ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

探し物は何ですか。

2018-01-11 22:21:02 | 思い出のエッセイ
2018年1月11日 

偶然耳にしたシャルル・アズナブールの「Yeterday when I was young邦題は「帰り来ぬ青春」」。過ぎ去った青春を惜しみ懐かしみ、後悔し、年を取ったアズナブールが切なげと歌っているのがとてもいい。作詞作曲もアズナブールだと言う。

なんて懐かしい。いい歌だなぁと、わたしも思わず胸がキュンとし、そしてふと思い出したひとつこと。

我が生まれ故郷、弘前の土手町あたりにあった喫茶店「ひまわり」・・・・その存在が気になりながら、ずっと意識的に避けてきたような感がある。それで三十年ぶりで帰郷したときも結局足を運ぶことはなかった。

もうないんではないかな?と思いながらネットで検索してみたら・・・・・あった!その名も昔のままに「名曲喫茶ひまわり」^^


写真はWikiから。

「50年前に開店、昭和の香りを今に残す」とある^^

わたしの高校時代は学校が喫茶店への出入りを禁止していた1960年代始めである。それでも、わたしたちは密かに入っては大人の味のするコーヒーをすすりながら幾度か秘密の時間を過ごしたものだ。

何度も行ったわけでもない「ひまわり」が気になってきたのにはちょっとした事情がある。高校時代に進路が別れ、卒業以来たった一度の交差があったきりお互いなんの音信もなくなったK君と別れしな、「5年後の今日、ひまわりで逢おう。」とした約束があった。

約束をわたしは果たさなかった。都会に出たわたしが帰郷したのは、5年後どころか39年後である。今ではその約束の日付も記憶にない。卒業後、北へ向かったK君が約束どおり「ひまわり」へ行ったかどうか、わたしは知らずじまいだ。

いつだったか、同窓生が送ってくれた卒業生の名簿には弘前在住とある。そっか、君は弘前へ戻ったのか・・・39年ぶりの故郷の同窓会出席の時は、ひょっとしたら再会できるだろうか?と密かに期待したりしたのだが、K君の姿はなかった。

誰にも訊ねることをせず、わたしはそれとなしにK君の姿を探していたわけだが、ひょいと誰かに気づかれて「探し物はなんですか?」と、もし聞かれたら、「い、いえ・・あの、なんでもないんです・・・」と、しどろもどろに答える17才の自分の姿が脳裏に見えるような気がする。

後日談については次のお話に。

アズナブールが英語で歌っています。よかったらどうぞ。

梅の木のある家

2018-01-05 18:21:25 | 思い出のエッセイ
2018年1月5日

子供の頃から今に及んで、失敗談には事欠かない。しでかしてしまった後に、自分でもおかしくて笑いのネタにするものもあれば、中には、恥ずかしくてとても披露できないものも若干ある。

しかし、こう言ってはなんだが、何十年も前の失敗談ともなると、失敗談の域を超え、これはもう殆ど自慢話に近くなってしまったと言う、わたしが小学校4年生くらいの、今日は話である。

娯楽があまたある現代の世の中からはすっかり姿を消してしまっただろうか、専ら自然を相手の遊びが中心であった弘前でのわたしの子供時代のことだ。

大家族で住んでいた祖母の家の裏は畑で、その向こうは限りなく田んぼであり、小川が流れていた。稲を刈った後の田んぼは、切り株がニョキニョキ出ていて、裸足で走ろうものなら、痛くて半べそをかいたものだが、それでも、だだっぴろい田んぼは遊ぶのに格好の場所であった。

夏は6畳の部屋いっぱいに吊るす「かや」が、本当に嬉しかったものだ。何が嬉しかったかと言うと、それをハンモッグ代わりにして妹と二人遊ぶのであり、見つけられては祖母にこっぴどく叱れたものである。

