ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

海の幸山の幸

2017-12-13 13:13:42 | 思い出のエッセイ
2017年12月13日

大正14年生まれだった母は9人兄弟であった。

その長兄は戦争で若くして死んだと聞くから、戦後生まれのわたしは知らない。母を筆頭に8人兄弟となり、7人がわたしのおじおばになる。母とわたしと妹は、このうちの5人のおじおばと、祖母が構える弘前下町の大所帯で、幼い頃を共に暮らした。わたしは祖母の初孫にあたるのである。

母のすぐ下のおじは当時すでに結婚していて独立、そして、女姉妹で一番若いおばが東京に出ていて結婚も間もなかったころであろう。わたしは、このおばの若いころに似てるいるとよく言われたものだ。
父はと言えば、この頃は盛岡の地方競馬の騎手だったので、弘前にはほとんどいなかった。母は食い扶持稼ぎに、なにかとその日の小さな仕事を見つけては家を空けることが多く、留守をまもる祖母が母代わりであった。

その祖母は、秋になると山菜採りに山に入るのである。弘前の町からバスで小一時間も走るのであろうか、岩木山の麓の嶽(だけ)へ温泉に浸かりがてら、キノコ、筍、ワラビなどの山菜を求めて入山するのだ。祖母が採る山菜はごっそりとあり、それらは塩漬けにされ長期保存食料となり、時折食卓にのる。
何と言ってもおいしかったのは、細い竹の子を入れたワカメの味噌汁であった。

後年この祖母の慣わしを引き継いだのが母とすぐ下の弟、おじだ。母もおじもその季節になると、山へ入って行った。そしてどっさり採った山菜をカゴや袋に入れて抱えて来る。だが、決して二人が一緒に同じ場所へ行くことはない。それぞれ自分だけが知っている秘密の場所があるのであった。

これは釣り人の「穴場」と同じである。おじは釣り人でもあった。山菜採りがない週末などは、自分の経営する小さな自動車整備工場の若いもの数人を連れて早朝に川へ車で乗り付ける。
そのおじは、知り合いの工場に頼み込んで、採った山菜を瓶詰め缶詰にするに至った。わたしが帰国する度に、弘前から缶詰の細長い竹の子やワラビなどが、宅急便で届けられるのだった。

さて、母は60を過ぎてからの晩年、所沢にある妹夫婦の家族と共に暮らしたのだが、そこでも近隣の林や森に入って山菜探しが始まり、いつの間にかしっかりと自分の秘密の場所を見出して、秋に入るとキノコ、ワラビを採ってきては所沢のご近所に配るようになった。毎年それを楽しみにする人もいた。

所沢に移ってからも、70半ばまで脚が元気なうちは、弘前の田舎へ帰り毎年のように山での山菜採りはしていたものだ。

母より若い山菜ライバルのおじが先に身まかった時、言ったものである。「とうとうわたしに秘密の場所を明かさないで、あの世まで持って行った。」と。そういう母も、おじには自分の持ち場を明かすことはなかったようだ。

母が亡くなった今、祖母からの、いや、恐らくはそれ以前のご先祖さまの時代からの山菜の見つけ方、見分け方、そして秘密の場所の秘伝は途絶えてしまったことになる。母もおじも海の幸山の幸を知る人であった。

都会に出たわたしは、母や叔父が採ってきては、味噌汁や煮物にした、かの細長いしなやかな竹の子を見かけることはなかった。母やおじの秘密の場所はいったいどこだったのか。大の大人が二人とも頑として教え合わずに逝ったことを思うと、なんだか可笑しさがこみ上げて来るのである。

そして、このことを思い出す度に、倉本聡のドラマ「北の国から」の最終回で、主人公、黒板五郎が二人の子供にしたためる遺言の言葉を思い浮かべる。
「金など欲しいと思うな。自然に食わせてもらえ。」

