信の信州からの贈り物

信州で単身生活 6年、その間に魅せられた信州の大自然。そして関東周辺の自然と花々を織り交ぜて発信しています。

蔵の街を歩く

2021年07月06日 | 街紀行




お早うございます、信です。
ようやく雨の降ってない朝になりましたが、ついさっきまで霧雨が街を包んでいたような朝です。

昨日、mRNAのファイザー製ワクチンを注入し、左腕が筋肉痛のような鈍い痛みを感じます。
他に違和感は感じませんが、大事をとって昨夜はウォーキング後のビールは控えました。

次回は3週間後です。集団接種会場だったので、別途、予約が必要なのだろうと思いましたが、次回の接種予約済の紙を頂きました。
至れり尽くせりの対応でした。感謝です。


さて太平山のあじさい坂を下って、永野川を渡り栃木の街に入りました。
栃木駅近くの emma さんでかき氷タイム


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良い雰囲気のお店でしたが


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グルメリポートに慣れておらず、肝心のかき氷を写すのを忘れました。







一休みした後


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日光例幣使街道を北上し、巴波川の川べりへ。


京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。
その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。 例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。
この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。 この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。





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こちらは駅側です


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相変わらず、鯉が元気に泳いでいました


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蔵の街遊覧船乗り場です


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ちょうど遊覧が終わって、帰って来たようでした。






タイムスリップしたような感覚です


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前に乗せて頂いたことがありましたが


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船頭歌が長閑に響く 静かな遊覧船でした


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塚田家は江戸時代後期の弘化年間(1844~1848)から木材回漕問屋を営んできた豪商でした。

当時は木材を筏に組んで巴波川(うずまがわ)から利根川を経由し、
行きは一昼夜、帰りは三日三晩をかけて江戸深川の木場まで運んでいたといわれています。

巴波川沿いにある120メートルほどの黒塀、
白壁の土蔵の聳え立つ姿が巴波川の水面に移り、そこに風が吹いて辺の柳の葉が一枚舞い降り・・・。
その風景は栃木の代表的な景色としてテレビなどでも幾度も登場しています。





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幸来橋の下が船着き場になっているようです


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少し歩いて旧栃木県庁へ


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旧県庁跡地唯一の遺構 明治4年(1871)の廃藩置県により、その11月に下野国は栃木県と宇都宮県にわかれ、さらに、明治6年(1873)には栃木県に統合され、栃木町は下野国を一つの県とする栃木県庁の所在地となった。
現在の栃木市役所、栃木市立栃木中央小学校、栃木県立栃木高等学校のある区域がその敷地跡である。 当時、その敷地の周囲に、約1キロメートルに及ぶ堀を巡らしたが、その堀が今も残り、県庁堀と呼ばれて多くの鯉が群れ泳ぐ姿を見せている。
明治16年(1883)第三代県令となった三島通庸(みしまみちつね)はその翌年、県庁を宇都宮に移転したため、わずか13年で県都の幕を閉じている。
この移転の事情には諸説あるが、当時、栃木町が自由民権運動の拠点であったこともその一因といわれている。 旧県庁跡地唯一の遺構である県庁堀は平成8年(1996)県指定文化財(史跡)となった。
(栃木市観光協会hpより)




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県庁堀にコウホネが咲いていました


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県庁堀の案内です 




ぶらり栃木市役所まで


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巴波川沿いをぶら歩きしました


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さて明日はどこを歩くやら。。


 撮影日: 6月20日
 撮影場所:栃木市 巴波川


それでは皆様、ご機嫌よう。











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