沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

先生を殺したのは私です 四(最終回)

2023-04-02 08:41:26 | 小説
 私と久米は東京に戻って、早速、都庁に佐川知美を訪ねた。
「すみません、お仕事中にお伺いして」と久米が言って、私たちは頭を下げた。
「忙しいので、手短にお願いします」
「あなたは久保志保さんをご存じですか?」と久米が口火を切った。
「はい、同級生で同じ法学部でした。一年生の時は、同じクラスでしたが、そんなに親しくはありませんでした」
「彼女が自殺したのを知っていましたか」
「旅行中、田所さんから聞いて驚きました」
「久保志保さんと山本教授との関係については知っていましたか」
「それも田所さんから聞きました」
「あなたは、田所さんをよくご存じですか」
「生協でお会いするぐらいでした。ツアーでお会いした時には、お互いに驚きましたよ」
 佐川知美が時計を見て、そわそわし始めたので、私たちは二三の質問をしてから、都庁を後にした。
「藤沢さん、佐川知美は白ですね」
「白に間違いないでしょう」
「田所正は、明日十時に自宅で待っているとのことです」
 久米が、すでに田所にアポイントを取っていた。

 十時に、東京メトロの豊洲駅から十五分ほど歩いて、田所正のマンションに私と久米は入った。
「たびたび、ご苦労様です」田所正が、扉を開けていって、リビングに私たちを通した。
「あなたは、久保志保さんをご存じですか」と久米が単刀直入に聞いた。
「ええ、よく知ってますよ」
「亡くなられたことも」
「はい」
「久保志保さんとあなたの関係ですが、どのような関係でしたか」
「彼女が、M大学に合格して、大分から上京してきたんです。生協で、彼女が困ったようなそぶりをしたときに、声をかけてからの付き合いになりました。変な付き合いではありませんよ、刑事さん。当然ですが、彼女は、都会のことを全然知らなかったので、それからというもの、よく相談にのってあげました」
「ところで、あなたは久保さんが亡くなった原因をご存知ですか」
「彼女は、山本先生の子を宿したんです。それなのに・・・。そのことを知った先生は、それからというもの、彼女を冷たくあしらい、袖にしたんです。彼女は、生きる気力を失い、私が何をいっても聞く耳を持たずに、とうとう死を選んでしまいました」
「以前、お聞きしたと思いますが、あなたは、山本さんが、殺害された時、どこにいましたか」
 田所正は、しばらく考え込んでから、意を決した表情で話し始めた。
「伊藤恵さんから十時にホテルの裏庭で山本先生と話をすると連絡を受けていたので、その時間に裏庭の木立の陰で二人の会話を聞いていました」田所は、これ以上話したほうが良いか躊躇しているようだった。
「田所さん、あなたが真実を語ることで、きっと他の人の苦しみを開放することになると思いますよ」
 田所正が、ゆっくりと慎重にと答え始めた。
「山本先生が、ばかばかしい帰ると言って話を切り上げ、ホテルに戻ろうとした時、運転手の山田さんが、後ろから先生の首をしめたんです」
「あなたは、山田直人さんが、山本一さんの首を絞めているところを見ていたんですね」
「はい」
「それからどうされましたか」
「その時、いつの間にか、末永喜美子さんが、私の近くに来ていて、先生のほうを呆然と見て立ちすくんでいました。驚きました。彼女は、私に気づき振り返ったところ、山田さんが、金属バッタを持って末永さんの所に走り寄り、後ろから彼女の頭を・・」
 田所正は、俯いた。
「彼女の後ろから、後頭部を殴打したんですね」
「はい、その通りです」
 久米は、話を続けるよう促した。
「山田さんと伊藤さんが、私に気づいてそばまでやってきて、私に頭を下げました。そして、山田さんが、二人を殺したのは私だと言いました」
「死体を遺棄することは考えなかったんですか」
「私は、気が動転してそのようなことは思いつきませんでした」
「それから、どうしました」
「山田さんが、私と伊藤さんにホテルに戻るように執拗にいってきたので、山田さんのいう通りに部屋に戻りました。それ以降のことはわかりません」
「そうですか」
 私たちは、聞き取りを終わりにして田所正のマンションを後にした。
 エントランスを出た所で、久米は、安田への報告を終え、そして麻生係長へ電話した。
「久米さん、田所の話、どう思います?」
「何か、わざとらしいところがあるように感じたのですが」
「そうですか」
「藤沢さん、明日、大分に帰って来いと安田がいってますので、私は戻ります。藤沢さんも是非同伴お願いしたいのですが、いいですか」
「分かりました。いいですよ」

 午後の便で、私たちは、大分に戻った。
 空港の出口で、安田が、私と久米を待ち受けていた。
 安田が私の所に駆け付けてきた。
「藤沢さん、たびたびご苦労様です」
「安田さん、何か進展はありましたか」
 本部についてからという答えが戻ってきた。
 私たちは、県警本部でこれからの捜査方針について、打ち合わせをした。
 安田から、司法解剖の結果とその考察について、説明を受けた。 
「山本一の解剖結果から呼吸気道の閉塞が認められなかったことや、首周りに吉川線(被害者が紐を除こうとして、あるいは,締め付けをゆるめようとして,頸に爪を立てれば表皮剝脱が生じる)がなかったことで、直接の死因は金属バット等の殴打による脳挫傷と結論付けられました」
「とすると、山本一さんは、亡くなった後から首を絞められたことになるかもしれませんね」と私は言った。
「そう考えるのが、必然かと思います」
「なにがなんだかわからなくなりました」久米が、頭を抱える真似をした。
「待てよ。それが事実なら、田所正が、山田直人が山本さんの首を絞めているのを見たというのは、おかしくないか」
「田所のいうことが本当なら、絞殺してから金属バットで殴打しなければなりません。司法解剖の結果は、その逆になります。田所は、嘘をついているんです」
「なぜ、嘘をついているんでしょうか。なぜ、死んだ人間を後からロープで首を絞めたりするんでしょうか。伊藤恵も山田直人も絞殺したといってます。これも噓をついていることになります。一体、犯人は、誰なんでしょうか」安田が私に問いかけてきた。
「安田さん、当初、あなたは、山本さんの死因が、絞殺によるものと考えられるとツアー客に説明されました。それを聞いて信じた者とそれを利用したもの、どちらにしても伊藤恵、山田直人そして、田所正の三人は、嘘をついているんです。バットで殴打して、山本さんと末永さんを殺害した人間と、その後、山本さんの死体にロープをかけた人間は、別人のはずです」
「なるほど、分かりました。明日から伊藤恵と山田直人の取り調べを再度行います」
 明日からの伊藤恵と山田直人の取り調べの策を打ち合わせして、私は本部を後にして、久米が予約してくれた近くのビジネスホテルへ入った。
 
