ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

不便さを哲学に

2017-11-13 23:04:45 | ポルトガルよもやま話
2017年11月13日

今でこそ断水、停電がめったになくなったわたしの住む区域であるが、わたしがポルトに来た頃はしょっちゅうだった。日本ではそんな経験がほぼなかったのでポルトガル新米のわたしは、エラい所に住む羽目になったなぁとかなりとまどったものだ。

わたしは義母、そして夫のおばたちと6年間同居していたのだが、義母の台所の調理器具の火元は電気なので停電ともなれば料理ができない。水が出なければこれまた料理不可で、断水・停電どちらにしても即、困った事態に陥るのである。お湯も電気で沸かすのでシャワーも浴びることはできない。

日本のように、何日の何時から何時まで断水だとか、停電だとかの予告なく突如としてそうなるもので、赤ん坊を抱えていた時期など、停電断水対策なくしては日々の生活は済まされなかった。
一度などこんな冷や汗をかいたことがある。

ーーー随分昔の、とある水曜日の午前中のことです。
日本語レッスンを予約していた生徒が来なかったもので、キャンセルされた時間を利用して、しばらくぶりに染髪することにした。染料を塗りつけて30分ほど置かなければならないのはご存知の通りです。

で、その間ちょいとメールチェックでもしようかとパソコンをオンにしたのであります。そしたら、日頃からネットでおしゃべりしていたチャット仲間にとっつかまり、ああでもないこうでもないとしようもない話で盛り上がり、「アッ!」と気づけば所要時間を過ぎること40分!髪はすでにバッリバリのバリ!

「すわ、たいへん!」てことで、慌てて仲間にオサラバし、バスルームに駆け込んで、「さぁ、洗うべぇ」と蛇口をひねったら、ひねったら、ひねったら、・・・水が出ない!!!!(泣)だ、断水よ・・・(予告無しの断水、停電がこちらではよく起こる^^;)出ないといったら憎ったらしいくらい一滴も出ません・・・染髪の色どころか、頭の中、真っ白であります。

義母と同居中のときは、よってもって食料庫の中にわざわざ補給水用のタンクをとりつけてもらったのですが、子どもも二人になり、義母の家もそれでは狭くなり、引っ越して別居した先はフラット(アパート)でもあるから、まぁ大丈夫かと高をくくったのが甘かった・・・

「よし、こうなったらもったいないが飲用水として常時買い置きしてあるミネラルウォーターで」と思ったのですが、染料を全部くまなく洗い落とすには相当量の水がいる。とても5リットルボトル4つくらいでは足りそうもない。午後には日本語レッスンがあるんや~、どないしよう・・・どうしようかとウロウロしているうちに、時間はどんどん過ぎて行き、髪のバリバリ度は更に増していく。

なんでもよく知っている大阪出身の友人に「このまま夕方まで放っといても、髪、大丈夫かなぁ」と電話してみた。開口一番、「あんた、またそんなアホなことしとんのか。夕方まで放っといたらどうなるぅ?知るかい!」
つ、冷たい奴め・・・好き好んでしたんじゃないわい。

はっ!と気づいたは、義母の家の補給水。確かあったはずだ!ここから目と鼻の先です。電話であちらのお手伝いさんと話をつけて、お風呂を借りることになりましたのね。

「でも、この頭をどうやって隠してあそこまで歩いて行くかなぁ」と思いつつ、何気なくもう一度水道の蛇口をひねったら、ひねったら、ひねったら~水がでた!「ハレルーヤ!」

ほんと真っ白になったり真っ青になったりした忙しい半日でした。そして、長時間置かれたそのバリバリ頭のせいで、今回はやたら赤くなってしまったわたしの髪であります。こういうハプニングが起こるのって、日本のような文明国では考えられないことですね、きっと。(笑)

