Sujak do 〜SujaのDNA〜

興味深く感じたことや読んだ書籍について書いたりしていきます。天然石については、一休み。

活動的なリスを見て、春を感じる

2021-02-27 14:06:00 | Sujaが思う事、考える事。
こんにちは
sujaです

我が家は
自然に囲まれているようで

朝、知らない鳥のさえずりで目覚めたり
夜は動物の争う声(おそらくタヌキかアライグマ)を聞きながら床に就いたりと

それが通常のように聞き慣れて
暮しています

日中は
椿の花が咲き始めてきて

それを目当てにリスがあちこち忙しそうに走っているのを
見かけることが多くなりました



うちの小さな庭にも
椿の花が咲き始め
リスがベランダを通り道にして
椿を盗りにやってきました

椿の花びらを上手にはがして
中心部分の花粉でも食べているんでしょうか?
食している姿は非常に愛らしく
口の周りに黄色い花粉をつけている様子には
思わず微笑んでしまいます



リスの種類は『タイワンリス』
ここ鎌倉では、よく遭遇する動物です

電線を伝って
あちこち走るリスを見かける事が多くなると

春めいて来たな〜
と思う今日この頃です

イマジンのヒントはこれだった〜オノ・ヨーコのグレープフルーツ・ジュース〜

2021-02-20 14:48:00 | 本を読む
こんにちは
sujaです

想像してごらん…

これはジョン・レノンの有名な曲
『イマジン』のでだしですね(和訳)

天国はない
地獄もない
国境も宗教もない
そして世界は一つ・・・

Love&peaceを感じる素晴らしい作品です

この『イマジン』は
ジョンの妻であるオノ・ヨーコ
1964年に出版した『グレープフルーツ』
という詩からインスパイアされて
作ったものだったそうです



『グレープフルーツ』という作品は
詩というか

私が感じたのは
ある種の瞑想法として用いると
面白いかもしれないという
とても興味深い作品です

始まりは

地下水の流れる音を聴きなさい
心臓のビートを聴きなさい
地球が回る音を聴きなさい

と、すべて命令調に進みます

そして

想像しなさい
千の太陽が
いっぺんに空にあるところを…

と、続いていきます

いろいろと想像させ
行動を命令されるのですが

最後には

この本を燃やしなさい
読み終えたら

となります

実際には燃やしたりしませんが

全て想像の世界で行動をおこしてみると

実に清々しい気分になります

自分と向き合える瞬間があったり
外の世界をよく考える瞬間があったり
人の心や物の存在を考える瞬間があったり

普段
使っていない脳が活発になる感じがします

この『グレープフルーツ』
1993年には
33人の写真家たちの写真と
コラボレーションし

『グレープフルーツ・ジュース』
というタイトルで
新たに出版されました

写真家の中には
篠山紀信氏も参加しています

先日、2月18日に88歳という米寿を迎えた
オノ・ヨーコに祝福を

昭和の叩き上げ総理〜政治家になった田中角栄そして総理大臣へ〜

2021-02-14 14:42:00 | 本を読む
こんにちは
sujaです




1947年4月、政治家になった田中角栄氏は
政界でも持ち前の手腕を発揮していったようです

1957年には閣僚入りし
第1次岸信介(安倍晋三氏の祖父)改造内閣で郵政大臣に就任します

以降
何度か大臣に就任しているようですが

中でも1962年、角栄氏44歳で大蔵大臣に就任した際の就任演説では
聞いていた官僚エリートたちの中で
感極まり涙した者もいたそうです

私が田中角栄だ。
ご存知のように、小学校の高等科しか出ていない。
諸君は財政・金融の専門家だ。
私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。
今日から大臣のドアは取っぱずす。
これはおかしい、これを考えてくれということがあれば、誰でも遠慮なく来てほしい。
これは局長も課長も同じだ。出来ることはやる。出来ないことはやらない。
ことの成否はともかく、思い切り仕事をしてくれ。
全ての責任は、この田中角栄が背負う。

