2019年4月25日
思えばわたしもポルト在住40年を過ぎようとしており、現在持つ日本語レッスンの4人の年配者生徒(最年長者を85歳)とは、時に政治や歴史の話に及ぶことがあり、1974年までの長期独裁政権のサラザール時代をわたしは知らないけれど、その政権が倒れた5年後にポルトに来たわたしは、当時の街の様子を見ているので少し話に入っていける。
「あなた方は知らないでしょうけど」と、自由を喫している今のポルトガルの若い日本語学習者たちに自分が来た当時のポルトガルの光景を話すこともままある。かつて20数年間勤めた補習校時代にも日本でのわたしの子供時分のことを国語授業の単元によってはとりあげて語りきかせたこともある。
戦後生まれで周囲の多くはまだまだ貧しかったこと。テレビが無くてラジオ放送ドラマで育ったこと。学校ではいじめられっ子だった画近所ではガキ大将でもあったこと。トイレが水洗式でなくてぼっとん式だったこと。風呂は銭湯で、田舎の冬は家にたどり着く頃洗った髪が凍りがちだったこと、トンボとり、蛍がりをしたこと、蚊帳というものがあったこと、おやつは畑からとりたてのキュウリだったこと、など等、時には図入りで、まるで孫に話しかける祖母の如しではあった。親達からはその日の授業内容よりもY先生の子供時代の話をよく覚えていますわと報告されたものだ。
計算の仕方や国語の読み取りを覚えてもらうことは勿論大切だが、そう遠くない昔の歴史を知ることは意義があるし必要である。本で学ぶよりも当時を知る人の口から直に聞くことは記憶に残るだろう。幾時代、幾世代を経て今の平和が培われたのだと年頃になって知ってくれたらと願うものである。
さて、4月25日の今日、「Vinte cinco de Abril (ヴィンテ・スィンコ・デ・アブリル=4月25日)」、カーネーション革命とも言われるが、42年間ものサラザール長期独裁政権を壊滅させて無血革命記念日で休日で、今年は40周年を迎える。無血革命とは言うが、これにたどり着くまでには革命にはつきものの、独裁者側による多くの血が流されたことは言うまでもない。
このところ立て続けに観た映画、2本、いずれも独裁政権を舞台にしたもので、一つはジェレミー・アイアンズ主演の「Night Train to Lisbon」。スイス、ベルンの高校教師グレゴリウス(ジェレミー・アイアンズ)は、ふとしたきっかけから、アマデウ・デ・プラドというポルトガル人作家の著書を手に入れ、その本に挟まれていたリスボン行きの切符で夜行列車に飛び乗り、独裁政権下でのアマデウの足取りを追うことになる。
独裁政権下での地下抵抗組織運動、秘密警察、アマデウとジョージ、そして一人の女性を巡るミステリーを追って過去と現在を行き来するグレゴリウス。彼が訪ね歩くロケ地になったリスボンの古い街並はよく捉えられている。
もう一本は31年もの恐怖独裁政治をとった南米ドミニカ共和国のトルヒーユを扱う「The Feast of the Goat(原題はLa fiesta del chivo=チボの狂宴。Chivoはヤギの意味。日本では未公開のようだ)。主演のイザベラ・ロセリーニの語りで少女時代の残酷な回想を取る形で物語りは進む。政敵、批判者の暗殺、国外追放等を始め、35、000人ものハイチ系住民を虐殺したと言われるトルヒーユ反政府活動側による襲撃殺害までを描いている。
この種の映画は観た後数日、ズシリと重くのしかかるのであまり好まないのだが、かような歴史があることを知るのは自由と平和に甘んじているときには必要なのかもしれない。右派左派関係なしに、人間の自由を抑圧することは誰にも許されないはずである。「自由とはいったい何か」と、この年齢にいたって未だ思い巡らすことがある。
生まれながらにして自由であるのと、自由を渇望してそれを得た時代の人とは自ずと「自由であること」の意味が違うであろう。が、いずれの場合も自由とは責任が伴うものだとわたしは思っている。ともすればわたしたちはそれを忘れ、己の思い通りにすることが自由だと錯覚しがちだ。そんなときに気分が重くなる自由のなかった時代の歴史に目を向けてみる事は意味があると思う。
ポルトガルのカーネーション革命に今日は自由を噛みしめる。自由に甘んじていてはいけない。希望のなかに自由を夢見、ついに手に入れた自由を決して手放してはならぬと嚙みしめる。
本日のエントリー題はスティーブン・キングの本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)に書かれた下記の一節からです。
希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない。