かやの中に、裏の川べりで捕ってきた蛍を放すのも、子供心になかなか風流なものだと感じ入った。今にしてみれば、短い夏の夜の蛍の儚い命、気の毒な気がしないでもないのだが、わたしが子供の頃は、蛍も赤とんぼも、今では考えられないほど、いくらでも見かけたのである。だから、そうして捕まえることを気にもしなかった。

ほうずきの中身を上手に取り出し、口に放り込んで鳴らすのも夏の遊びの一つだ。普段の日も長い休みの日も、厳寒の冬ですら、雪で「カマクラ」を作って隣近所の子供達と何かしら自然の中から遊ぶものを見つけ出しては、日が暮れるまで遊び呆けた。

おかあさんごっこ、着せ替え人形などはわたしの性に合った試しがなく、2つ年下の妹を引き連れては、毎日のように、男の子たちといっしょくたになって遊び、わたしがガキ大将だった頃だ。

この頃、「ターザン」を知ったのだ。夢見る少女はターザンのように木から木へと飛び移り、「あ~ぁあーー!」と大声出すことに憧れた。

「そうだ!裏の畑と田んぼの境目に、大きな古い梅の木があるではないか!」 今の小学生と違い、当時の小学校4年生の頭など単純なものである。素晴らしいアイデアに酔ったわたしは、翌日近所の手下である仲間たちを引き連れて、早速ターザンもどきを決行したのである。

木登りはお手のものであったから、大きな梅の木にはスルスル上り、家から持ち出してきた縄の輪を二度巻きにして太目の枝に引っ掛けた。
ここまでは小4の頭脳にしては上出来だ(笑)縄が自分の体の重みで切れるかも知れないのをちゃんと計算したのである。下では子分どもが心配そうに木を仰いでいる。

やおら、その縄にぶら下がり、夢見る少女は叫んだ、
「あぁ~あーー!」
二回三回と枝を揺すぶった。

と、一瞬なぜだか分からないが、自分の体が土に投げ出されたのを感じた。2度巻きにしたはずの縄が、梅の木の枝からダレンと長く垂れているのが見えた。

右腕に激痛!立ち上がったもののその痛みに耐え切れず「痛いよ、痛いよぉ」と右腕を押さえて辺りを走り回るがき大将の女親分。子分たちはと言えばポカンと口開けて、わたしが遊んででもいると思ったようだ。

しかし、親分の顔は、見る間に青ざめて行く。事の異様さに気づいた子分の一人が人を呼びに走った。そのまますぐ近所にある下町の骨接ぎや(整骨や。昔はこう呼んだ)まで、今度は祖母が私を担いで走った。
診断:右上腕骨折。

その夜は、祖母と同じ布団で寝、祖母にしがみついて腕の痛みで一晩中泣いた。あの時代は鎮痛剤などなかったのだろう。治るまでの一ヶ月以上、学校へは当然行けず、腕を三角巾で吊るので洋服も着れず。一瞬ひらめいたターザンの夢はあっけなく終わり、女親分はすっかり面目を失ってしまった。

裏の畑で着物を着て、右腕を吊るす元気の薄れたあの頃の女ガキ大将の、セピア色になった写真が一枚ここにある。

大つごもり1979:我が心のクラウディウ

2017-12-30 11:22:04 | 思い出のエッセイ

2017年12月30日 

今日は晦日、2017年も後一日を残すばかりになりました。本日はわたしがポルトガルに来た最初の年、1979年の大晦日の話です。

ポルトガル語も分からず、英語もほとんど通じない環境で、しかも当時は夫の家族である、義母、義母姉二人、つまり3人のお年寄りとの同居でありました。 いやぁ~、この6年間はもう大変なものでありました。今日のわたしの忍耐力はこの同居時代に培われたものと自負してますです。 おっと、話がついそちらの方に流れそうだ。