海の幸山の幸を自ら捨て去り葬って来たわたし達現代人には、到底吐けない素朴でありながら重みのある遺言である。

綴り方教室

2017-12-11 18:49:13 | 思い出のエッセイ
2017年12月11日

今日は子どもの頃の思い出話です。


子供の頃は、究極の内弁慶であった。

ご近所では、女だてらに男の子達を従えてのガキ大将、親分であったのに、学校に行くとからきしダメなのだ。毎学期ごとの通信簿には、良くもない成績に加えて、「今学期も一度も挙手がありませんでした。」とか、「発言が一回も行われませんでした。」と、ずっと毎年書かれて来た。だから、悪さをして親が先生に呼ばれる、などと言うことは学校ではなかったのである。

小学校5、6年の頃であろう。わたしは生まれて初めて学校の小さな図書室に入り、一冊の本を借りた。それまで、本らしき本は、手にしたことがない。当時は「なかよし」「少女」「少女クラブ」などの少女向けの月刊雑誌があったが、それらのどれか一冊を手にするのは年に一度のお正月であった。

朝、目が覚めると、わたしと妹の枕元にお正月特別号として、いっぱいの付録でパンパンに膨らんだ一冊の少女雑誌がお正月のお年玉代わりとして置いてあるのだ。それは本当に待ち遠しく、嬉しいものだった。その一冊は、完全に自分の物だったから。

さて、わたしが初めて手にしたその本には、「シャーロック・ホームズ:まだらの紐」とあった。なぜ、自分がそれを選んだのか今では覚えていない。しかし、それが以後のわたしを読書に駆り立てることとなった始まりの、挿絵はところどころにありはしたが、活字がぎっしり詰まった、いわゆる「本」なのであった。

一発で推理小説の面白さに引き込まれ、わたしは瞬く間に図書室にあるホームズ・シリーズを読破してしまった。

次に向かったのがモーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン:奇巌城」。これには参った!泥棒とは言えども、エレガントで世界中を股に掛け恋をし、大金持ちからしか盗まないルパンが実にカッコよいのである。

「怪盗紳士ルパン」「ルパンの冒険」「ルパンの告白」「ルパン対ホームズ」と次々と読み漁り、すっかり虜になってしまい、寝ても冷めてもヨン様ならぬ、ルパン様である。そして、シャーロック・ホームズよりも「怪盗ルパン」の方にわたしはより魅力を感じたのだった。 布団の中で、夜寝付くまで想像を膨らまし、夢の中ではわたしはルパンになった。

そんなある日、クラスで綴り方、つまり作文の宿題が出た。作文を書き、それを各自がクラスで読んで発表するのである。迷うことなどあろうか、わたしは自分が夢中になっていた、「怪盗アルセーヌ・ルパン」について書いたのである。

内弁慶だったわたしは、発表の自分の順番が回ってくるのにドキドキしながら、その反面、ルパンについて、皆に話したくてたまらなかったのだ。これは、究極の内弁慶にしては、生まれて初めて持った鮮やかな積極的な気持ち、興奮であった。胸の高鳴りを感ながらじ、大きな声で読み上げ、最後をわたしの作文はこう結んだ。

「わたしも大人になったら、ルパンのように世界中に手下を持つ大泥棒になりたい。それがわたしの夢です。」

数日後、母は先生に呼ばれた。「泥棒になりたいというのが夢。ましてや女の子がとんでもない。」と、当の本人ではなく、母が説教をくらって来たのである。母はわたしを叱りはしなかった。

大人になったわたしは世界を股に掛けるとまではいかないが、一般の日本人の人生軌道を逸して、海の向こうはアフリカ大陸というイベリア半島にひっついている国、ポルトガルに定住することになったのだが、これは幼い頃の夢のかけらだと思っている。

ここにはあの頃の究極の内弁慶の少女の姿はもうない。日本とポルトガルを股に掛けてる間に、あのころの内弁慶だった少女は、人前で自分の思うところを言えるほどに、逞しい変貌をとげたのであった。

中川君のブロマイド

2017-11-26 23:17:41 | 思い出のエッセイ
2017年11月26日

自身はそれに染まりませんでしたが、20歳の頃の大阪京橋時代、まわりには上に素人と名のつく、演出家、役者、シナリオライターの演劇関係者、作家志望やカメラマンなど、サラリーマンとは異質の知り合いがたくさんいました。

