ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

1755年11月1日:リスボン大地震

2017-11-01 19:29:21 | ポルトガルよもやま話
2017年11月1日

11月1日、今日はポルトガルでは「聖人の日」で休日です。この日、ポルトガルの人達は午前中に花を携えて墓参りに行きます。

今から250年程前の今日、リスボンは大地震に襲われ、火災と津波で街は殆ど破壊されたのです。当時のリスボンの人口25万人のうち、2万人がこの地震で犠牲になりました。強度のこの地震は、南フランスや北アフリカでさえも感じられたと伝えられます。

地震の被害がかくも大きくなったのには、次の理由が挙げられています。

「聖人の日」の前夜から習慣として、多くの家や教会ではロウソクの灯が灯されていました。更にこの日は非常に寒い日だったので、各家庭では暖炉の火を炊いて家で暖を取っていたそうです。

常日頃から、日本に比べてポルトガルのいい所は、何と言っても地震がないことだとわたしは思ってきたのですが、地震を正確に予測するなどいったい誰ができるでしょうか。

1755年午前9時45分頃、地震は何の前触れも無く、突然リスボンの街に襲いかかり石造りの建物からはレンガや石が人々の頭上に降り注ぎ「聖人の日」のこの朝、ミサに来ていたたくさんの人が崩れ落ちた教会で生き埋めになりました。 

ポルトガルは大西洋を目前にした海洋の国です。海に面したリスボンは同時に津波にも襲われ、地面が裂け、その地割れが水を、風を蒸気を呼び、被害を更に大きくし、これは3日間続きリスボンを完全に壊滅状態にしました。

この時かろうじて残ったのが、今では観光地となっている中世のたたずまいとその狭い路地がクネクネと密集しているリスボンの旧市街、アルファマ地区です。


物悲しいファドが聞こえてきそうなアルファマ

リスボンの街はこの後、ドン・ジュゼ一世王の命令でポンバル公爵により再建されるわけですが、Convento do Carmo(カルモ修道院)を代表とするいくつかの建物は、この惨劇の象徴として手を加えられることなく当時のまま保存され今に至っています。


カルモ修道院
       
この日から250年以上もの月日が流れ、リスボンの大地震は歴史になってしまいました。

最後に、ポルトガル語では地震を「Terramoto(テラモート)」と言います。Terraは地球、土地、 motoは運動、運行の意味があります。

明日はこのリスボン大地震の被害をかろうじて免れたアルファマ地区を案内します。