電気が再び点いたときの、水が再び蛇口から流れ出たときの感動は、それはもう長らく忘れていた素朴な喜びの感情でもありました。---

停電ともなるとテレビ、ラジオ、ステレオなど普段何の疑問も持たずに湯水の如く使っている文明の利器が突如として取り上げられるのである。さすがおたつきます。しかし、何度か経験しているうちに、愚痴を言っても始まらない、しからば今できることをしようではないかと考えを改め、蜀台にろうそくを立てソファに座ってレース編みなどをするようになった。雑音のない静寂な時間は普段なかなか持てないものだ。

日の出とともに働き出し暗くなるとともに就寝するという原始的な生活習慣を人はいつの頃から捨て始めたのだろうか。夕焼け空に目を向け夜空の月や星を仰ぐのは季節を見るだけではなく、大いなる宇宙のなかの人間という小さな存在を感じ取り、生命に思いを馳せる哲学的な時間を持つことでもあったのかも知れない、とそんなことを考えたりして、いつの間にか断水停電に対してあまり動じなくなりつつあった頃に、曽野綾子さんのこんな言葉に遭遇しわたしは妙に納得したのだった。

「不便を体験すると人間はしばしば哲学的になる」

積極的なボランティア活動でアフリカ等の未開発国を何度も訪れては、多くの、いわゆるわたしたちからすれば大いなる不便さを目の辺りにしてきた氏だからこそ、言えるのであろう。

物事を沈着に考えるのに文明の利器は要らないかも知れない。必要なのは便利さに振り回されない時間を自らが作ることだと思うのだ。人間が万物の霊長とされるのは思考することができるという、他の動物とのその一点の違いだ。が、今ほど人が「考える」ということをしなくなった時代はないのかも知れない、と思い、溢れた物に囲まれ、時間に追われ刻まれるような毎日を送っていることが、時にふと怖くなったりするわたしだが、皆さまはいかに。

ハゲワシの見る夢

2017-11-12 09:55:43 | ポルトガルよもやま話
2017年11月12日 

子どもたちが二人ともまだ10歳に満たない頃の夏、家族旅行で行ったポルトガル南部のRibatejo地方、テージュ川も上流の、人家の少ない静寂な宿泊先に、「Estalagem Vale Manso」というのがあったのだが、そこの食事処から朝食時二日とも、山並みの見える天空を悠々と飛翔する一羽の鷲を見た。

数年前にも人里離れたアレンテージュ地方の山中で、人も見かけなくなり、この先更に、車で行くべきか引き返すべきかと、家族4人車中で話し合っているときに、車のフロントガラスを通して目の前を、バサリと大きな鳥が飛んで行くのを見た。子供たちとあれは鷲だろうと話したのであった。

結局その時は、子どもたちが同乗していたことであり、車で引き返せない状態になったらという万が一のことを思い、引き返したのであった。しかし、あれこそ、ほとんど手付かずの自然の姿であろう。

自然環境云々とわたしたちはよく口にするが、自然を取り壊し住宅地や町を作り、わたしたちは知らず知らずのうちに、自分たちに都合良い、まがいものの自然を建造しているのである。町に住むわたしたちの周囲にある、いわゆる自然と呼ばれるものはこのまがいものであろうと、わたしはこういう鳥との出会いに触れる度に思う。

もう一昔ほどにもなろうか、夫を引っ張り出して行ってきたポルトの隣町ガイア市にあるParque Biologico(自然公園)で三度目にハゲワシにお目にかかった。実際あんなに近くで見たのは初めてで、その羽の美しさに思わず目を奪われたものだ。



数羽いた中に、デジカメを向けるわたしにエラく興味を持ったのか、その鋭い口ばしでカメラをつつくかと思われるほどに、「ぬぬっ」っと網越しに近づいて来て、興味津々の表情を向ける一羽がいた。

見よ、その強大なくちばし、その爪足!