思えばわたしもポルト在住40年を過ぎようとしており、現在持つ日本語レッスンの4人の年配者生徒(最年長者を85歳)とは、時に政治や歴史の話に及ぶことがあり、1974年までの長期独裁政権のサラザール時代をわたしは知らないけれど、その政権が倒れた5年後にポルトに来たわたしは、当時の街の様子を見ているので少し話に入っていける。
「あなた方は知らないでしょうけど」と、自由を喫している今のポルトガルの若い日本語学習者たちに自分が来た当時のポルトガルの光景を話すこともままある。かつて20数年間勤めた補習校時代にも日本でのわたしの子供時分のことを国語授業の単元によってはとりあげて語りきかせたこともある。
戦後生まれで周囲の多くはまだまだ貧しかったこと。テレビが無くてラジオ放送ドラマで育ったこと。学校ではいじめられっ子だった画近所ではガキ大将でもあったこと。トイレが水洗式でなくてぼっとん式だったこと。風呂は銭湯で、田舎の冬は家にたどり着く頃洗った髪が凍りがちだったこと、トンボとり、蛍がりをしたこと、蚊帳というものがあったこと、おやつは畑からとりたてのキュウリだったこと、など等、時には図入りで、まるで孫に話しかける祖母の如しではあった。親達からはその日の授業内容よりもY先生の子供時代の話をよく覚えていますわと報告されたものだ。
計算の仕方や国語の読み取りを覚えてもらうことは勿論大切だが、そう遠くない昔の歴史を知ることは意義があるし必要である。本で学ぶよりも当時を知る人の口から直に聞くことは記憶に残るだろう。幾時代、幾世代を経て今の平和が培われたのだと年頃になって知ってくれたらと願うものである。
さて、4月25日の今日、「Vinte cinco de Abril (ヴィンテ・スィンコ・デ・アブリル=4月25日)」、カーネーション革命とも言われるが、42年間ものサラザール長期独裁政権を壊滅させて無血革命記念日で休日で、今年は40周年を迎える。無血革命とは言うが、これにたどり着くまでには革命にはつきものの、独裁者側による多くの血が流されたことは言うまでもない。
このところ立て続けに観た映画、2本、いずれも独裁政権を舞台にしたもので、一つはジェレミー・アイアンズ主演の「Night Train to Lisbon」。スイス、ベルンの高校教師グレゴリウス(ジェレミー・アイアンズ)は、ふとしたきっかけから、アマデウ・デ・プラドというポルトガル人作家の著書を手に入れ、その本に挟まれていたリスボン行きの切符で夜行列車に飛び乗り、独裁政権下でのアマデウの足取りを追うことになる。
独裁政権下での地下抵抗組織運動、秘密警察、アマデウとジョージ、そして一人の女性を巡るミステリーを追って過去と現在を行き来するグレゴリウス。彼が訪ね歩くロケ地になったリスボンの古い街並はよく捉えられている。
もう一本は31年もの恐怖独裁政治をとった南米ドミニカ共和国のトルヒーユを扱う「The Feast of the Goat(原題はLa fiesta del chivo=チボの狂宴。Chivoはヤギの意味。日本では未公開のようだ)。主演のイザベラ・ロセリーニの語りで少女時代の残酷な回想を取る形で物語りは進む。政敵、批判者の暗殺、国外追放等を始め、35、000人ものハイチ系住民を虐殺したと言われるトルヒーユ反政府活動側による襲撃殺害までを描いている。
この種の映画は観た後数日、ズシリと重くのしかかるのであまり好まないのだが、かような歴史があることを知るのは自由と平和に甘んじているときには必要なのかもしれない。右派左派関係なしに、人間の自由を抑圧することは誰にも許されないはずである。「自由とはいったい何か」と、この年齢にいたって未だ思い巡らすことがある。
生まれながらにして自由であるのと、自由を渇望してそれを得た時代の人とは自ずと「自由であること」の意味が違うであろう。が、いずれの場合も自由とは責任が伴うものだとわたしは思っている。ともすればわたしたちはそれを忘れ、己の思い通りにすることが自由だと錯覚しがちだ。そんなときに気分が重くなる自由のなかった時代の歴史に目を向けてみる事は意味があると思う。
ポルトガルのカーネーション革命に今日は自由を噛みしめる。自由に甘んじていてはいけない。希望のなかに自由を夢見、ついに手に入れた自由を決して手放してはならぬと嚙みしめる。
本日のエントリー題はスティーブン・キングの本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)に書かれた下記の一節からです。
希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない。
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