 久米は、アパートの近くの行きつけの中華料理屋に入って、チャーハンと餃子そして、生ビールを頼んだ。
(田所正が、噓をついているとすると、山本一を金属バットで殺害した事のカムフラージュになる。伊藤恵と山田直人は、ロープで絞殺したと自白しているが、伊藤恵が絞殺することは不可能。そうすると、ロープで山田直人が、すで山本一をに死んでいた山本一の首をロープで絞めつけたか。なんでそのようなことをしなければならなかった。その様子を田所正が見ていた。金属バットは、山田直人がロープと一緒にもってきていたのか。それとも、山田直人が来る前に、すでに、伊藤恵が、金属バットで二人を殺害していた。小柄でひ弱な伊藤恵が、続けて二人を金属バットで殴打できるだろうか。特に、百八十センチの背の高い山本一を百五十センチそこそこの伊藤恵が、一打で殺害するのは、いやソフトボールなどの経験があれば、いやあの体格ではありえないとすると、田所か、山田に容疑者は絞られるだろう)
 餃子とビールそして、チャーハンがテーブルに置かれたので、食べることに専念した。

 再び、伊藤恵の取り調べが、朝九時から十二時まで行われた。
 私は、取調室の外から、伊藤恵の一部始終を観察した。
 今回は、安田が、伊藤恵の前に座った。
 久米が、供述調書の作成を担当した。
 安田の取り調べが始まった。
「伊藤恵さん、この度の山本一さんおよび末永喜美子さんの殺害容疑について、取り調べを始めます。先日も言いましたがが、憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、あなたには、黙秘する権利があります。よろしいですね」
「はい」
「あなたに久保志保さんという妹さんがいたことを、先日聞きしましたが、ご両親とかほかの身内の方は、今どうされていますか」
「志保以外には、姉妹や兄弟はいません。両親は、私が中学生の時に、交通事故で亡くなりました」
「そうですか。どのような事故だったんですか」
「ダンプの運転手が、居眠り運転で対向車線を乗り越えて、父の運転する車に正面衝突したんです。父も母も即死でした」
「それは、辛かったでしょう」安田が、声を落とした。
 しばらくの間、重い空気が、部屋をおおった。
「その後、あなた方は、どうされたんですか」
「刑事さんもご存じの観光バスの運転手の山田直人さんに、私と志保は、引き取られました」
「山田さんとはどのような関係だったんですか」
「母の弟です」
「山田さんは、あなたと志保さんの親代わりだったんですね」
「はい、志保を東京の大学まで行かせてくれましたし、私の就職の世話もしてくれました。山田さんは、私たちの恩人です」
「伊藤さん、今のお仕事はどうです」
「どうといいますと」
「仕事に不満などありませんか。うるさいお客さんやいやらしい客がいたり、仕事のわりに給料が安いとかで、辞めたいと思うことなどありませんか」
「辞めたいなんて、とんでもない。叔父の顔をつぶすようなことなんかできません」
「そうですか。ところで、山本一さんと末永喜美子さんの殺害の件ですが、先日話してくれたことを確認させてください」
「刑事さん、私が、ふたりを殺したんです。信用してください」
「まあそう言わずに、聞いてください。あなたは、山本一さんの部屋に電話して、話したいことがあるので、十時にホテルの裏庭に一人で来てくれといって、彼を裏庭に呼び出したんですね」
「そのとおりです」
「話したいことって、なんでしたか」
「妹の久保志保が、自殺した事に対して、素直に責任を認めて謝罪してもらうことでした」
「もし、山本一さんがそれを認めなかったらどうするつもりでしたか」
「殺すつもりでした」
「どうやってですか」
「金属バットで」
「山本一さんを呼び出したことを、他のだれかに話しましたか」
「いいえ」
「電話は、どこでしましたか」
「私の部屋の電話からしました」
「山本一さんの部屋に電話したら、末永喜美子さんに聞かれてしまうと思わなかったのですか」
「ええ」という返事だけであった。
「末永喜美子さんに知られて、彼女も来ると思わなかったのですか」
「来るかもしれないと思いました」
「そう思うでしょうね。彼女も一緒に来たらどうするつもりでしたか」
「別に彼女に聞かれても問題ないと思っていましたので、私は、山本一さんに先ほど言ったことを言うだけでした。ただ、彼に謝罪してほしかっただけなのです」
「それなのに、なぜ彼女を殺害したのですか」
 伊藤恵は、うつむいてしまった。
「話を変えます。あなたは、裏庭には何時から何時までいましたか」
「十時から・・」
「十時ジャストですか」
「たぶんそうです」
「山本一さんは、来てましたか」
 伊藤恵は、しばらく考えてから言った。
「はい」
「その時、末永喜美子さんは、いましたか」
「ええ、いました」
「それから、あなたはどうしましたか」
「お話ししたように、山本一さんが妹の自殺の原因であることを認めて、謝罪してもらうように言いました」
「その時、末永喜美子さんは、どうしていましたか」
 伊藤恵は、黙ってしまった。
 安田は、腕時計を見た。
「伊藤さん、今日はこれで終わりにしますが、明日また九時から始めます」
 久米が、伊藤恵の前に供述調書を差し出した。
「内容ご確認のうえ、署名捺印をお願いします」
「拇印で結構です」