元来が怖がり屋のわたし、この口ばしと「なぬ!?」とでも言っていそうなユーモラスな、しかし間近にする怖い目に、思わずズズッtとデジカメ持って後ずさりしてしまった。

標札には簡単に「Grifo=ハゲワシ」とあったが、家に帰り調べてみると、ハゲワシには数種類があり、これはどうやら「シロエリハゲワシ」と言うらしい。アフリカ、南ヨーロッパなどに生息し、翼を広げて飛翔する姿は2.6メートルにもなるのだそうだ。


この写真はWikiから

翼を広げグライダーのように悠々と飛翔するハゲワシは、他の動物の死骸でも探しているのだろうか、「掃除屋」との別称を与えられながらもその姿は美しい。

が、自然公園のハゲワシは、わたしの写真から分かるように、鉄と網とで囲まれてままならない。

自然公園も人間が創造したもので、まがいものの自然なのである。このシロエリハゲワシ達はきっと天空高く飛翔できるのを夢見ていることだろう。自由に飛べないなんてつまらねぇ。暇つぶしにカメラを向けるおアホな人間の顔でもどれ、ってところだろうか。

とまぁ、今日もこんなオチでございます。

我が東京息子の日本語

2017-11-10 13:26:42 | 家族の話
2017年11月10日 

息子も娘も30を超えましたが、昔から言われる通り、幾つになっても子は子。親にとっては可愛く、気にもなる存在です。

そんな訳ですから、日本とポルトガル、遠く離れたわたしたち親子は、わたしがパソコンをよく知らないままではありますが、昔の仕事柄、タイピングが速いので、親子でスカイプを通じて文字会話をするのはしょっちゅうです。

娘は大学生だった頃、また、息子は時間的に余裕があった日本の生活が始まった頃には、毎日のように親子でおしゃべりをしたものですが、その頃に比べ、それぞれ仕事を持っている子どもたちです、娘は共稼ぎの現在、息子は少しは将来のことを考え始めたのか、大学の英語講師の仕事を増やし、なにやら日常生活が忙しくなったようです。

そんな中でも、ポルトガルに住むわたしたち親を気にしてか、以前のように毎日ではないにしろ、スカイプで結構頻繁に声をかけてくれる子どもたちです。

さて、昨日のこと、息子曰く、「今日の仕事、あがった。二度も電車の方向間違ったアホ(笑)」と来た。「ふ、二日酔いじゃぁないのん?」と言う母親に、「平日や次の日仕事がある日は飲まない」。

ふむふむ、いい心がけじゃ。もう家なの?と聞くと、「えへ。帰宅前にちょっと一杯ひっかけてる」
おい!花金は明日だよ。平日や次の日仕事がある日は飲まないと言った矢先ではないか(笑) すると、たまたま明日は仕事がないのだそうだ。なぁんだ。

「帰宅前にちょっと一杯ひっかけてる」なんて、すっかり日本のサラリーマンもどきではないの、と実は苦笑した母でありました。そうしてみたら、こんなことがあったなぁと、息子のリスボン時代のことを思い出したのでした。以下。

2007年 「ボク」から「わたし」に

リスボンに住み、(ヘンチクリンなw)音楽作曲をしたいからと言って、定職に着いていない我が息子、非常勤英語教師とwebデザインを請け負ってのカツカツの生活をしている。外食は高くつくからと、ほとんど自炊である。

気になるので、お金は足りてるのかと時々聞くのだが、送金頼むなどの言葉は息子の口からは出ない。

娘もそうだが、息子も時々、言葉を教える時のコツのようなものをわたしに聞いてくる。
「生徒が疲れてるみたいで授業にのってこない」「自分が日本語を理解できるのを知っているので、日本人生徒はついつい日本語を求めがちだ」などなどだ。

人に教えるということは、マニュアル通りにすればいいというものではない。資格があっても豊かな経験がないといい授業は難しいのである。息子も娘もその点では「先生1年生」だ。大切なことは、どうしたら生徒が学んでくれるかと色々工夫する熱心さを持っていることだとわたしは思っている。その情熱がやがて自分独特の授業を編み出すことになる。

もちろん、基本指導を元にしての上である。わたしも今日自分なりの教授法ができるまでは、使ってみてはボツにしたアイディアがどれほどあるか知れない。息子よ、娘よ、もがきながら常に前進したまえ。

さて、その息子、電話で話していて、新発見したことがあった。

これまでずっと彼は、「ボク」をつかっていたのに、あれれ?なんと「わたし」に切り替わっているではないか!

