吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

諏訪の薬喰い。鹿食免の話➁

2018年09月01日 | Weblog

FBの友人の投稿で思い出したことがあり、探し回ったところ見つけました!1996年に【鹿食免】の取材をNHKから受け掲載された記事です。NHK今日の料理1996 NO.31『男の食彩』という雑誌です。実際に肉の仕入帳を親父が持っている写真や鹿食免の版木などがきれいに映っていました。博物館で現物を出して写したのでしょう。興味ある内容なので、どうぞご覧ください。


諏訪の薬食い。鹿食免と我が家。

2018年08月29日 | Weblog

 我が家は「守矢家」という諏訪大社上社の神事を司った神長官の唯一の分家であり、大政所として《鹿食免》を発行する要職も務め、職を辞した後は神社と甲信一帯への鹿肉の納入・販売の一手を行い、交通の要所である杖突街道の入り口で茶屋を営む事を生業として代々続いて来た家である。すでにホームページに「守矢日出男百科」と称して父達の様々なものを掲載しているが、FBにジビエとして定着してきた鹿肉と我が家の事を書いておこうと思う。昭和4年6月23日から11日間に発行された信陽新聞に『龍門紀傳』として載っている守矢如瓢が僕の高祖父である。最後の鹿乙と呼ばれ、鹿を狩る事も生業であったようだ。鹿肉を神饌として上社に収めるとともに、甲州一帯への鹿肉が我が家を通していた。龍門紀傳には、こうある
【神宮寺(じんぐうじ)守矢(もりや)氏(し)の納入(のうにゅう)せる鹿肉(ろくにく)は諏訪神社緒祭典唯一(すわじんじゃしょさいてんゆいいつ)の御贄(みにえ)なるは緒(しょ)記録(きろく)記載(きさい)の如(ごと)くなるが往古(おうこ)は四月十五日の酉の祭の如きは御頭(おとう)郷(ごう)よ...り鹿(ろく)肉(にく)三百三十貫白鷺(しらさぎ)一羽其(その)他(た)種(くさ)々の供物(くもつ)を収めたるものにて、中世(ちゅうせい)は鹿肉三十三貫(かん)となり、現今(げんこん)は僅(わづか)に三貫(かん)三百匁(もんめ)となり、それさへ年によりては缺(けつ)乏(ぼう)して他の代品を供するにいたれり。而(しか)して往古(おうこ)此(この)鹿(ろく)肉(にく)は斯(か)く多量なりしを以て、社頭(しゃとう)にてはこれを鹽(しお)ゆでとし神(じん)符(ふ)として一般の参詣者に下げたるものにて既記(きき)鹿食(しかじき)の免(めん)として箸(はし)を出(いだ)したるはこれが為なり。又守矢氏の屋敷(やしき)神(かみ)を鹿(しか)乙(おと)明神(みょうじん)と呼べるが其(その)祭神(さいじん)を詳(つまびら)かにせざれどそのみ贄(にえ)の鹿(しか)に関係あるは推考(すいこう)するに難(かた)からず。鎌倉時代の上社の諷物(もの)『諸神(しょしん)勧(かん)請段(だん)』ちうにも所載(しょさい)あれば其(その)由緒(ゆいしょ)の古きを證(しょう)すべし。】
【大政所(おおまんどころ)職(しょく)たりし関係を以て上社神饌(しんせん)の第一たる鹿を一手に納入し、副業として神(しん)符(ふ)の鹿(ろく)肉(にく)を販賣(はんばい)し、鹿(しか)乙(おと)の名を馳(は)せしは古老(ころう)の皆(みな)知(し)るところなり。當(とう)時(じ)神社(しんしゃ)より特許(とくきょ)されし『鹿食之免(かじきのめん) 諏訪(すは)大祝』とある板木(はんき)は鹿(ろく)肉(にく)の箸(はし)袋(ぶくろ)に押せしものにて、この板木は往年(おうねん)守矢氏にて土蔵(どぞう)の修繕(しゅうぜん)をなせし時大戸(おおど)の上より発見せしものなり。なほ同家(どうけ)には大政所時代の『諏訪上(すわじょう)宮御玉會(ぐうおんたまえ)』『諏訪上宮(すわじょうぐう)大政所(おおまんどころ)』等の板木十数種類を傳來(でんらい)せしが、かかる考古学(こうこがく)研究(けんきゅう)資料(しりょう)を故ありて焼棄(しょうき)せしは惜(お)しむべきことなり。】
 文中の「鹿肉免」は諏訪博物館の二階に展示されている。ふすまの下張りに使われていた当時の台帳の一部も残る。そんな歴史を持っている家は、もう僕の時代で終焉を迎えることになりそうである。出来るだけ弟に資料を残そうと思っているが、いまこうして書き残し多くの人に知ってもらうのもいいだろうと書くことにした。
ジビエ 鹿肉 諏訪上社 大政所 鹿食免