さて、日本人が一人もいなかったそんな環境での明け暮れ、近所の5、6歳の子供たちに「ファシスタ!」とののしられていた老犬が路上で寝ているのを表通りに面したわたしたち夫婦の部屋のベランダから毎日見ていたのでありました。今と違って当時はのんびりしたものです。この通りでは5、6匹の野良犬が道路のあちこちでゴロ寝している光景は当たり前でした。

老犬は小柄でビッコをひいており、右側の牙が少々突き出ていて、見るからに醜い。「犬だってイジメの対象になるのは、こんなのなのか」と思うと、当時の自分の孤独感も手伝って、俄然わたしはその犬に近づき始めたのです。

初めは近づくわたしを恐れて、逃げ隠れしていた老犬が次第に警戒心を解いていき、やがてわたしが玄関口で、「ヒューッ!」と口笛を吹くとすぐ飛んでく来るようになりました。それからです、庭がないからだめだ、と嫌がる義母さまを説き伏せ(ん?言葉がわからないのに、どうやって説き伏せた?そりゃぁ、あなた、身振り手振りですよん^^)、義母さま、ついに根負けして、「じゃぁ、日中は外、夜寝るときは仕方ないベランダ」ってことに相成りましてね。

「ヤッター」の気分のわたし、名前は迷うことなく、ローマ帝国の歴史上、小柄でビッコをひきもっとも皇帝らしくないと言われた「クラウディウ皇帝」からいただいて、「クラウディウ」と名づけたのでした。

忘れもしない、わたしがポルトガルに来た年の12月31日、大晦日。その日の夕暮れ時、いつもなら飛んでくるはずなのに、いくら呼んでもクラウディウは現れず。すると、近所の人が、「午前中保健所が犬捕りにやってきて他の犬たちはみな逃げたのに、クラウディウだけはその場にうずくまってしまい、網にかかってしまい連れていかれた」と言うではないか!

孤独な異国での生活で初めて心を通い合わせた相棒です、半ベソをかいて夫になんとかしてくれと泣きつきました。夫が保健所に電話で問い合わせしたところ、すでに病院送りになったとの返事。 「病院ってどこの病院?サン・ジュアン病院?あなたの病院じゃないの!」 夫はポルトの国立サン・ジュアン病院に勤めていたのです。

日も落ちかけた大晦日、わたしは夫とともに人がいなくなった病院の実験薬殺用の犬たちが入れられている檻のある棟に忍び込みました・・・

高い網で周囲をとりかこんだその大きな檻には何十匹もの犬たちがうろうろ不安な眼をして動き回ったりうずくまったり。それは見るからに心の痛む光景でした。

こんなたくさんの犬の中に本当にクラウディウはいるのだろうかと思いながら、低い声で必死に叫びました。「クラウディウ、クラウディウ」
やがて檻のずっと奥の方からヨロヨロと出てきたクラウディウは、わたしたちを見るなり喜び吠えです。

しかし、どうやって檻から出すのか?・・・・・ すると、あった!犬が逃げようと試みでもしたのだろう、網の一部が破れてる!夫が素手でそこをこじあけこじあけ、やっと小柄なクラウディウが出られるくらいの大きさに押し広げ、ついにクラウディウを抱き上げたわたし達は、外に止めてあった車に押し込め、逃げること一目散!

破られた網の穴から他の犬たちも逃げたのは言うまでもないでしょう。あとは野となれ山となれ。いずれ殺処分されるであろう犬たちへ、大晦日の贈り物だい!