 伊藤恵が、取調室を出て行ったのを見届けてから、私は部屋に入った。
「ご苦労様でした」
「藤沢さん、伊藤恵の供述、どう思われますか」と安田が、聞いてきた。
「話につじつまの合わないようなところがあります。まだ、本当のことは言っていないのではないでしょうか」
「私もそう思います。久米、明日は、二人を殺害した状況について、追及してくれ」
 続いて、昼をはさんで、山田直人の取り調べが、午後二時から始まった。
 取り調べは、久米が行い、安田が供述調書の作成にまわった。
「山田直人さん、この度の山本一さんおよび末永喜美子さんの殺害容疑について、取り調べを始めます。先日も言いましたがが、憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、あなたには、都合の悪いことには、黙秘する権利があります。よろしいですね」
「はい、承知致しました」
「あなたは、今の自分の仕事について、どう思っていますか」
「私は、運転が大好きなので、合っていると思っています」
「不満はないのですか」
「刑事さんだって、多少はあるでしょう。私だって多少はありますよ」
「伊藤恵さんと久保志保さんが、ご両親を交通事故で亡くした後、あなたは二人を引き取り育てられたそうですね」
「はい。二人の母親が私の姉でした。姉には小さいころから面倒を見てもらっていましたので、恩返しのつもりで」
「そうですか。あなたの奥さんは、ふたりを引き取ることについては、どういわれましたか」
「私たちには、子供がいませんでしたので、いっぺんに二人もできるともろ手を挙げて賛成してくれました」
「でも、他人の子供二人を育てるには、いろいろご苦労されたんでしょう」
「今、思えば、たいしたことではありません。志保が、自殺などしなければ」
「伊藤恵さんと久保志保さんは、どのような性格でしたか」
「恵は、志保の勉強をよく見てました。面倒見のいいやさしい子でした。彼女は、中学も高校も成績が優秀で、全校生のなかでいつも十番以内でした。高校の先生もQ大学を受験するよう勧めてくれたのですが、本人は固辞しました。私と家内は、お金のことなら心配ないから受験しろと勧めたたのですが、受けませんでした。私たちに気を使ったのでしょう。ただ、恵は、志保には、自分ができなかったことをさせたいと思っていたようです。恵は、高校を卒業して、働きたいというので、私の勤めていたKHSに推薦入社しました。彼女は、無駄遣いを一切せずに、いや、それどころか、衣服やバッグなど擦り切れるまで使ってました。志保の学費のために、給料のほとんどを貯金にまわしていました。志保が、M大学に合格した時は、飛び上がって喜んでました」
「志保さんの性格はどうですか」と久米は、山田直人が一呼吸置いたのを見ていった。
「志保は、多少気の弱いところがありました。恵と同じで、いやそれ以上に優秀でしたので、受験相談では、M大学の合格ラインに入っているから受けてみろと言われました。私は、あの超難関のM大学を受けられることに、さすがに驚きました。受かった時は、将来検事になるんだと言ってました。彼女は、頭は良かったのですが、一途な性格が、あのようなことに」
 山田は、話すのをやめた。
「ところで、あなたは、伊藤さんが、山本一さんに電話をしているのを聞いたと言われてましたが、どこで聞いてましたか」
 山田直人は、答えなかった。
「山田さん、どうされました。答えたくないようですので、次に行きます。伊藤さんが、山田さんを呼び出して、彼女が何をすると思いましたか」
「志保の恨みを晴らすために、彼を殺すのではないかと」
「なぜ、バスに置いてあった金属バットとロープを持って行ったのですか」
「恵一人では、山田さんを殺すことはできないと、それどころか、彼に返り討ちにされてしまうのではないかと、心配になり金属バットとロープを持っていきました」
「現場の裏庭には、何時に着きましたか」
「十時十分ごろだと思います」
「なぜ、十時十分になったのですか」
「十時前には着こうと思っていたんですけど、出かける前にちょうど会社から電話がかかってきたものですから、遅くなってしまいました」
「おかしいですね。先日、あなたは、十時ちょっと前に伊藤さんが部屋を出ていくのを見て後をつけて行ったと言われました。山田さん、どちらが正しいのですか」
 山田直人は、俯いて黙ってしまった。
「今日は、これで終わりにします」久米が、時計を見ながら言った。
 安田が、山田の前に供述調書を置いた。
「内容を確認して、間違いがなければ署名捺印してください」