全ての責任を背負うと言ってくれるようなトップが現れて
官僚たちも心強く思ったのかもしれません

角栄氏も44歳と働き盛り、エネルギーに満ち、脂ののった時だったのでしょう

そして1972年7月、いわゆる角福戦争の末

54歳の角栄氏は第64代内閣総理大臣に就任します
当時の支持率は62%という
今の総理ではあり得ない数字ですね

総理大臣になった田中角栄氏のもっとも成果をあげた事柄といえば

やはり
日中の国交正常化ではないでしょうか

彼は、政権に就く5か月前から日中国交正常化を取り組む考えがあり
ブレーンと準備を重ねていたそうです

田中角栄氏は1972年9月25日
【台湾問題】と【戦争への謝罪】を焦点に
中国へ向かったそうです

当時の中国首相の周恩来との会談では
日本軍の侵略行為を執拗に批判します
場の空気が張り詰めた時
角栄氏は
「中国の言い分も分かる。
しかし、今日から隣同士で仲良くしよう考え、中国に飛んできたんだ。
日本に帰ったら、わたしは殺されるかもしれん。
決死の覚悟は出来ているんだ」
と言ったそうです

さらには
「太平洋戦争の時、わたしも二等兵で満洲にいた。
わたしの鉄砲がどっちに向いていたかは分かるでしょう。
中国ではなく、ソ連に向いておったんですよ」
この言葉で会場は爆笑に包まれ、交渉は一気に進んだそうです

そして、なかなか会ってもらえなかった毛沢東共産党主席とも会談に至り
毛沢東主席は
「喧嘩は済みましたか?喧嘩しなくちゃだめですよ。喧嘩をして初めて仲良くなるのです」
と言ったそうです

喧嘩は済んだという毛沢東氏の表現で
日中の交渉は大筋でまとまったことを示唆したということです


9月29日には日中共同声明が発表され
戦後賠償問題は一応の決着をみたのですが

今度は、台湾との問題が浮上します
「台湾は中国の一部だ」と主張する中国と国交を結んだのですから
台湾としては日本との断交を宣言するのです

また、親台湾派の議員たちに理解を得るため
角栄氏は、中国から帰国してすぐ
自民党の大講堂に向かい、議員たちの前で話します
「中国には10億を超える民がいる。
善いことも悪いことも素直に話し合える関係を作らんといかん。
それを考えて、わたしは国交正常化を決断した」
そのあまりのストレートさに一同言葉を失ったそうです

日中国交正常化の結果をだした田中内閣でしたが
物価・地価上昇や公害問題などの高度成長の歪みが表面化しだします

そして、オイルショックです
62%あった支持率が
1年足らずで20%台まで急降下します

そして
1974年10月10日発売『文芸春秋11月号』に掲載された2本の記事
・立花隆の『田中角栄研究~その人脈と金脈』
・児玉隆也の『淋しき越山会の女王』
この記事が出た2か月後、田中内閣は総辞職します

この記事を読んでいないので、何とも言えないですが
『越山会の女王』とは
角栄の佐藤昭氏を公私ともに支える金庫番
だったそうです
要するに愛人の一人だったのですね

娘である、田中眞紀子氏が家庭内で
父・角栄氏の退陣を要求したそうです

コロナ禍の今、田中角栄が総理であったら・・・
という妄想論をよく耳にしますが

田中角栄氏なら
納得のいく政策をしてくれてたとは
思わないのです

当時の高度成長期の日本という背景があったからこそ
田中角栄氏は
活かされたのかもしれません

昭和の叩き上げ総理〜田中角栄が政治家になるまで〜

2021-02-06 14:29:00 | 本を読む
こんにちは
sujaです

現在の総理大臣である菅義偉首相は
『叩き上げの苦労人』をアピールしていますが

政治家で叩き上げの苦労人と聞き
私がすぐに浮かぶ名前は
『田中角栄』です

田中角栄氏が総理大臣の頃
私は政治というものを全く知らない小学校低学年でしたが
扇子片手に「まぁそのぉ~」
と、しゃべるおじさんはテレビで見てよく知っていました

周りの大人たちが
「角栄は、小学校しか出ていないのに総理大臣にまでなった努力と苦労の人」
と言っているのを
私が大人になっても記憶しているほど印象に残る人物だったのです