そうして自宅へ着いたわたしたちも、そして車も、檻の中でウンコまみれになっていたクラウディウの匂いがしっかりついていたのでした。1979年大晦日のハプニングでした。

わたしの蛍雪時代

2017-12-29 12:03:50 | 思い出のエッセイ
2017年12月29日



父は頑固な上に理不尽なところの多い人であった。わたしは密かに父をして、「このクソ親父」と内心何度思ったことであろう。わたし達姉妹が幼い頃は、岩手の盛岡競馬場で騎手をしていた人である。よって年中家にいた試しはなく、母とわたしたち姉妹は弘前の祖母の家に、父は盛岡にと、家族別居生活を余儀なくされていたのだ。
   
今でこそ、競馬と言えば花形スターのような趣があるが、この時代は職業とも言い難かった父のこの仕事は、言ってみれば「ヤクザな仕事」(註:ヤクザの仕事ではないので注意下さい)だったのではないかとわたしは今では思っている。
   
父親が家を留守にしていては収入はなし。母とわたしたち姉妹は祖母の家でなんとか食いつなぐことができたと言えようか。それが、少し歳もいって来て、体重が増え始めたために騎手ができなくなり、わたしたちのもとに舞い戻って来た。菊池寛の「父帰る」であります^^;
   
それまで母は経済的に苦労してきただろうが、祖母の家で大家族と暮らしていたわたしは父親の不在をさほど感じたことはなかった。それが、思春期に入る中学生の頃、ひょっこり帰って来たわけで、父の存在にはいささかとまどいを感じずにはおられなかった。父は定職につけない人で、わたしたち家族の生活は結果的に父が帰ってきたことによって苦しい経済状態から抜け出すということにはならなかった。
   
思春期真っ只中の高校時代、父に対する反抗心を抱えながら、わたしは高校では好きな学課を除いて他は皆目勉強もせず、もっぱら図書館から本を借り出して、だたただ読書に熱中しては本の世界に逃げ込んでいた。

「知と愛」「狭き門」「嵐が丘」「谷間の百合」「ボバリー夫人」「チャタレイ夫人の恋人」「若きウェルテルの悩み」「凱旋門」「女の一生」とあげ連ねてていけば、きりがない。わたしはこれでもか、という程に本を借り漁っては何かにとり憑かれたかのように外国文学を読破していったのである。想像力を逞しくすれば、読書に浸っている間は少なくとも貧困の現実から逃れて自分の精神を自由に遊ばせることはできる。

あぁ、それなのにそれなのに。ある日理不尽な父は言う。
「女は勉強せんでよろしい。本日より午後10時、消灯なり。」
それはないでしょ、おとっつぁん。
   
その日から夜10時になると、自分は高いびきかいて寝、消灯である。二間しかない埴生の我が家、電源はオヤジ殿の寝る部屋にあるのでありまして。父の寝静まった頃合を見計らって、月明かりでソ~ッとそちらの部屋へ忍び込み、これまたソ~ッと電源のレバーに手をかけ、挙げようとするとその瞬間!
「こら!」と、怒声が起きて叱責であります。
いびきかいて寝てたんじゃないのかい・・・

これでは本が読めぬ。そこでわたしは考えた、うんと考えた。 そして見つけたひとつの方法。それは、細長い木板にろうそくを1本立て、その灯りが父の寝ている隣室にもれないように、ほとんど上布団を被せんばかりにして本を読むことである。なんのことはない、単なる原始的な方法ではありました。

こうして読んだあの頃の本は忘れるものではない。なかでも、木板に1本のろうそくという原始的な方法を使ってまでわたしを読書へと駆り立てた一冊の本、それは、レマルクの「西部戦線異状なし」である。

『僕の心はすっかり落ち着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎていくがいい。月も年も、この僕には何ももってきてはくれない。
 何物も持ってくることはできないのだ。僕はまったく孤独だ。』

この記を最後に1918年、志願兵パウル・ボイメルは17年の生涯を戦場で終える。

わたしは薄明かりの寝床の中で、この本の感動して止まない文章を何箇所となく涙をぬぐい鼻をすすりながらノートしたのであった。わたしが若い頃から強度の近眼になったのは、この頃が原因だとわたしは思っている。しかし、それと引き換えに得たものは、「人は本を通してでも、大きく生き方を学び疑似体験できる」ということだ。