 山田直人が、部屋を出て行ったのを確認して、私は部屋に入った。
「藤沢さん、山田の言っていることに一貫性がありません」
「そうですね。まず、伊藤恵が、山本一に会う時間と場所をどうして、山田が知ったのか、十分遅れたのが事実としたら、まず、KHSに当日夜十時前に山田に電話を入れた社員がいるか確認する必要があります」
「久米、すぐKHSに電話して、確認してくれ」
「はい」といって、部屋の外に出て、久米は電話をして、十分もたたないうち部屋に戻ってきた。
「やはり、十時前に電話をした社員がいました。通信記録を確認してもらったら十時十分に終わったと言ってました」
「そうすると、山田は、伊藤恵の後をつけたのではなく、一人で裏庭に遅れて行ったのか」
 安田が言った。
「伊藤恵は、十時丁度に裏庭に着いたと言ってましたね。この十分間、ふたりに一体何があったんでしょうか」私はふたりに疑問を投げかけた。
「そういえば、伊藤恵は、山本一のほうが先に来ていたと言ってました」と久米。
「山本一と末永喜美子も一緒だったとも言っていました」と安田は、思い出したように言った。
「裏庭に着いた早い順は、まず山本一と末永喜美子が十時前に。次に、伊藤恵が十時ジャスト。そして、山田直人が、十時十分後ですか」と私は、言ってから
「山本一と末永喜美子は、何時ごろ来ていたんでしょうか」と付け加えた。
「それが、まだ分からないんです」
「しかし、伊藤恵と山田直人の二人からは、田所正がいたという話は一切出てこなかったのは、おかしくありませんか」と久米が、いった。
「田所もどうして、十時に裏庭の事を知ったんだろう」と安田が、頭を傾けた。
「伊藤恵が、山田と田所に事前に連絡していたんじゃないかしら」と私は、思いつきで言った。
「藤沢さん、その可能性はありますよ。山田と田所には、妹の志保が世話になっていましたし、当然、二人は、山本一を憎んでいたでしょう」と久米が、いった。
「そうすると、田所は、伊藤恵よりも早く来ていたと考えられます。伊藤恵が、来る前に、田所は、山本一に会っていたと考えられます」
「その時、何が、あったんでしょうか。今後は、十時前と、十時からの十分直後の間に何が起こったかを中心に、伊藤恵と山田直人を取り調べましょう」と安田が、吹っ切れた様子でいった。

 次の日も伊藤恵の取り調べが、昨日に引き続き、朝九時から十二時まで行われた。
 安田が、話し始めた。
「よく眠れました」
「なかなか眠れませんでした」
「そうですか。食事はどうですか」
「もっとまずいかと思っていましたが、まあまあでした」
「ご主人のお仕事は」
「Fスーパーマーケットに勤めています」
「やさしそうな旦那さんですね」
「まあ」
「伊藤さんもこのような状態をいつまでも続けるのは、耐えられないでしょうから、事件当日のことを正直にありのままを言ってください」
「伊藤さんは、十時に裏庭に着いてから、どのくらいそこにいましたか」
「二十分ぐらいです」
「その間に、山本一さんや末永喜美子さん以外にどなたか見かけませんでしたか」
「誰も見ませんでした。どうしてですか」
「実は、あの田所さんと山田直人もその時間にあなたに会っていると言っているんです」
「そんなはずありません」
「どうしてですか」
 伊藤恵は、覚悟を決めたようだった。
「実は、私が裏庭に着いたときに、山本一さんと末永喜美子さんが、数メートルほど離れて、倒れていました。近寄ってみるとすでに息が途絶えていました。死んでいると思い、怖くてホテルの中へ駆け込みました」
「二人は、死んでいるとあなたは、思ったんですね。殺されたとは思いませんでしたか」
「はい、誰かに殺されたと思いました。二人とも頭から血を流していました」
「犯人は、誰だと思いましたか」
「私が、裏庭に山本一さんを呼び出すことを知っていたのは、田所さんと山田さんの二人だけなので、どちらかだと思いました」
「本当は、どちらだと思いましたか」
「山田さんだと思いました」
「だから、山田さんをかばおうとあなたが殺害したと証言したんですね」
 伊藤恵が、頷いた。
「分かりました。今日はこれで終わります」と安田が、言ってから、久米のほうに合図をした。
 久米は、先日同様に供述調書を伊藤恵の前に置いた。
 伊藤恵は、今回に限って、丹念に目を通してから署名捺印した。

