毎日が日本語英語ポルトガル語第4話:日本語英語仕入れプロローグ
人口約22万(2016年)のポルトには、わたしが来た40年前の1980年代と比べてど大きな違いが幾つかある。40年も経てば、人も変わるし都市も変わります。
現在ではポルトも周辺の11市を併せてGrand Porto、つまりポルト都市圏と呼ばれるようになりました。11市というのは、ポルトを始め、Vila Nova de Gaia, Matosinhos, Maia, Espinho, Gondomar, Póvoa de Verzim, Trofa, Santo Tirso, Valongo, Vila de Condeで、この都市圏での人口は約160万人と言われます。
ポルトの街を縫う路面電車
かつての商店街は土曜日の午後と日曜日祝日はどこもかしこも閉まっていました。本当に一軒も開いてるところはありませんでした。7、8月ともなるとあちこちの店も2週間から一ヶ月の夏季休暇に入り閉店であります。
スーパーマーケットもほとんどなかったので、食品の買い出しは、各曜日ごとにどこかで開かれる「火曜市」とか「水曜市」で買い物をするのである。ポルトガル語ではこの手の市をFeira(フェイラ)と言います。
この「市」がわたしは苦手でした。なぜかと言うと、スーパーマーケットと違い、ほとんどの売り物に値段が示されていないのです。よって、交渉して買うことになるのですが、値切った経験などないわたしは、なぜかは知らねど、恥ずかしくて、とてもできることではなかったのです。それは今に至っても同様。どんな所どんな時でも書かれてある、あるいは言われた値段を値切ることはしません。
そんなわけで、市での食品買い出しはもっぱら同居していた夫の母や叔母たちに任せたきりでした。とは言うものの、本当を言えば義母の台所であるからして、わたしは極力手を出さないように心がけたのではあります。。昔から言うではないですか、一つ屋根の下に主婦は二人は要らない、とね。二人いるととかく問題が起こるのであるからして(笑)
それが、1986年、ポルトガルがEC(European Community。現在のEUの前身)に加入した頃から、あれよあれよと言う間に、市内にはファッショナブルなショッピングセンターが数箇所お目見えし、そのうち、地階にハイパーマーケットを構えて上階はファッションショップとファーストフードショップがズラリと立ち並ぶ外資系の大手のショッピングセンターが、郊外に現れ始めました。
映画も、それまではダウンタウンの映画館に行っていたのが、このショッピングセンターへ行くと、映画館ならず、「映画室」が10室近くあり、自分の観たい映画を上映する部屋に入るという具合になりました。
これらの大手のショッピングセンターは、土日祝日でも開いていて、この小さな街の市内郊外に、知っているのだけでも9軒はあります。そのうち更にスペインのデパート「El Corte Englês」がオープンされました。
ヨーロッパ共同体はご存知のように国境がなくなり、物質流通は自由。世界中のブランド品が、お金さえあれば、ポルトでいながらにして手に入れることができる時代になったのす。
中身の程は知りませんが、ポルトガルも都市を見る限りは、生活は80年代に比べると随分便利に、そして豊かになったように見える。
しかし、人間とは不思議な生き物です。これまで手間暇かかってきた事物が改善され、便利になった途端に、自由な時間を楽しむどころか、更に輪をかけて、己を忙しい生活に追い込むようです。
ですから、わたしがこれから述べて行く、我が子たちの「日本語教育」法は、もしかしたら、多忙な現代の方たちには、さっぱり役立たないかも知れませんが、何かのヒントになれば嬉しいと思います。
ポルトガルに来た当時のわたしは、少し英語が理解できるくらい。ポルトガル語の理解力は皆無でした。
今のようにポルト大学での外国人向け・ポルトガル語コースもなく、市内にある語学学校でのポルトガル語コースは個人レッスンのみで、とても個人で払えるような授業料ではありませんでした。
これがわたしの状況でしたから、仕事など探すにも探しようもなく、舞い込んでくるはずもなし。息子が生まれた時、仕事もお金もなかったけれど、「時間」だけはイヤというほどたっぷりあったのでした。
日本にいたときは手にしたことがなかったレース編み、毛糸編みの針を持ち、ひたすら本とにらめっこして、編み物に挑戦したのはそれゆえです。当時のポルトガル女性は家で時間をみては編み物をせっせとしていましたし、どこへ出かけるにも編み物はバッグの中に忍び込ませ、バスの中、病院での順番が来るまでの待ち時間に、編み物をする女性の姿が見られるのは普通でした。
ですから、同居していた義母も夫の叔母もその通りで、教えを請えばよいものを、わたしはそれをせず、独学の方法を採ったのです。可愛くない嫁ではありましたね。けれど、最初は不ぞろいだった網目も、何枚も作っていくうちに目が揃い、テーブル用、ベッドカバーなどの大きなものができるようになり、果ては、子どもたちが幼児期に来たセーターのほとんどは、わたしの手編みになるというところまで、腕をあげました。
このような環境にいたことをお含みいただき、さて、今日の本題に。
息子の学校の選択については、「やりくりして、なんとか頑張ってみよう」と、最終的には夫が折れ、Oporto British School のPrep(プレップ。小学1年への準備幼稚園クラス)に送ろうということになりました。わたしはこの時、夫をいかに説得するかの方法を発見したのであります。うふふ。
以後、かなり難しいことでも、夫はいつの間にか、こちらの陣地に引きずりこまれてウンと言わざるを得なくなるというこの方法は、娘の日本行きにも効をなしたと思います。
ということで、いよいよ次回は、どのようにして、息子と二人三脚、日本語英語を仕入れていったかを綴ります。
人口約22万(2016年)のポルトには、わたしが来た40年前の1980年代と比べてど大きな違いが幾つかある。40年も経てば、人も変わるし都市も変わります。
現在ではポルトも周辺の11市を併せてGrand Porto、つまりポルト都市圏と呼ばれるようになりました。11市というのは、ポルトを始め、Vila Nova de Gaia, Matosinhos, Maia, Espinho, Gondomar, Póvoa de Verzim, Trofa, Santo Tirso, Valongo, Vila de Condeで、この都市圏での人口は約160万人と言われます。
ポルトの街を縫う路面電車
かつての商店街は土曜日の午後と日曜日祝日はどこもかしこも閉まっていました。本当に一軒も開いてるところはありませんでした。7、8月ともなるとあちこちの店も2週間から一ヶ月の夏季休暇に入り閉店であります。
スーパーマーケットもほとんどなかったので、食品の買い出しは、各曜日ごとにどこかで開かれる「火曜市」とか「水曜市」で買い物をするのである。ポルトガル語ではこの手の市をFeira(フェイラ)と言います。
この「市」がわたしは苦手でした。なぜかと言うと、スーパーマーケットと違い、ほとんどの売り物に値段が示されていないのです。よって、交渉して買うことになるのですが、値切った経験などないわたしは、なぜかは知らねど、恥ずかしくて、とてもできることではなかったのです。それは今に至っても同様。どんな所どんな時でも書かれてある、あるいは言われた値段を値切ることはしません。
そんなわけで、市での食品買い出しはもっぱら同居していた夫の母や叔母たちに任せたきりでした。とは言うものの、本当を言えば義母の台所であるからして、わたしは極力手を出さないように心がけたのではあります。。昔から言うではないですか、一つ屋根の下に主婦は二人は要らない、とね。二人いるととかく問題が起こるのであるからして(笑)
それが、1986年、ポルトガルがEC(European Community。現在のEUの前身)に加入した頃から、あれよあれよと言う間に、市内にはファッショナブルなショッピングセンターが数箇所お目見えし、そのうち、地階にハイパーマーケットを構えて上階はファッションショップとファーストフードショップがズラリと立ち並ぶ外資系の大手のショッピングセンターが、郊外に現れ始めました。
映画も、それまではダウンタウンの映画館に行っていたのが、このショッピングセンターへ行くと、映画館ならず、「映画室」が10室近くあり、自分の観たい映画を上映する部屋に入るという具合になりました。
これらの大手のショッピングセンターは、土日祝日でも開いていて、この小さな街の市内郊外に、知っているのだけでも9軒はあります。そのうち更にスペインのデパート「El Corte Englês」がオープンされました。
ヨーロッパ共同体はご存知のように国境がなくなり、物質流通は自由。世界中のブランド品が、お金さえあれば、ポルトでいながらにして手に入れることができる時代になったのす。
中身の程は知りませんが、ポルトガルも都市を見る限りは、生活は80年代に比べると随分便利に、そして豊かになったように見える。
しかし、人間とは不思議な生き物です。これまで手間暇かかってきた事物が改善され、便利になった途端に、自由な時間を楽しむどころか、更に輪をかけて、己を忙しい生活に追い込むようです。
ですから、わたしがこれから述べて行く、我が子たちの「日本語教育」法は、もしかしたら、多忙な現代の方たちには、さっぱり役立たないかも知れませんが、何かのヒントになれば嬉しいと思います。
ポルトガルに来た当時のわたしは、少し英語が理解できるくらい。ポルトガル語の理解力は皆無でした。
今のようにポルト大学での外国人向け・ポルトガル語コースもなく、市内にある語学学校でのポルトガル語コースは個人レッスンのみで、とても個人で払えるような授業料ではありませんでした。
これがわたしの状況でしたから、仕事など探すにも探しようもなく、舞い込んでくるはずもなし。息子が生まれた時、仕事もお金もなかったけれど、「時間」だけはイヤというほどたっぷりあったのでした。
日本にいたときは手にしたことがなかったレース編み、毛糸編みの針を持ち、ひたすら本とにらめっこして、編み物に挑戦したのはそれゆえです。当時のポルトガル女性は家で時間をみては編み物をせっせとしていましたし、どこへ出かけるにも編み物はバッグの中に忍び込ませ、バスの中、病院での順番が来るまでの待ち時間に、編み物をする女性の姿が見られるのは普通でした。
ですから、同居していた義母も夫の叔母もその通りで、教えを請えばよいものを、わたしはそれをせず、独学の方法を採ったのです。可愛くない嫁ではありましたね。けれど、最初は不ぞろいだった網目も、何枚も作っていくうちに目が揃い、テーブル用、ベッドカバーなどの大きなものができるようになり、果ては、子どもたちが幼児期に来たセーターのほとんどは、わたしの手編みになるというところまで、腕をあげました。
このような環境にいたことをお含みいただき、さて、今日の本題に。
息子の学校の選択については、「やりくりして、なんとか頑張ってみよう」と、最終的には夫が折れ、Oporto British School のPrep(プレップ。小学1年への準備幼稚園クラス)に送ろうということになりました。わたしはこの時、夫をいかに説得するかの方法を発見したのであります。うふふ。
以後、かなり難しいことでも、夫はいつの間にか、こちらの陣地に引きずりこまれてウンと言わざるを得なくなるというこの方法は、娘の日本行きにも効をなしたと思います。
ということで、いよいよ次回は、どのようにして、息子と二人三脚、日本語英語を仕入れていったかを綴ります。