2018年7月22日
昨日の拙ブログ記事「炉端」に登場したかつての会社の同僚、日本びいきが嵩じて、日本名「炉端愚論人(ろばた・ぐろんじん)」と言う判子まで作ってしまった、ボブことロバート・グロンディンの話です。
ビアハウスのバイト歌姫時代は同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」とわたしはめったにしないことなのですが、ふといたずら心でその人の名を検索して見ました。
「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」・・・・
日本語英語検索で両方、出てきました。なんと、彼は東京のとある国際的な法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭をとり、ワイドショーの討論にも出演して国際経済問題を語っていたとは!
在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにかけ、まぁあなた、随分活躍しているのね。と思いきや次の文字に軽いショックを受けました。
弁護士. 2011年10月に逝去。
そんなわけで、今日は遅まきながらボブへの弔い話を。
東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとはかつて同僚同士で休暇を利用してヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともある間柄でした。
我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にしてみると随分愉快な職場だったと思い出されます。少人数のこともあり、社員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。
パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡のやりとりでは、電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。
誰が始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメッセージを誰かが書き始め、すると、それに対するレスポンスもユーモアに書き足され、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込
む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで真っ黒けになるまで、続けられたのでした。
もちろん、最初はボブやわたしのメッセが中心であったわけですが、それに他の社員も加わり(笑)誰の目にでもつくその封筒、ある日、我らが所長が目に入り、「なんだ、これは、お前たち!」と相成りお叱りを受け(笑)以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;
10人くらいの小さな大阪支店の社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし。
同僚の女性Tとわたしは同い年で、本社支店合わせても、エヘン、最高の事務仕事コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーしたTの苦労やいかばかりかw
社員旅行の鳥取砂丘でのひととき。20代、30代、40代でこれです。逆おしくらまんじゅうw 赤い人がわたしw こんな状態は今ならさしづめセクハラとかでお咎めを受けるかしらw そんなことは思いもせず、みな単純に童心に帰ってw
こんな雰囲気のオフィスです、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあって然るべき(笑) そのうちボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その後二人はニューヨークへ。
法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで留学目標額に到達し、オフィスを退職してアメリカへ渡り、やがてポルトガルで子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途絶えてしまったのでした。
1977年渡米直前のオフィス時代最後。
まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。
人のことは言えないけれど、ネット上で見るかなり恰幅がよかった写真にはやはり上の若い時の面影が見られます。享年59歳。ボブ、ちょっと早かったのが残念ですよ。しばし、あのオフィス時代に思いを馳せて、あなたの冥福を祈ったのでした。
昨日の拙ブログ記事「炉端」に登場したかつての会社の同僚、日本びいきが嵩じて、日本名「炉端愚論人(ろばた・ぐろんじん)」と言う判子まで作ってしまった、ボブことロバート・グロンディンの話です。
ビアハウスのバイト歌姫時代は同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」とわたしはめったにしないことなのですが、ふといたずら心でその人の名を検索して見ました。
「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」・・・・
日本語英語検索で両方、出てきました。なんと、彼は東京のとある国際的な法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭をとり、ワイドショーの討論にも出演して国際経済問題を語っていたとは!
在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにかけ、まぁあなた、随分活躍しているのね。と思いきや次の文字に軽いショックを受けました。
弁護士. 2011年10月に逝去。
そんなわけで、今日は遅まきながらボブへの弔い話を。
東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとはかつて同僚同士で休暇を利用してヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともある間柄でした。
我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にしてみると随分愉快な職場だったと思い出されます。少人数のこともあり、社員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。
パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡のやりとりでは、電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。
誰が始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメッセージを誰かが書き始め、すると、それに対するレスポンスもユーモアに書き足され、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込
む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで真っ黒けになるまで、続けられたのでした。
もちろん、最初はボブやわたしのメッセが中心であったわけですが、それに他の社員も加わり(笑)誰の目にでもつくその封筒、ある日、我らが所長が目に入り、「なんだ、これは、お前たち!」と相成りお叱りを受け(笑)以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;
10人くらいの小さな大阪支店の社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし。
同僚の女性Tとわたしは同い年で、本社支店合わせても、エヘン、最高の事務仕事コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーしたTの苦労やいかばかりかw
社員旅行の鳥取砂丘でのひととき。20代、30代、40代でこれです。逆おしくらまんじゅうw 赤い人がわたしw こんな状態は今ならさしづめセクハラとかでお咎めを受けるかしらw そんなことは思いもせず、みな単純に童心に帰ってw
こんな雰囲気のオフィスです、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあって然るべき(笑) そのうちボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その後二人はニューヨークへ。
法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで留学目標額に到達し、オフィスを退職してアメリカへ渡り、やがてポルトガルで子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途絶えてしまったのでした。
1977年渡米直前のオフィス時代最後。
まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。
人のことは言えないけれど、ネット上で見るかなり恰幅がよかった写真にはやはり上の若い時の面影が見られます。享年59歳。ボブ、ちょっと早かったのが残念ですよ。しばし、あのオフィス時代に思いを馳せて、あなたの冥福を祈ったのでした。
あゝ〜国🇯🇵の一千何兆円の解消はいつの日やら(^_-)
愚論転じて愚痴になりました(^_-)この辺でバ〜イ(^_-)