 伊藤恵が、部屋を出て行ったのを見届けた私は、安田と久米のいる取調室に入った。
「藤沢さん、今回の伊藤恵の供述は、どう思われますか」と安田が、聞いてきた。
「信憑性はかなりあると思います」
「私も本当のことを言っていると思いました」
「久米、午後の山田直人の取り調べ、頼むぞ」
「はい。伊藤恵が、言っていたことを山田に突き付けてみます」 
 昨日と同じように、昼をはさんで、山田直人の取り調べが、午後二時から十七時まで行われた。
 久米も、雑談から入った。
「良く寝れましたか」
「寝れるわけないでしょう」
「そうですよね、正直に話していただいて、早く取り調べを終えませんか。伊藤恵さんは、先ほど正直にすべてを話してくれました」
 山田は、驚いた。
「どんなことを言ったんですか」
「彼女は、呼び出した場所に十時きっかりに着いたそうです。着いた時には、山本一さんも末永喜美子さんも頭から血を流して倒れていたと、それを見て、怖くてすぐにホテルに駆け込んだそうです」
「えっ、そうすると恵は、ふたりとも殺してはいないのですね」
 山田の顔に安堵の色が見えた。
「そうです。だからあなたも正直に本当のことを言ってもらえませんか」
「分かりました」といって、話し始めた。
「私が着いた時は、おそらく十時十分ぐらいだと思います。山本一さんが、頭から血を流して倒れていました。それを見て、きっと恵が、彼を殺したととっさに思いました。恵が殺人犯で捕まらないように、私は、持ってきたロープで山本一さんの首を絞めました」
「あなたは、恵さんの身代わりになろうとしたんですね」
「はい」
「ところで、末永喜美子さんのことはどうされたんですか」
「末永喜美子さんが、殺されているのには気づきませんでしたので、何もしてません」
「恵さんから聞いたのですが、恵さんが山本一さんに会うということをあなたと田所さんに事前に連絡していたと」
「はい、私には、一時間前ぐらいに電話連絡してきました」
「そうですか」
「それを聞いて、どう思いましたか」
「恵一人では、かなう相手ではないと思い、バスに常備されている非常時用のロープを持っていきました」 
「恵さんに何かあったら、山本一さんを殺すつもりで」
「そうです。志保を自殺まで追い込んだ憎き男です」
「ロープは、どうしましたか」
「自宅の物置に隠しました」
「明日、立ち会ってください」
「はい」
 久米が、安田を見た。
 安田は、頷いた。
「今日は、これで終わります」
 しばらくして、安田は、席を立って、供述調書を山田直人の前に置いて、署名捺印を求めた。
 山田直人は、ほっとした面持ちで、取調室を出て行った。
「藤沢さん、これで田所正で間違いないですね」と安田が、取調室に入ってきたばかりの私にいった。
「はい」
 安田は笑みを浮かべて私の顔を窺った。
 二時間後、麻生係長から久米に電話が入った。
「世田谷署の麻生です。久米刑事、田所正が、自宅にいないんだ。逃走したかもしれないので、緊急配備して捜査中だ」
 私と安田もまさかと驚いた。
 私と久米は、大分空港発七時四十五分発JAL662便に乗った。
 羽田までの一時間三十分のフライトは、私にとって長かった。
 羽田でタクシーに乗った。
 世田谷署では、麻生係長が、私たちを待っていた。
「久米刑事、藤沢さん。申し訳ない」
「とんでもない、係長のせいではありません。田所は、一体どこに逃げたんだろうか」
「昨日、久米刑事から電話を受けてすぐに刑事二人を田所のマンションに行かせたんだが、田所はすでにいなかった。部屋の中に入って、昨日から何か手掛かりになるようなものがないか捜査している」
「私も、これから田所のマンションに行ってきます。藤沢さんもいきませんか?」
「はい」
 私と久米は、休むことなく麻生係長が手配してくれた車に乗って、田所の住んでいた豊洲のマンションに向かった。
「藤沢さん、田所は逃げたんでしょうか」
「そうとしか考えられません。他になにか」
「いえ、別になんでもありません」
 私と久米が会話を交わしている間に、車は、田所のマンションに着いた。
 部屋に入った。
 刑事と鑑識たち数人が、所狭しと、いろいろ調べまわっていた。
「ご苦労様です」と久米は彼らに挨拶して、刑事の一人に何か見つかったかと聞いたが、めぼしいものは見つかっていないとの返事だった。
 私が部屋の中を捜査し始めてから、三十分ぐらい過ぎたころ、田所の手帳数冊を見つけた。
 私は、手帳をめくった。
「久米さん、これを見てください」私は、久米に久保志保が自殺した年の手帳に書かれていたページを見せた。
「藤沢さん、M大学の山村事務長が危ないです」
 先ほど、車でここまで送ってくれた刑事に理由を話して、緊急でM大学へ走ってもらった。
 M大学の事務棟の前で降ろしてもらい、その刑事も伴って、事務室に入った。
 事務の女性が、カウンター前に出てきて、
「先日の刑事さん、何か御用ですか」と久米に訊ねた。
「山村さんは、いませんか」
「先ほど、以前、生協に勤めていた田所さんが来て、二人で事務室を出て行きました」
「どこに行ったか分かりませんか」
「さあ・・。そういえば、田所さんが、静かなところへ行きませんかと言ってましたので、校内では、学びの森ぐらいかしら」
「その学びの森って、どこですか」久米の声が、室内に響いた。
 女性は、すぐに校内地図を持ってきて、赤ペンで印をつけた。
 私たち三人は、彼女に礼を言って、学びの森へと走った。
「藤沢さん、山村さんが・・」久米が、山村が倒れているのを見つけた。
「遅かったですか」私は、腹部から出血して倒れている山村の脈を取った。
「まだ息もあります。荒井刑事、至急、救急車を呼んでくれませんか」
「はい」
「久米さん、理事長が危ない。荒井さん、後を頼みます」と言って、私と久米は走って、校内の道路に出た。
 久米が通りがかりの学生に理事長室の場所を聞いて、A棟の五階へと向かった。
 さすがに、私より久米のほうが早い。
「久米さん、私にかまわず急いでください」
 久米の後、理事長室の扉前にたどり着いた。
 室内からなんの音も聞こえない。
 私は、身構えながらゆっくりと扉を開けた。
「久米さん、大丈夫ですか」
 久米は、安心した様子で私を見た。
「藤沢さん、田所正を現行犯逮捕しました」
 久米は、すでに田所に手錠をかけていた。
 田所の背広には、血が飛び散っていた。
「藤沢さん、理事長を見てやってください」
 うずくまって右腕を抑えている郷原のそばで、女性の秘書が、立ちすくんだいた。
 私は、郷原のネクタイを外して、郷原の右腕に強く巻き付けた。
 そして、秘書に救急車を呼ぶようにと言った。
 久米は、麻生係長に田所正を現行犯逮捕したと連絡していた。

 翌日、羽田発八時五分JAL66一便にて、私と久米そして、荒井の応援を得て、田所正を大分へ連行した。
 空港ロビーには、安田たち大分県警本部から数人の刑事たちが、田所正の到着を待っていた。
「藤沢さん、荒井さん、久米。ご苦労様でした」と安田が私たちを労った。