頑固だった父が亡くなって、30年以上になる。わたしの蛍雪時代の上にも幾星霜が重なった。

サイギサイギ:岩木山お山参詣の唱文考

2017-12-15 12:10:06 | 思い出のエッセイ
2017年12月15日 

高校時代に好きで覚え、今でも諳んじることができる室生犀星の詩がある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや   

大阪に出た若い時分には少しひねくれた目で故郷を見ていたので、反抗心と故郷へのノスタルジアが入り混じった犀星のこの詩に、自分の心を重ねていたのである。大阪時代の10年間でわたしが帰郷したのは、恐らく2度ほどだろう。

さほどに「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と、まこと、粋がっていたのであった。「なんでやの?」などと聞いてくれるな、おっかさん。人様に言えない事の一つや二つ、人なら誰にでもあることでありゃんしょ。

とは言っていたものの、そんな複雑な故郷への片思いは今ではかなぐり捨てて、故郷を日本を恋うる心に素直に従うようになったのは、齢がなせるわざか。わたしも随分と角が取れて丸くなったもので、帰国時に機会あらば、せっせと弘前へ帰り高校時代の同窓生や恩師と旧交を温める今のわたしである。

さて、FBの弘前シティプロモーションでこんな懐かしい写真を目にした。



弘前では「お山参詣」と呼ばれる初秋の伝統行事なのだが、久しぶりにお山参詣の行列時に唱える唱文の謎解きを思い出した。以下に綴ってみる。

年に一、二度は弘前へ足を運んでいる妹夫婦、ある年、弘前のホテルでチェックアウトしようと荷物をまとめていたら、外から
「サ~イギサ~イギ ドッコイ サ~イギ 」
と聞こえてきたのだそうな。

ホテル9階の窓から土手町を見下ろすとお山参詣の行列が通って行く。行列を見ようとて慌てて階下へおり、こけつまろびつ行列に追い抜き、いっしょに並んで歩いたのだが、行列の唱文が子供のころに聞いて覚えていたのと少しも変わらないのに可笑しくて、ついにこらえら切れなくなり大声でウワハハハと笑ってしまったと言う。
 
お山参詣というのは津軽に昔から伝わる岩木山最大の祭りで旧暦の8月1日に五穀豊穣、家内安全を祈願して白装束にわらじ、御幣やのぼりを先頭に行列をなし岩木山神社を目指して歩く行事だ。

商店街の土手町から坂道を下り、わたしたちが子どもの頃住んだ下町の通りを岩木山目指して行列が歩いていくのだが、検索してみると子供だったわたしが記憶しているのと違い、行列の様子も少し変わったようだ。

昔は白装束でお供え物を両手に抱えての厳かな行列だったのが、今では人寄せでもあろうか、随分カラフルで「行事」と書くより「イベント」とカタカナかローマ字にしたほうが似合いそうだ。


画像はwikiから

さて、妹がこらえら切れなくなり大声でウハハハと笑ってしまったという、その唱文が、これである。

♪さ~いぎ さ~いぎ どっこ~いさ~いぎ
 おやま~さ は~つだ~い
 こんごう~どうさ
 いっつにな~のは~い
 なのきんみょう~ちょうらい

毎年こう唱えながら目の前を通り過ぎていく白い行列、子供心に神聖なものを感じてはこのお唱えをいつの間にか諳(そら)んじていたのである。この御山参詣が終わると津軽は一気に秋が深まる。



長い間、そのお唱えの意味など気にしたこともなかったのだが母も亡くなり、帰国したある年、彼女が残した着物を妹と二人で整理しながら、3人で暮らした子供の頃の思い出話の中にひょっと出てきたのがこの「サイギサイギ」だった。

