先ほど、昔書いたブログ「坂西志保~ 」を見ていたら、コメントがついていて驚いた。
志保の両親が小作として入場した小樽の桜井農園の創設者・桜井静の子孫の方らしい。
桜井静については知見に乏しいので早速調べてみた。
1857~1905 千葉県生まれ。
明治11(1879)に、議会開設についての要望書を作成し各地に配布したとあるが、
これに反応して秋田に立志会ができ、やがて「秋田事件」をやらかすのが私の四代前である。
言論弾圧に嫌気が差して、実業方面に注力した桜井は、明治26年に現小樽市塩谷に
桜井農園を開き、坂西傳明が小作として入植、同29年に志保が生まれる。
一定の就学者があったから、農園主は当時の塩谷村に請願して小学校の分教場を
誘致した。
そこに日露戦争から帰還した伊藤昌整が長男・整(後の作家)を連れて教鞭をとるようになる。
一方、桜井静は明治35年の衆議院議員選挙に千葉県から出馬し当選、憲政本党に所属した。
憲政党に所属し、同期当選の日向輝武(群馬県選出)は完全なライバルである。
その日向の娘婿(長女)がキリスト教の牧師の山本治一で、彼が小樽で最初に導いたのが
坂西傳明だったというわけ。
昭和のはじめごろの話なので、桜井も日向も若くして亡くなったあと。
もうひとつ追加すると、桜井は明治38年に大連で客死(自殺?)するのだが、同じ時期
ウチの先祖は大連にいて、商売の開始準備に走り回っていたわけである。
なんでこうかき回せばいくらでもネタがでてくるのかね。
現場にいた当事者たちがまったく気付かないもろもろを、後世の我々が自由に語れる
不思議さはなんともいえないものがある。
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