 翌日の朝九時から、田所正の取り調べが始まった。
 久米は、供述調書を作成する席に腰をおろし、安田が、田所正の前に座った。
「田所さん、昨日は寝れましたか」
「いや」
「田所さん、これから取り調べする際に、あなたには憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、都合の悪い時には黙秘する権利があります。承知ください」
「分かりました」
「あなたには、山村事務長および郷原理事長の殺人未遂と山本一さんと末永喜美子さんの殺人の容疑がかけられています。これからは、正直に真実を話してください。まず、山本一さんと末永喜美子さん殺害事件についてですが、あなたは十時にホテルの裏庭で伊藤恵さんが、山本一さんに会うことをどうして知りましたか」
「伊藤さんから直接聞きました」
「いつ、聞きましたか」
「一時間前ぐらい、伊藤さんから電話をもらいました」
「なぜ、伊藤さんは、あなたに連絡したんでしょうか」
「伊藤さんの妹の志保さんが自殺した時に、私が伊藤さんにそのことを連絡したという経緯があったからではないかと思います」
「あなたは、伊藤さんにその自殺について、詳細に話されましたか」
「ええ、私は、志保さんから聞いた話をすべて伝えました」
「具体的には、どのようなことですか」
「この間、一泊で水上温泉に山本さんと遊びに行ってきたと嬉しそうに言ってたり、山本一さんとは、奥さんと別れてから結婚すると約束したとか、そして、内緒だけれどと言って、山本さんの赤ちゃんができたと喜んでいたこと、しかし、赤ちゃんができたと彼に言ったら、急に冷たくなって、結婚の話はなかったことにしようと別れ話を持ち掛けてきたと私に泣いて、彼を許せないと訴えていました。そのようなことを伊藤恵さんに電話で伝えました」
「そうですか。ところで、先日、あなたは、山本さんが殺害された時、伊藤恵さんから山本先生と話を十時時にホテルの裏庭ですると連絡を受けていたので、裏庭の木立の陰で二人の会話を聞いていたと言われていましたが、あなたは、裏庭には何時にきていましたか」
「十時ちょっと前ぐらいでした」
「伊藤さんは、十時ジャストに来たらすでに山本一さんと末永喜美子さんは、頭から血を流して倒れていたのを見たと証言しています。ふたりを殺害したのはあなたですね」
 田所は、黙り込んでしまった。
「十時前、あなたと山本一さんと一体何があったんですか」
 安田が、久米の所に行った。
 そして、二言三言交わしてから安田は、席に戻った。
「田所さん、これで終わりにしますが、また午後二時から再開します」と久米が言った。
 久米が供述調書を田所の前において、確認の上、署名捺印をするよう求めた。

 私は田所が去った取調室に入って、久米と安田と三人で打ち合わせた。
「彼が口を割るのは、時間の問題ですね」と安田が、言った。
「そうですね。彼の動機は、何だたんでしょう」と私は、二人に疑問を投げかけた。
「もちろん、久保志保を自殺に追い込んだ山本一への恨みからですよ」とすぐに久米が答えた。
「それだけでしょうか」と私は再び問うた。
「藤沢さん、それ以外に何があると考えているんですか」と安田が言った。
「例えば、久保志保の自殺の件で、脅していたとかは考えられませんか」
「金を得る目的の恐喝ですか」と久米が唸った。
「午後からの取り調べは、怨恨と恐喝の両面から攻めてみます」と安田が、言った。
「そうしよう。藤沢さん、食事に行きませんか」
 私たち三人は、昼食を取りに取調室をでた。