先だってわたしが語学授業の参考にと送ってあげた「Japanese for Busy People](ビジネスマンを対象にした日本語教本)を読んでみたようで、その影響ありかな?

息子が「わたし」なんてやってると、「アンタねぇ。」とは、おっかさん、やりにくい。でも、一チョ前の人間と話してるみたいでなんだか面映かった。

「わたしは、もう一度日本語を勉強しようかと思ってるんだけど・・」って来た時には、思わずプッと噴出しそうになったぜ、息子よ(笑) クックックと内心笑いながらも、幾つになってもこうして学習したことを使って見ようという息子の心がけに、どこか嬉しく思う母親である。 ――



小学校1年生から中3まで、週に一度の補習校で学んだ国語は、学年が上に上がるにつれ漢字も語彙も段々怪しい状態になって行き、高校部がなかったもので、卒業後はほとんど日本語の読み書きから離れてしまった息子です。

リスボン大学へ行ってからはそれに拍車をかけ、話すことからも遠ざかりましたが、補習校で培った国語は日本に住むことで少しずつ蘇り、日本語から英語、ポルトガル語への翻訳も副業で受けている息子は、現在も日本語を独学しています。

日本で生まれ育ったわわたしにとってもそうなのですが、言葉は永遠に勉強の連続だと思います。日本語に限らず、英語もポルトガル語も然り。これで終わり、ということはない。学べば学ぶほど、教えれば教えるほど奥が深く、面白くなるのであります。

「帰宅前にちょっと一杯」なんて表現は、仕事が終わったらまっすぐ帰宅」のポルトガル語にはないからね。来年の帰国には、息子よ、二人して、どこぞへちょいと一杯ひっかけに行こうか!

杉本町純情:アルハンブラの思い出

2017-11-08 19:27:32 | 思い出のエッセイ
2017年11月8日 

今日は思い出話です。

思い出話をすると、「そんな時代にわたしも生まれたかったなぁ。」と、我が娘が羨む、1960年代後半、わたしの19から20歳にかけての、今日は話である。

その昔、大阪は杉本町、大阪市立大学の近辺に「津国ビル」と呼ばれる大きな下宿ビルがあった。コの字型の二棟に分かれている下宿ビルは、三階建てで200部屋ほどがあった。個室は三畳、それに小さな押入れがついているだけだ。机を入れたらベッドは入らない、ベッドを入れたら机は入らないのである。一階には大きな食堂があり、まかない付き、トイレは共同で、風呂はなし。よってみな近所の銭湯へ出かける。

さて、下宿人だが、これが200人くらいの中に女性はわたしも含め、たったの5、6人。残りは全部男性である。下宿人たちの職業は様々で、夜間高校生、大学生、各種学校生、予備校生、若い高校教師、写真家、サラリーマン、そしてわたしのような、今で言うフリーター(そう言えば、わたしなどフリーターのハシリかも知れないw)といった具合の集まりであった。
わずかの衣類と借り物である寝具を引っさげて、わたしはとあるきっかけでその下宿屋に紛れ込んだのである。

上述の職業からわかるように、津国ビルは若人の花盛り。多少年齢がいったとしてもせいぜい30歳を少し超えるである。年配の管理人夫婦がいて、玄関口を入って左側に事務所があり、電話は呼び出しだ。電話が入ると校内放送ならず、下宿内放送で、「○○号室のspacesisさん、電話です。事務所までお出でください。」と呼び出しされる。話の内容は、管理人には筒抜けである。まかないは朝6時から9時までの朝食と、夕方6時から9時までの夕食の2食である。

これだけ若者が集まっていると、外での交友よりその下宿屋内での友だちづきあいが多くなり、わたしはよく大阪市大や私立の学生たち、イラストレーターのタマゴ、タイプ学校の学生たちの仲間に入っては、毎晩のように一部屋に集り、明け方まで人生論にふけこむこと、日常茶飯事であった。そして、朝一番、6時の朝食めがけてわたし達はドドッと食堂になだれ込むのであった。