         


さっぱり

2017年06月06日 | Weblog

前回の投稿から、半年以上が経っているのに驚いた。

最近は色々なことに首を突っ込んでは止め・突っ込んでは止めを

繰り返している。自分でも何をやりたいのかがはっきりしない。

元来飽きっぽいのか・・一つのことをやり終えずに次に進む・・

悪い癖が出てきているのだ。

今は、上社のことをいろいろ調べているが、素人のことなので

中途半端ですべてが終わってしまう。

最近はこんな本を手に入れ、眺めている毎日。さて・・・・どうしよう。

 


異人館街

2016年10月06日 | Weblog

神戸に行ったら北野の異人館街へ行って

萌黄の館に行きたいと思ったが、どうも今は改修工事中?という噂。

よく聞いてみると、NHKの朝ドラ「べっぴんさん」の舞台になったので

一か月は閉館ということだった。

ではその周りをうろつこうと思ったが、なにせ坂がきついのなんの!!

それでも何件かはお邪魔して、優雅な気分で散歩できました。

    

    


ちょっと神戸まで

2016年09月30日 | Weblog

最近女房の調子も良く出かける気になったのを機に、今月15~17日に

前の年に計画しながら泣く泣く中止した神戸に行く事にした。

車で行くつもりだったのを、女房が新幹線に乗って駅弁を食べたいというので

新幹線で行き、神戸での移動はレンタカーを借りることにした。

ホテルは《神戸メリケンパークオリエンタルホテル》海側のスウィート。

ベランダも広く海側だったが、夜景を見れる側の方がよかったかなとちょっと後悔。

    

   

  

  

  

夜は外を散歩しながら夜景を堪能し、神戸牛のすき焼きを食べて大満足!!

 

 

 


家紋の事

2016年07月28日 | Weblog

2016.6.26NHKスペシャルにて、古代史ミステリー「“御柱”~最後の“縄文王国」が放送された。

それからしばらくは知人からいろいろ聞かれることが多くなった。

これを機会に少し諏訪の事など調べてみようかという気になったので、

手始めに「何故神長官は左に十の字の紋なのか?」を考えてみた。

よく考えたら、これだって難しいじゃないか・・・・。

ただ昔から少し思うところもあったので、薩摩守忠度・島津・忍者(甲賀三郎)などの

手元にあるものとネット辞書を使ってみた。

これが正しいかは誰にもわからないが、何となく昔思っていた事がスッと入ってきたので

良しとすることにした。下が我が家の蔵の写真で、家紋が見える。

これは守矢神長官の紋と一緒である。

 

で、この〇に左十字の紋の僕の推理はこうなっている。

 昔から家紋について思っていたことがある。それは我が家の紋はキリシタンに関係あるのではないかという事である。何故ならキリシタンが十字を切るとき、それを前から見たら左にはねるだろうと思った事が頭から離れなかったからだ。しかし我が家がキリシタンであったとは考えづらい。神棚があり仏壇もある家だが、キリストにつながる様なものは思いつかない。では丸に十の字の家紋に関係するものはないかと調べてみると、十字紋に関しての記述は一つあった。

「建久三年(1197)将軍家(頼朝)執権大江広元より祭典下知状を賜った。頼朝が平氏を討った時、薩摩守忠度の季子が信濃国州羽・守屋山山中の蕨萱というところに草庵をむすんで隠れていた。頼眞はこれを迎えて子とし、自分の娘をその妻とした。これから、十文字の下に庵を描き幕の紋とした。』ここから丸に十字の紋が現れたと考えてみたが、もともと忠度は平氏であるから紋は十字ではないはずである。薩摩守という言葉に惑わされていることに気づいた。なのに幕の紋に十文字+庵をつかったのだから、すでにこの時神長は十字紋を使っていたという事が考えられないだろうか。しかも筆勢の左にはねる十字をである。

そもそも十字紋はどういった性格のものであろうかと調べてみた。どうも十字紋は世界的に呪符となっており、こうしたことから十文字は災厄をはらい福を招くものと僑 じられて家紋とされていたようである。中国では蒸餅(むしもち)を食べる前に、その上で十字を切るという風習があった。それが日本に伝わって、鎌倉時代には狩りの収穫に山の神・狩猟神を祭る矢口餅などの折に盛んに行われていたという。『吾妻鏡』にも「十字」と書いて「むしもち」と読む例があり、各地で食物・音物に十字を切ることが 習慣となっていたらしい。ちなみに、忍者が九字を切ったり、安倍清明判や籠目などが魔除けに用いられるのも十字と同様の呪符だといえる。

つまり呪符説が正しいものであろうとするのが定説となっていることから考えると、家紋を決める時に神長がシャーマン的な存在であり、呪術を得意とする所からこの紋を用いたのではないかと思うのだ。また洩矢神が山の神・狩猟の神として祀られていることにも、共通点を見出したのではないか。何故左にはねているかという事については、見当違いではあったもののやはり冒頭でも書いたように、人が十字を切るときのしぐさを前から見ると左にはねるからでないだろうか。つまり十字を切られている方から見ると、その十字は左にはねて切られているという事になる。正面から家紋を見ると、それは自分にむかって切られている十字を見ているようになるのだ。シャーマンであった神長がみんなにむかって、常に災厄をはらい福を招く縁起のいい呪符を放っている行為に他ならないのだと結論付けたのだが・・いかがなものだろうか。


桔梗屋あたりの事と蛇足

2015年11月17日 | Weblog

桔梗屋さんの事を聞いた覚えがあり、上社の地図を見たところありました。

http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E138.7.27.8N35.59.39.9  これを1/1562に拡大してください。

                              *矢印の家が(桔梗屋さん)です。

茅野から上社に向かうと上社の駐車場手前に、黒縄神社があり・

その下あたり上社に向かい、右手に桔梗屋さんがあります。

その辺りを八幡坂と呼んでいたようです。

父のとった写真に、幾分時代は新しいものの今とは違い

交互通行になっている昭和の時代のものがありました。

写真の中ほどで下りの道が緩やかな昇りになる場所がわかります?

そこが桔梗屋さんがある場所になるようです。正面が上社の鳥居になります。

しかしこの写真に写っている車も、珍しいんでしょうね。

蛇足ですが、鳥居に突き当たる手前左に上がる道があり、その先に法華寺があります。

その道の脇で祖父の時代に、滝沢商店という店を営んでいたそうです。

  看板に(上社土産には楽焼)とありますが、この文字は祖父の字です。

左が祖母・父・岩男(弟)。祖父はここに窯を据え、自ら楽焼を焼いていたそうです。

信楽・九谷などの窯元で焼き方を教わったりして、本格派だったらしいっす。

いまでも作ったものが残っている。趣味を生活に生かした人なんだろうな・・・。

一つを調べると、またほかの事が出てきて   おもしろい!!

            まあお付き合いくださいm(__)m

 


中洲村の昔々

2015年11月14日 | Weblog

前列右から五番目が祖父。後ろの看板が中洲しか読めない。

ただ、祖父と二列目右から二人が着ている法被に書いてあるのは中洲村農會市場

その隣の人の着ている法被には下金子農會市場・後列の右から六番目の人の法被には中洲久美愛。

前列右から二番目の人は㊥市場という法被をそれぞれ着ている。

今で言うところの農協のようなものだろうか・・・。

この写真は何処かはわからない。桔梗屋あたりというコメントが書いてあった。

祖父と祖母が餅つきをしている。この臼も杵もまだ残っている。

場所は不明だが、僕の伯父や叔母大叔母。曽祖父が写っている。

しかし驚くのが傘。いまこの傘骨の多いタイプが人気である。

たぶん70年以上前の写真ではないだろうか。流行りは繰り返すのだろう!


僕の育った中洲の昔々

2015年11月11日 | Weblog

僕の育った長野県諏訪市中洲。

前にも書いた通り、祖父と祖母はアメリカで結婚。

オレゴン州ポートランドで父を生み、関東大震災の起きた年に日本に帰国。

中洲に住んだ。

新聞記者をやっていた祖父なので、写真は結構豊富にあったが

一度整理をしてしまいあまり残ってはいない。

父のコレクションも、東京で働いている間にだいぶ捨てられてしまったようだ。

ここに紹介する写真は、戦時中のもの。当時の様子がわかる。

上社の社殿前。前列右端が祖父自由也。

八ヶ岳修練農場にてと書いてある。前から3列目左から2番目に祖母がいる。

紀元二千六百年賜饌記念だろうか?片倉館の前のような気がするが・・・・?

上社の鳥居前。右手前がきよめ茶屋(今はない。金子茶寮という店になっている)

これは中洲小学校の校舎前。うしろは教務室や校長室などがあったような・・。

何処かはわからないが結構広い場所である。しかし中ほどにいる白衣の男性がちょっと違和感あり。

これも場所はわからない。洒落た椅子や窓があるが、畳の部屋である。

これも上の写真と一緒の場所のようだ。慰問袋を作っているところだと思われる。

こうした縁の下の力持ち達が、出征した家族を思い・村を思い・日本を思って

支えていたんだろうなと感じる風景。