞう)の修繕(しゅうぜん)をなせし時大戸(おおど)の上より発見せしものなり。なほ同家(どうけ)には大政所時代の『諏訪上(すわじょう)宮御玉會(ぐうおんたまえ)』『諏訪上宮(すわじょうぐう)大政所(おおまんどころ)』等の板木十数種類を傳來(でんらい)せしが、かかる考古学(こうこがく)研究(けんきゅう)資料(しりょう)を故ありて焼棄(しょうき)せしは惜(お)しむべきことなり。】
 文中の「鹿肉免」は諏訪博物館の二階に展示されている。ふすまの下張りに使われていた当時の台帳の一部も残る。そんな歴史を持っている家は、もう僕の時代で終焉を迎えることになりそうである。出来るだけ弟に資料を残そうと思っているが、いまこうして書き残し多くの人に知ってもらうのもいいだろうと書くことにした。
ジビエ 鹿肉 諏訪上社 大政所 鹿食免