朝食にはまだ早い6時前、この時間になると眠気はすっかり吹っ飛んでしまうものだが、しかし、話もだいたいおさまってひとまず解散、各々の部屋に引きあげようとなったある朝、玄関口の板場に座り、靴紐の結びをほどいている若者に出会った。

「おや、朝帰りですか?」と無遠慮に尋ねたわたしに、「いや、今一仕事終えてきたとこです」。
どこか幼さを残すがしっかりしたような印象を受けたその若者は、聞いてみると新聞配達をしながら下宿生活をしている夜間高校生であった。わたしと同じ棟に住むのであるが、そのときわたしは初めて彼と顔を合わしたのであった。I君、16歳、両親をとうに亡くしていた。

早朝に玄関先で言葉を交わしたこの時がきっかけとなり、お互いの時間が空いている暇を見ては、色々な話ををしたり本を貸しあったりする付き合いが始まった。わたしたちが会う場所は、日中は洗濯ものだらけでも、夜はあまり人が行かない屋上である。

そこからは少し離れて杉本町の操車場が見えた。今と違って一晩中開いているコンビニやファーストフード店などなかった時代だ。下宿屋ビルの屋上から見下ろす夜の町はしんとして、街灯も理不尽なこの世界から若者をかばおうとでもするかのように、そこそこに明るいものであった。
わたしは時々思うのだが、今の街の灯りは煌々とし過ぎて夜昼の区別がつかない。安全性のためとはいえ、実に優しさがない。

I君と下宿屋の屋上で話すことの理由は、ひとつに、狭い部屋は若い男女2人きりというのはどうも具合がよくない。それと、わたしがつるんでいた予備校生や大学生のグループに彼は入りたがらなかったのである。

I君はギターを弾く少年であった。夜更けの誰もいない屋上で、聴衆者はわたし一人の話の合間に開かれるミニコンサート。ギターを一度でも手がけた人なら誰でも知っているであろう、ギター名曲、ソルの「月光」「アストリアス」そして、タルレガの「アルハンブラの思い出」。

夜のしじまを縫って奏でるギターは、16歳のI君の内面がちょこっと見えるようで、わたしは切なく思ったものである。

I君との交友は長くは続かなかった。かれとはお互いに読んだ本の交換もしていたのだが、ある日、わたしが彼から手にした本には「紅岩」という題が書かれてあった。中国の文化大革命を背景に当時の中国の若い人たちを主人公にした物語であった。

わたしはどこか本能で、「紅岩」の持つ思想とは、相容れない自分を知っていた。わたしは行動も考えも他から縛られるのは、全くもってごめんだと思う人間なのだ。 I君の本にある思想は、「民衆の自由を勝ち取る」とは謳うものの、19のわたしではあったが、それが謳いあげていることとは真逆で、個人の自由を、思想を否応なくむしりとるよう見えた思想だった。相容れない思想の相違は、それ以上付き合いを深めるには障害だった。

まだ世の中を見ていない16歳の少年を、その思想にかりたてた環境がわたしには残酷に思えたものである。

後年、白いギターを手に入れたわたしは、あの頃のI君を思い、彼がよく弾いていたギター曲3曲の楽譜を探し出し、独学で挑戦してみた。わたしが一応弾けたのは「月光」だけである。

「アルハンブラの思い出」の曲を耳にすると、そのトレモロにどうにも歯がたたなくて弾くのを諦めたのと同時に、身寄りの少なかった16歳の少年の心中を思いやって、わたしは切なくなってしまうのだ。

屋上で別れてから50年近い月日が流れてしまった。I君、君はあれからどんな人生を歩んだのだろうか。

三度笠でござんす

2017-11-07 09:40:56 | 思い出のエッセイ
2017年11月7日 

ずいぶん以前のことではある。

所沢の妹からのメール内容に思わず懐かしくなり、すっかり「股旅気分」(笑)

「股旅CD」手にいれた。覚えてる?
 
