名大医学部と相向き合だった。学生運動の関係で医者や見習い医師と交流があった。
当時名大の学生運動の者は腎臓科に多く回された。当時は腎臓を病む人は死ぬしか
手立てがなかった。光明の見える部署ではなかった。それが家内が腎臓の終末期で
血液透析が日本に導入する時期だ。無謀な医師が米国で新しい技術を学んできた。
透析しても死ぬ方が多かった。彼らの中で医療商社スズケン会長に直談判して資金
援助を得た者が居た。彼らは透析病院名古屋クリニックを開いた。幸いにも家内は
名大を無事に出て透析を受けた。偶然にも看護師の責任者が同じ高校の後輩で私を
知っていた。透析中も立ち会えるようになった。おかげで医学的な事も良く理解で
きた。訓練も受け家内の装置だけを任せて頂いた。それ以来35年生きながらえた。
改めて因縁を強く艦じる。今でこそコンピューターの装置だが当時はまだ実験装置
だった。トラブルが多かった。管理する方も素人に近い若い学校出の方が多かった。
初めは何度も生死の境をさまよった。命があったのは幸運だった。
やはり因縁を感じるようになったのは老いたのかな。
t:160%;">素敵な生け花や切ない詩、曲などがいっぱい~♪こちらもどうぞ{/m_
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