 午後二時からの再び、安田による取り調べが始まった。
「田所さん、昼めしはどうでしたか」
「まあまあでした」
「田所さん、あなたの出身はどちらですか」
「生まれは、九州の熊本です」
「東京にはいつごろ来たんですか」
「大学に入ってからです」
「どちらの大学ですか」
「M大学です、ただ、卒業はしていません、中退しました」
「どうして中退したのですか」
「研究室の女性助教授に恋をしてしまったんです。私は、彼女の才能を認めていました。私との関係を続けることは、彼女の将来にとって良くないと思い学校をやめました。それからいろいろ会社を転々として、M大学の生協に勤めることになったんです」
「その助教授は、数年後、T大学の教授になりましたが、すぐに病で亡くなったそうです」
「そうでしたか。あなたは、今まで結婚の経験はありましたか」
「一度もありません」
「ところで、久保さんが、山本一のことで何もかもあなたに話をしたのはなぜでしょうか。他人に、普通はなかなかそこまで話すことは、考えられないのです」
「この間もお話ししたように、大分の田舎から大都会に来て、頼る人もいなかったので、いつの間にか私を頼るようになったのではないかと思います。私も独り身でしたので、気楽に彼女をマンションに呼んで、食事をごちそうしたりよくしました。刑事さん、変な関係はありませんよ。私も熊本からこの東京に一人で来た身ですので、寂しさという孤独を痛いほど経験していますので、彼女の気持ちが、痛いほどよくわかるんです。私にとって、彼女は、妹いや、娘みたいな人だったんです」 
「分かりました」
「事件の話に戻ります。少なくとも十時ちょうどと、十時十分以降は、裏庭にあなたを見かけなかったと伊藤さんと山田さんが言っています。そして、十時ちょうどには、山本一さんと末永喜美子さんは、殺害されていた。伊藤さんが山本一さんを、裏庭に十時に呼び出したことを知っていたのは、あなたと山田さんの二人だけです。山田さんが、十時十分過ぎに裏庭に着いたことは確認されています。それ以降の行動も本人から聞き取っています。彼のいうことは、まず間違いはないと考えています。十時前に一体何があったんですか、田所さん」
 また、田所は、黙ってしまった。
「田所さん、久保志保さんの恨みを晴らしたんですから、もう正直にすべてを話したらどうですか。お姉さんの伊藤恵さんも親代わりの山田さんも、本当のことを知りたがっていますよ。皆さん、久保志保さんが好きだったんですから」
 田所正が、話始めた。
「山本一さんに偶然このバスツアー出会ったのには、驚きました。それだけでなく、志保さんの姉の伊藤恵さんや親代わりの山田さんにも会うなんて本当に偶然というのは恐ろしいものです。その出会いによって、私の山本一さんへの憎しみが、再燃しました。いや、以前より増しました。山本一さんが、女性を連れていたので、不倫と志保さんの自殺を公にしてやると脅しました。それは、湯布院の土産物の売っている通りの脇道でした。その時、藤沢さん夫婦がやってきて、どうしたのかと訊ねられたのです。その時、私は、彼に真実を明らかにしろといい寄っていたんです。ところが、彼は知らぬ存ぜずで私を無視しようとしました。その態度に、今まで以上に憤りを覚えました。そのようなとき、二泊目のUホテルの部屋に入ると、すぐに恵さんから電話がありました。十時にホテルの裏庭に山本一さんを呼び出し、志保の件で謝罪させるということでした」
 田所は、息を継いだ。
 しばらくして、安田が、先を促した。
「そしてどうしましたか」
「身体のでかい山本一さんが、恵さんに手荒なことをしたらと思い、街に出て、短めの金属バットを購入しました」
「そして、あなたは、十時前にホテルの裏庭の木の陰で待っていたんですね」
「そうです。十時二十分前ごろですか。そうしたら、すぐに山本一さんが、きょろきょろ辺りを見回しながらやってきました。事前に、現地を調べるために早く来たんだと思いました。そして、彼を呼び止めました」
 田所が、その時のやり取りについて話した。
「山本一さん、久保志保さんの自殺の件で、彼女の姉さんの伊藤恵さんに会ったら謝罪してください。謝罪しなければ、あなたのことを週刊誌に暴露しますよ。といったら、山本さんは、ばかばかしい帰ると言って話を切り上げ、ホテルに戻ろうとしたので、怒り浸透した私は持ってきたバットで彼の頭を思い切り殴りつけました。しばらくして、末永喜美子さんがやってきました。これはまずいと思い、彼女の後ろに回り込み、バットで彼女を殺害しました。そして、私はすぐに部屋に戻って、浴場に出かけました」といって、田所正は、俯いた。
「彼女の後ろから、後頭部を殴打したんですね」
「はい」
「あなたは、山田直人が、ロープで山本一さんを殺害したと証言しましたが、それも嘘ですか」
「ええ。山田さんには、本当に申しわかなかったです。刑事さんたちの目を山田さんに向けさせて、その間に山村事務長と郷原理事長に志保さんの自殺の真実を公にするように直談判するつもりでした」
「あなたは、その事務長の山村さんを殺害しようとしましたが、なぜですか」
「殺害しようとは思っていませんでした。山村事務長は、理事長の郷原からお金をもらって、山本一さんを不問にしようと画策したのですが、今でも遅くないから、真実を明らかにして、公にするよう迫ったんです。しかし、それには答えず、お金で解決しようと言ってきたので、かっとなって彼を刺してしまいました」
「あなたは、理事長の郷原さんを殺害しようとしましたね」
「いや、殺すつもりはありませんでした。郷原さんには、久保志保さんの件で、謝罪してもらうようお願いしました。ところが、そのようなことは、知らぬ存ぜぬの一点張りで取り付く島もなかったので、脅しで、ナイフをつけ付けたら、彼が抵抗したので刺してしまいました」
 田所の体は、震えがさらに激しくなった。
 しばらく、沈黙の時間を取った。
 安田は、田所正が落ち着きを戻したのを見て言った。
「田所さん、まだ何か言い足りないことがあれば、話してください」
「実は、私には、良一という一人息子がいました。息子は、M大学に一浪して入りました。現役の志保さんとは、同じ入学です。一浪しているから、志保さんより、一歳年上でした。いつの間にか、良一が、志保さんを家に連れてきました」
「ちょっと待ってください。あなたは、独身で、志保さんの相談相手になっていたといいましたよ」
「すいません、結婚も一度しています。嘘をついていました」
「いいから、続けなさい」
「良一は、志保さんに恋をしているようでした。家に来ても、二人で勉強したりゲームをしたりして楽しそうでした。私も、良一に彼女ができて、明るくなったので嬉しかった。それが、四年になり、ゼミが別々になると志保さんが家に来なくなったのです。良一は、以前に戻って、私に話をしなくなりました。何度も私は、志保さんと喧嘩でもしたのかとか、別れたのかと聞いたのですが、彼は何も答えてくれませんでした」
 田所は、苦し気な顔をした。
「休憩にしますか」
「いや、続けさせてください」
「分かりました」
 田所は、息を吐いた。
「しばらくして、志保さんが、山本一さんと付き合っていることを息子から聞き出しました。山本一さんは、将来教授になり、きっと志保さんを幸せにするだろうから、志保さんをすっぱりとあきらめるように何度も息子に言い聞かせました。私たちは、山本一さんは独身だと思っていたのですが、ところが、彼は、すでに結婚していたのです。しかし、それを知ったところで、私はどうすることもできませんでした。どのくらい日が過ぎたのでしょうか、息子が、就職してから、彼女に街で偶然会ったそうです。彼女は、憔悴しきったようで、息子が声を掛けたら逃げるように去って行ったと言ってました。その後、友人から彼女が自殺したことを聞いて、息子は愕然としていました。息子は、いろいろ彼女の自殺の原因を調べていました。その結果、山本一さんが原因だと突き止めました。もちろん、良一は、山本一さんを許せないと私にも訴えていました。そして、良一は、学びの森で、彼を呼び出して真相を聞き出そうとしたようですが、相手にされなかった。このようになると思っていた良一は、用意していたナイフで彼を刺したんです。山本一さんは、逃げ回って、軽傷で済みましたが、良一は、殺人未遂で逮捕されました。そして数日後いや十日後、留置場で首をつって死にました」
 一呼吸して、さらに続けた。
「山本はこの事件を良一の学生時代の成績が、悪かったのを山本のせいにした逆恨みによるものだと、嘘をマスコミに広めたんです。山本一が、やりたい放題していられるのは、彼の奥さんの父親が、M大学の理事長をしているからなんです。志保さんの自殺についても、校内で調査委員会を作って調べることに教授会で決定したんですが、それを理事長の郷原宏は、あの手この手で、決定を覆して、志保さんの自殺の真相を明らかにする機会を潰してしまったんです」
 田所正は、無念そうに安田の顔を見た。