亡くなった母は津軽で生まれ育ち、60まで住んだ。その後は妹夫婦の住む東京へ移り所沢の彼らの家を終の棲家とした。義弟も津軽衆なので、東京にありながら夕食時の食卓は、妹、義弟、母の3人ともが津軽の出ではおのずと津軽弁が飛び交おうというもの。帰国した時のわたしは母と義弟が交わす津軽弁を聞くのが本当に懐かしく楽しいものだった。

その母が「ことすでに遅し」の意味でよく使っていたのが「イッツニナノハイださ」である。 はて?いったいこれは元来がどういう意味合いなのであろうかと妹とそのとき疑問に思ったのだ。

たまたま、当時、我が母校の後輩で「サイホウ」さんと言う女性仏師の方とメールのやりとりをしており、聞いてみたところ、これが元になっていますと教えていただいのが下記。

懺悔懺悔(サイギサイギ)  
過去の罪過を悔い改め神仏に告げ、これを謝す。

六根清浄/六根懺悔?(ドッコイサイギ) 
人間の感ずる六つの根元。目・耳・鼻・舌・身・意の六根の迷いを捨てて汚れのない身になる。

御山八代(オヤマサハツダイ) 
観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・地蔵観音・普賢菩薩・不動明王・虚空蔵菩薩・金剛夜叉明王

金剛道者(コウゴウドウサ)  
金剛石のように揺るぎない信仰を持つ巡礼を意味す。

一々礼拝(イーツニナノハイ)  
八大柱の神仏を一柱ごとに礼拝する。 
          
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ) 
身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。

唱文のカタカナの部分は津軽弁の発音である。


どの方言もそうだが、津軽弁は特に独特のなまりが多い方言だ。我が同窓生である伊奈かっぺいさんは津軽弁でライブをする人で有名だが、彼いわく、津軽弁には日本語の発音記号では表記不可能な、「i」と「 e」の間の発音があり、津軽弁を話す人はバイリンガルである、とさえ言っている。

わたしと妹が笑ってしまったのは「六根懺悔」が何ゆえ「どっこい懺悔」になったのかと、津軽人の耳構造はほかとは少し違うのであろうかとの不思議にぶつかったのであった。

大人になったわたしたちにしてみれば、「どっこい」という言葉はなじみでありとても唱文の一語になるとは思われない、なんで「ドッコイ」なのよ?と言うわけである。

実は「さいぎさいぎ」も「懺悔」ではどうしても津軽弁の「サイギ」に結びつかず、わたしは「祭儀祭儀」と憶測してみたのであった。そして、数日の検索で、ついに語源をみつけたぞ!

「懺悔」仏教ではサンゲと読み、キリスト教ではザンゲと読む、の一文に出会ったのである。「サンゲ」が津軽弁で「サイギ」、これで納得だ。

御山参詣は日本人の山岳宗教につながるものであろうか、修験者が霊山に登るのが弘前に行事として定着したと思われる。

父と母、わたしと妹4人家族が住んだ桔梗野のたった二間の傾きかけた埴生の宿のような家の窓からは、見事な岩木山の美しい姿が日々仰げたものである。


画像はwikiから

テレビやパソコンなどのような情報入手方法がなかったわたしの子供時代、空耳で覚えていた唱文も今となってはいい思い出につながり、ふと頭を横切るたびに笑みがこみ上げて来て、懐かしい人々の顔が浮かんで来る。

正規の唱文の発音よりも300年も続いてきたであろう津軽弁の唱文に耳を傾けながら、修験者を受け入れてきたお岩木さんは、津軽弁そのままが誠に似合うようだとわたしは思うのである。

♪「さいぎさいぎ ドッコイさいぎ おやまさはつだい こんごうちょうらい(と、わたしは覚えている)
 イッツニナノハイ なのきんみょうちょうらい」

下町を歩いていく白装束と幟と、「イッツニナノハイ」と言う母の姿が浮かんで来るようだ。孝行したいと思えどおかあちゃん、14年前にみまかり、「イッツニナノハイ(事すでに遅し)」でございます。ハイ。