パンの工房を作るのに保健所の指導講習などは妻と一緒に。
一緒できない時は妻の友人にお願いして会場外で待った。
認可も下り使える段になっても数年そのまま。
妻の状況が少しも目が離せない状態。パン生け花教室も目の
届く部屋で開いた。妻の透析の弊害がひどい。
そんな思い出が湧き上がってくる。設備が消えると全て消える。
役割を終え思い残す事はないが居候郎が来たので後少し生きる。
これ迄委縮した暮らしを続け、女だからと福祉に頼り過ぎた。
姪は受け入れた状態に近くなった。思い直す。
力では既に敵わないが全力でぶつかり躾ける。福祉に過剰な期待
はしない。
ブログ人という名が始まる頃師となる若い方に又妻からも教わった。
しかし当時とはブログも変わり変更ができない。全てが曖昧。
私の生存の確認の目的で日記風に記す。
心房細動で逝く時はコロッと行く(癌は余命期間がある)
今は片付けは諦めた。代わりに現在関わっている方と連絡をとる。
縮こまるのはもうやめた。宗教の絵空事も既にやめた。ただ死を
片付けるのができない。ゴミとして始末をお願いするのみ。