幼い頃父親の母、祖母の家に良く行った。そこには家には不釣り合いの
大きな仏壇があった。若い頃に亡くなったので私は祖父を知らない。
村の若い衆に米俵を担がせてそれに乗り遊郭で遊んだと聞く。その祖母
が亡くなる前時折母が泊まり込みの世話に出かけた。私も付いて行った。
夜中に助けを求め大声で鬼が追いかけてくると叫ぶ。子供心に怖かった。
元気な時は熱心な仏教信者の祖母。そんな光景を親戚の死にも眼にした。
長じて私が出した結論は強い信仰をする方は教えに捕らわれるという事。
かく言う私も閻魔様の裁きに怯え、最後の審判におののく。自然に身に
ついた素朴な信仰。今でも西の山を西方浄土とみなし手を合わせる。
手前の木曽川を三途の川と思う。交通事故で気が付いたら手術も終わり
窓の真ん前が西の山と三途の川だった。命があるのが不思議だった。
私自身は宗教を持たない。現実大肯定を受け入れられない。大難を小難に
なるとのご都合主義。全ては自らの気持ちを収める処から始まる。
勧善懲悪は悪い個人を殿様が退治して終わる。富の不平等の元が正せない。