♪「春は世に出る草木もあるに アホウ烏の泣き別れ~」

大川橋蔵主演映画「旅笠道中」で、三波春夫が歌っていたものだ。そして、歌詞の1番から3番までそらんじておる自分^^ 妹によると二人で観にいった映画だ、とありまする^^いったいいつ頃のことであろうか。

そう思い、映画の上映時期を調べて見ると、なんとわたしは10歳、妹は8歳ではないか。
わたしは近頃、我が妹の記憶力の良さに、舌を巻くのである。二つ年上のわたしがちっとも覚えていないことまで彼女はしっかり記憶していることが多い。おそろしや、逃げも隠れもできません(笑)

誤って弟分の源次郎を手にかけてしまった草間の半次郎。伊那でその源次郎を待つ盲目の母親(浪花千枝子)に、妹に頼まれて息子を装う。盲目と言えど母親は、やがてそれが息子でないことに気づくのだが・・・

懐かしくてその歌が聞きたくなり、Youtubeで検索すると、出てくるのは同じ「旅笠道中」でもショウジ・タロウや氷川きよしの「夜が冷たい 心がさむい~」ばかり。わたしは俄然、三波春夫の「旅笠」が好きである。

若い頃から、あちらこちらと落ち着きなく彷徨して、母にはずいぶん心配をかけたわたしだ。
3番目の最後の箇所、「伊那の伊那節 聞きたいときは 捨てておいでよ三度笠」の辺りに来ると、なぜかジンとくる。ポ国に嫁いでくるときに、亡き我が母が言った、「どうしてもダメだったら、わたしの目が黒いうちに帰ってくるんだよ」の言葉と重なってしまうのだ。
                             
我らが母はハイカラで洋画好きだった。同時に時代劇をも好み、わたしと妹は一緒に映画館に連れられてかなりたくさんの東映任侠映画を見せられた。特にわたしの記憶に残っているのは、長谷川一夫の「雪の渡り鳥」である。
                                           
♪「かっぱからげて三度笠 どこをねぐらの渡り鳥
愚痴じゃなけれどこの俺にゃ 帰る瀬もない伊豆の下田の灯が恋し」
                                                   

-wikiより-

伊豆の下田の渡世人、鯉名の銀平の秘めたる恋を絡めた、ご存知股旅映画。雪の降りしきる中、合羽絡げて三度笠をかぶり、スックと立つカッコよさに、子供のわたしは至極憧れたものである。「鯉名の銀平」と名がすぐ出て来るのは、検索したからではない(笑)

この主題歌は3番まであり、それをわたしは全部そらんじてるのである^^
      
♪「払いのけても降りかかる なにを恨みの雪しぐれ
俺も鯉名の銀平さ 抜くか長ドス 抜けば白刃の血の吹雪」

と、歌詞に名前が出てくるから覚えているのである。

ちなみに「かっぱ」の語源はポルトガル語の「capa」。大学生が今でも着る。16世紀にキリスト教布教に訪日した宣教師たちが羽織っていたもので、南蛮蓑とも呼ばれ、元は高価な布を用いて織田信長、秀吉を始め、上級武士の間で広まり、後に裕福な町人にひろまったようだ。それがいつの間にか渡世人のトレードマークになるとは^^;



ふと思った。昨今の新しいJ-ポップ(Japan pop music)、色々とある。中にはなかなかいい歌詞もあるにはある。しかし、これから30年40年経ち、今のティーンズたちがわたしの歳になったころ、彼らにとってどんなものになるだろうか。
                                                              もう40年以上も昔に覚えたこれらの歌詞は、日本古来の七五調であり、そらんじ易い。藤村も啄木も土井晩翠も、堀口大学の訳詩集「月下の一群」も、それらの作品はなべて、この七五調である。若い時にそらんじたこれら七五調の歌や詩が、時折ふと顔を出して子供の頃や母との思い出にわたしを誘う。過ぎし日に思いを馳せながらつくづく思うのだ。人生って初めから今に至るまで、何から何まで繋がってるんやなぁと。

それでは今日はみなさま、この辺で。
西も東も風まかせ。失礼さんでござんす(笑)