 後日、田所正の証言から、殺害に使った金属バットは、すぐに近くの空き地から発見され、付着していた血痕は、山本一と末永喜美子のものと一致した。
 また、近くのスポーツ用具店で、そのバットを買ったのが田所正だったことも確認された。

 一連の事件が、田所正によるものだと久米から聞いて知った伊藤恵は、
「私が、二人に山本一さんを呼び出すことを教えなければ、こんなことにならなかったのに」と申し訳なかったと泣き続けていた。

 一件落着したことに安堵した私は、久米が空港まで送ってくれた。
 車は、出発の四十分前に大分空港に着いた。
「久米さん、いろいろお世話になりました。安田さんにもよろしくお伝えください」
 久米と別れて、私は荷物検査で並んでいた時、
「藤沢さん、申し訳ありませんがちょっと本部に戻ってもらえませんか」
 安田が私を大声で呼んだ。
 私は、胸騒ぎで息が詰まりそうになった。
 安田の運転で、私は大分県警に向かった。
 安田も久米も何も言わなかった。
 私は、覚悟を決めていた。
 
 取調室に入ると、久米は調書を取る席に座り、安田は私の前に腰をおろした。
「実は、亡くなった山本一さんが握っていた毛糸くずが、あなたの着ていたセーターのものによく似ていることが分かりました」
 覚悟していたとはいえ、私の動悸が激しく打ち始めた。
「藤沢雅子さん、詳しい話をお伺いしたいのですが?」
「私が山本一さんを殺害しました。今まで隠しておいて申し訳ありませんでした」
「どうしてですか」
「私が探偵で山本さんの調査を行っていることを、山本一さんが気づいたのが事の発端です。よくよく考えてみますと、彼は、この旅行の前から私が探偵で彼の調査をすることを知っていたようでした。それだけでなく、私の過去まで詳しく知っていましたから間違いなく私を陥れようと考えていたに違いありません」
「彼とはどのようなことがあったのですか?」
「私が山本を撮影したことに対して、肖像権の侵害として法的措置に訴えると、それがいやだったら百万円よこせと言ってきました。返事はこのツアーが終わる羽田までにするよう求められました。どうすればよいかと悩んでいたら、たまたまあの日酔いを醒まそうと裏庭に出たら、血を流して倒れていた山本一さんが立ち上がろうとした時に、彼は私に気づいて、おまえかと言って私に掴みかかってきました。私は必死になって彼の手を振りほどいたら、彼は倒れてしまいました。すぐに確認したのですが、心臓も脈も止まっていました」
「どうして、そのことを私たちに話してくれなかったんですか?」
「私は疑われたくなかったんです。どうかしていたんですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「先ほど、あなたを陥れようとしたと言われましたが、だれがどのような理由でそのようなことをたくらんだのでしょうか?」
 私に思い当たることはあの手紙しかなかった。
(それを確かめることはもう私にはできない)
「思い当たるところがあるのですか?」
(今更言ってもどうにもならないことだわ)
「特にありません」
 それから数日間、私だけでなく、夫も取り調べられた。

 夫が、面会に来た。
「雅子」
「あなた、こんなことになってすみません。あなたの人生にまで傷つけてしまって、どんなに謝っても済むことじゃないわね。元警察官が探偵をやるなんて、本当にバカだったわ」
「雅子、そんなに自分を責めるじゃないよ。正当防衛で弁護士が君を無罪にすると断言している」
 
 私は正当防衛ということで、無罪放免された。
 久しぶりに、自宅の帰った。
「雅子、良かったな」
 夫は喜んで私を迎えてくれた。
 久しぶりのビールはたまらなく美味しかった。
「あなた、警察にも話したんですが、山本一はこの旅行の前から私が探偵で彼の調査をすることを知っていたようなの。それだけでなく、私の過去まで詳しく知っていたわ。これはだれかが、私のことを事前に山本一に教えていたに違いないと思うの。きっと誰かが私を陥れようと考えていたに違いありません」
「そんなことするなんて一体誰なんだろう?」
「山本一を調査してくれと言ってきた手紙の主かもしれない」
「手紙の主か」
「そうか」
「どうした雅子?」
「きっと伊藤恵だわ、間違いない」
 夫は何が何だか分からない様子だった。
「彼女は自分の手を汚さないで、誰かに山本一を殺害させようとしたのよ。彼女なら私の事も事前に調べられるし、その情報を山本にも流すことができるわ。また、田所正を誘導したのも彼女よ」
「なるほど。伊藤恵は、したたかな女なんだな。雅子に調査費を払うつもりは最初からなかったのかな」
「したたかで役者だったわ」
「頭もいいしね」
「そうね」
 私は依頼の手紙を読み直そうと、机の引き出しから封書を取り出した。
 封書の切手に押されていた消印に気づいた。
「なぜ気が付かなかったのかしら」
 私は夫に封書を手渡した。
 封書を受け取った夫も頷いた。

 それから二週間後、伊藤恵から手紙が届いた。
「前略 この度のツアーでは大変お世話になりました。
 山本一氏の不倫の調査を依頼しました矢田由美子は、私伊藤恵です。大変失礼いたしました。また、今回殺人事件にまで及ぶとは想像もつきませんで、藤沢様にも大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この度の調査相手の山本一氏が亡くなったため、調査報告書は不要ですが、調査費用はお支払いますので、請求書と振込先をご送付ください。最後になりましたが、藤沢様が洞察力の優れたお方だと感服しています。今後のご活躍を祈念しています。早々」
 彼女の作ったシナリオには、ツアーコンダクターの職を利用して、山本一教授及び彼の所属するM大学の関係者をツアー客として招待して、彼らのだれかに山本一の殺害させるように組み立てられていたのか、事実を確かめるすべもなく、私の初仕事は終わった。 
 
                                了
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする