来年が御柱祭の年になるが、大正15年の御柱祭は、我が家にとっては大変だったらしい。
曽祖父である一太郎が秘書をやっていた政治家小川平吉が、
犬養毅(政友会総統になる前)を我が家の二階に招き、御柱祭を見物したのである。
父は当時3歳であったので、あまり記憶はなかったようだが写真には写っている。
小川射山は小川平吉の事である。犬飼木堂先生御席の左・子供を抱えているのが犬養毅である。
小川平吉はその隣、平吉の隣には奥さんも座っている。
小川射山先生御席と書いてある左に丸坊主頭の子供がいる。それが父・日出男である。
曽祖父・一太郎は写真下、烏帽子をかぶった子供の右にいる。その隣が祖父・自由也である。
この2階で、40年後位に明法学院の合宿で生徒たちが寝起きしたり勉強したりしている。
中庭にも騎馬行列が入り、騎馬行列恒例の草履取りの踊りが催されている。
この当時は、後ろに離れ(書院)があった。数年後には祖父のアイロンの不始末で焼けてしまう事になる。
今は見慣れている枯山水の庭を作り、様相が一変することとなっていく。
この当時の新聞が残っている。この新聞をネタに、父は一冊の本を作っている。
結構読むと当時の風俗がわかっておもしろい。そのうちに機会があったら掲載してみたい。
いまはもう家も壊してしまって無いが、壊す前の写真が残っているので載せておく。