わたしはと言うと、その中でどういう訳かこれまた上にへんちくりんな定冠詞がついて「自由人ユーちゃん」と呼ばれていたのです。わたしのどこが自由人かと問いますと、常識の枠にとらわれないで行動するからだそうで(これは20代の頃だということをお忘れなく)、褒められているのか呆れられているのか複雑なところではありました。

素人劇団の何のお役目も担っていないのに出来上がったばかりのシナリオを読まされたり、その仲間からはあっちへこっちへと引っ張りまわされたりしたのですが、都会生活がまだ2年ほどの20歳そこそこのわたしからすると彼らが皆、まぶしい輝きを放っているよう見え、深夜を問わず喜んで引っ張りまわされていた感があります。

おかげでまともな生活はできず、飲まず食わずの日が多かった青春時代ではありましたが、今振り返ってみるに、かけがえのない青春の一こまであったと思います。劇団長はかつて「劇団四季」に籍を置いたことがあるという男性で、彼らはサマセット・モームの作品のみを手がける劇団でした。

そんな知り合いたちの中に一人、プロダクションには属していないものの中川君という素人ではない(!)役者がおりまして、これが顔が大きいものですから、現代劇より時代劇でよく映えるのです。案の定、彼は京都四条にある南座で、よく歌舞伎公演での役回りをしていたのでして。なに、役回りといってもハシッパの役(笑)

これが、ある日浮かぬ顔をして現れまして、「舞台でドジッた。トップの役者さんにこってりしぼられてん」と嘆きます。
何をしたかと言いますと、出番寸前にどうにも我慢ができなくなってトイレに行った。そしたら出番の合図が聞こえたので慌てて舞台に飛び出して行ったのだと言う。

出てしまってからハッと気がついたのが、足に履いてる「便所」と書いてあるスリッパ!(爆)おまけに、手に持ってなきゃならないはずの十手をトイレに置いてきてしまって、「御用だ!御用だ! 」と突き出す手には、十手なし・・・

周りの小役人を演じている人らの後ろに後ろにと隠れて誤魔化そうとしたのだそうだが、そんなもん、ロケじゃあるまいし本番なんやから、どうやって誤魔化すのよ(笑)これを聞いたときには、気の毒な気持ちよりも大爆笑が起こって我らは皆、抱腹絶倒。

役者さんの世界って、NGがたくさんあるでしょ?あれ、爆笑ものが多いですね。しかし、劇場では毎回が本番、やり直しがきかない。中川君によると立派な歌舞伎役者さんも時には失敗するのだそうで、そういう時は、舞台が終わった後に先方さんからちゃんと陳謝として全員に何がしかが配られるのだそうです。

あれから40年ほども経つというのに、今思い出しても「便所」と書かれたスリッパを履いて、「御用だ、御用だ!」と空の手を突き出し、にっちもさっちも行かなくなっている中川君の姿を思い浮かべるたびに、くっくっくと腹を抱えて笑わずにはいられないわたしです。

中川君、どうしているでしょう^^彼からもらったヅラをつけたサイン入りのブロマイド、どこへ行ってしまったかなぁ。

ポルトガル式チゴイネルワイゼン

2017-11-19 15:14:11 | 思い出のエッセイ
2017年11月19日 

近頃では、交差点で見かけるジプシーがめっきり減った。(註:ジプシーという言葉は現在では差別用語とのこと。わたしは全く差別の気持ちなしにここで使用しています)

かつては、信号のある交差点は、ジプシーのいないところはないくらいで、赤信号で停車ともなれば、たちまちにして男のジプシー、赤ん坊を抱いた女のジプシー、子供のジプシーのいずれかに、「お金おくれ。」とせがまれるのであった。

男のジプシーは、たいていA3くらいの大きさのダンボール紙にそのまま「赤んぼも含めてこどもが5人いますだ。めぐんでくだされ。」等と書いて、お金を入れてもらうプラスティックの箱を突き出してくる。

女のジプシーは、赤ん坊を腕に抱き、そのままニュッと手を出し、「ミルク代、おくれよ。」と来る。
子供のジプシーにいたっては、これが一番タチが悪いのだが二人一組で来る。車窓を閉めたままでも、小うるさくコンコン窓ガラスを叩き、爪が黒くなった汚れた手をぬぅっと突き出して、
「ねぇ、おくれよぉ。おくれったらぁ。」としつこい。

「小銭持ってないから、だめだよ。」などと言おうものなら、腹いせに、垂らしていた鼻水、鼻くそまで窓ガラスにくっつけて行ったりするのがいるから、小憎らしい(笑)

子供たちが学校へ通っていた時は、毎日車で迎えに行くのが日課だったから、行きも帰りも赤信号で停車となると、それが年がら年中だ。よって外出時には小銭を用意して出るのが常だった。

わたしには、顔馴染みのジプシーがいた。いや、顔馴染みと言うなら、毎日通る殆どの交差点のジプシーがそうなるのだが、このジプシーは言うなれば「ひいきのジプシー」とでも言おうか。恐らく当時は30代であったろう、男のジプシーで、かれらの族の例に洩れず目つきはするどい。小柄でどこか胡散臭いのだが、なにやら愛想がよろしい。

言葉を交わした最初が、「中国人?日本人?」であった。こう聞かれると日本人だよと返事をしないではおれないわたしだ。「日本人よ。」すると、「やっぱり思った通りだ。ちょっと違うんだよね。」で、彼はここでニコッとやるわけです。用心はするけれども、わたしはこういうのに吊られるタイプでどうしようもない。

それがきっかけで、その交差点を通るたびに、「こんにちは。今日は調子どう?」と挨拶を交わすようになった。

我が家の古着や使わなくなった子供の自転車、おもちゃ、食器など不要になった物、たまには食べ物なども時々その交差点のあたりで停車して手渡したりしていた。

たまに、その交差点に、かの贔屓のジプシーがおらず、別のジプシーを見ることがあって、そういう時は、おそらく縄張りをぶん捕られたか、縄張り交代なのだろう。

ある日、同乗していた、中学も終わる頃の息子が、そのようなわたしを見て言うことには、「ああやって小銭をもらって稼いでるジプシーには、借家のうちなんかより立派な自分の家に住んでることがあるんだよ。」

「3日やれば乞食はやめられない」と日本でも言う・・・・家に帰ってシャワーを浴び、こぎれいになっているそのジプシーの一家団欒を想像してなんだか可笑しくって仕方がなかった。

息子はリスボンへ、娘はバスでダウンタウンにあるポルトガルの私立高に通学するようになって以来わたしはそのジプシーに会うことはなくなった。

その間、東ヨーロッパの国々がEC加入し、気がつくといつのまにやら交差点からは、小銭をせびるジプシーたちの姿が消え、代わりにポルトガルに流れ込んで来た東ヨーロッパ人達が目立つようになった。

彼らは、「要らん!」と言うこちらの言葉にお構いなく、車のフロントガラスにチュ~ッと液状洗剤をかけ、拭き始めるのである。そして「駄賃おくれ」と来る。

「昨日、洗車したばっかよ!」と、頼みもしないのに強引にする輩には絶対小銭を渡さない。しつこく手を出されても赤信号から青に変わるまで、わたしは頑張るのだ(笑)

近頃は、もう交差点の輩には小銭をあげないと決心した。小銭を車窓で受け取り、うっかり落としたふりをし、運転している者の油断をついて、ひったくったり脅したりの犯罪が増えてきたからである。

先日、家の近くの交差点で、数年ぶりにかの「贔屓のジプシー」に遭遇した。わたしが駆っている車種も車の色もあの頃のとは変わっているのだが、即座にわたしを見つけ、「奥さん、久しぶり。お住まいこっちの方で?お子さん達元気?」 少しやつれていた。歳をとったのだ。

閉めていた車窓を開けた。
「E você?」(で、あなたは?)助手席のバッグを引き寄せ、小銭を出して手渡しながら、信号待ちの間のしばしの会話。やがて、信号が変わりわたしは他の車の流れに乗って動き出した。

バックミラーに、車の発進でその身をグリーンベルトに寄せるジプシーの少しやつれた姿が映って、それがあっという間に遠くなった。

世界広し言えども、「贔屓のジプシー」を持っている日本人などそうざらにいるものではあるまい。夫は知らない。

杉本町津国ビル純情2:抜き足差し足

2017-11-15 10:19:08 | 思い出のエッセイ
2017年11月15日


大阪杉本町の津国ビル下宿屋には門限があった。シンデレラ・タイムの12時である。
それを過ぎると、例え前もって電話で、「ちょっとだけ12時過ぎるけど開けといて~」と頼もうが何しようが、玄関は管理人夫婦がバッチリ閉めて決して開けられることはない。

いずれにせよ、門限時間まで遊ぼうとしたら、タクシーで帰れるだけの経済的余裕がないといけないのであり、貧乏学生やわたしのように定職のないようなのが多いのだから、そういうことで締め出しを食うのは、あまりいない。いたとしても男の話であるから、さほど心配にも及ぶまい。

と、言いたいところであるが、何を隠そう、女のこのわたしこそ、実は門限破りの常習犯であったのだ。しかし、一言言わせてください。それは遊び呆けてではなく、レストラン等の宣伝撮影のための助手バイトが理由である。

同じ下宿先にカメラマンN君がおり、彼も副職としてこういう撮影の仕事をしており、照明やらなんやらのアシスタントがいる。そこで、わたしにこの話が回ってきたのだ。

撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上げたり下げたりと照明ライト等を持ったりしてのバイト。大した収入にはならないが、それでも生活の足しである。撮影の話が来るたび、
わたしは引き受けた。

撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上げたり下げたりと照明ライトを持ったりしてのバイト。大した収入にはならないが、それでも生活の足しである。撮影の話が来るたび、
わたしは引き受けたのだが、問題は門限だ。

この仕事はレストランの閉店後になる。撮影は夜10時半ころから始まり一時間半ほどで終わるのだった。後片付けを終えて下宿屋に着くのは、どうしても12時を回る。

3階建てのコの字型の下宿先で、わたしの部屋は一階中庭に面していたので、一階とて外からアクセスすることは不可能である。しかし、運良くN君の部屋はだだっ広い野原を隔てたとおりに面していたのだ。

そこで、撮影の仕事がある日は、N君は自分の部屋の窓の戸締りをせずに出かける。そして、仕事終了後、二人でタクシーで下宿屋の近くまで乗りつけ、野原をざざ~っと横切って、手はず通り開けてある窓から入り込む、ということを、わたしたちは繰り返したのでした。

あの頃は今のように物騒な世の中ではなかったので、窓の戸締りをしなくても安全であった。わたしなど、後年、自分のアパートの台所の窓は、飼いネコのポチがわたしの留守中の日中に自由に出入りできるよう年中開けっ放しにしていたが、一度も泥棒に入られたことはない。

さて、その夜も大阪、難波にある中華料理店の撮影を事なく終えて、いつもの通りN君の窓から入り込む。「お疲れさん、またあしたね」と言いもって、わたしは窓から彼の部屋に入り込むときに脱いだ靴を両手に軽く持ち上げ、抜き足差し足の素振りでN君の部屋のドアを開けた。
とたん、「こらぁーー!」
なんと、目の前に怒声とともに、管理人のおっさんがつっ立っているではないか。
「また、お前らか!一回や二回ならいざ知らず、何べんやっとるねん!」

おっさんは、毎夜門限時間になると、下宿屋ビルの屋上から通りに面した側を見張っておったのである。
悪い趣味だよ。

もう完全に袋のねずみで、現行犯で何の言い訳もできない。もとより、嘘をつくのが下手なわたしである。現行犯ともなれば、もやは潔くするに越したことはない。

二人ともしらを切ろうと思えばできたやもしれない。なぜなら、若いわたしたちはしょっちゅう下宿仲間の誰かの部屋に集まっては、夜更けまで話し込んだりしていたのだし、それについては何のおとがめもなかったのだから。しかし、両手に靴を下げて、人様の部屋を出るかい?(^^;)

あっさり門限破りを白状したわたしたちはこっぴどく叱られ、以後すっかり目をつけられて、深夜に及ぶ撮影のバイトは終了せざるを得なかったのであった。

これも若者が多かった大下宿屋なればこその懐かしい思い出ではあった。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。