そして令和になった今また
叩き上げの苦労人が国の長となり
なんとも頼りない印象しかなく
リーダーシップの能力に乏しさを感じてしまいます

そこでかつて
昭和の叩き上げ総理大臣だった田中角栄氏という人物を知りたくなり
角栄氏自伝を読んでみました


『私の履歴書』は、1966年に日本経済新聞の連載を書籍にしたものです

そして1973年には児童書として『わたくしの少年時代』が出版されています


こちらは字の大きさといい
漢字にふってるルビといい
児童はもちろん私にも読みやす本です

角栄氏は
新潟の雪深い村で1918年5月4日に生まれます

牛馬商を営む父は、度々借金を作るので
母が農作業などで家計を支えており
非常に貧しい暮らしぶりだったようです

吃音だった角栄氏は小学生の頃
お経や漢詩、法律書などを音読したり
浪曲を山中でうなったりと
なんとも個性的な努力によって克服します

話す時にも
歌のように節回しを付けることで
どもらずに話せるコツを見つけたりします

成績は優秀で
特に数字には強く計算も得意だったようですが、経済的事情により進学を諦め
高等小学校2年(現:中学2年)で卒業し
社会に出るようになります

角栄氏は14歳で
救農土木工事でトロッコや猫車を押したりして泥まみれで働いたそうです
この時共に働いていたお爺さんの
「土方土方というが、土方は一番でかい芸術家だ。パナマ運河で太平洋と大西洋を繋いだり、スエズ運河で地中海とインド洋を結んだのも皆土方だ。土方は地球の彫刻家だ」
この話が当時少年だった角栄氏に印象深く残っているようです

16歳で角栄氏は伝手を頼りに上京するのですが
そこで働くことが出来ず
土建会社で住み込みをしながら
夜間学校で勉強する生活を送ります

角栄氏は仕事先で、理不尽だと思ったらすぐ辞めてしまうようで
何度か転職をします

途中、海軍になろうと考えますが
母の事を想うとその道へは進めず諦めます

土建業、保険の資料集め、輸入専門の貿易商、建築事務所と職を変えた後

角栄氏は19歳で独立し
『共栄建築事務所』という看板を掲げます

仕事は順風満帆にこなしていたようですが、20歳で徴兵され満洲に駐屯します

しかし
程なく肺炎を患い内地還送され、除隊。

体が回復した角栄氏は、1941年に再び東京で土木建築の設計施工の仕事を始めます

そして1943年
『田中建工株式会社』の社長となります 

角栄氏は、かなりのやり手だったようで
年間施工実績は、全国で5位以内だったそうです

第2次世界大戦終戦間近な1945年
朝鮮に軍事工場を移設する仕事を請け負った角栄氏は

朝鮮半島で
木材などの買い付けに駆け回る中、終戦を迎えます
この時
「在鮮全財産を没収されるくらいなら」と、現地で雇った職員たち新生朝鮮に寄付をします

1946年
戦後復興の波に乗って
田中建工株式会社が業績を伸ばしていることを知った、当時の進歩党の議員が
角栄氏に資金援助を求めてきます

気前よく献金に応じる角栄氏ですが
会社の顧問の一人だった大麻唯男氏から「選挙に立候補してみては?」と薦められ

悩んだ末、肚を固めて故郷の新潟で立候補します

しかし、結果は落選
しばらく仕事に没頭していたのですが
翌年の総選挙に再び立候補し
1947年28歳で当選します

政治家になって何がしたかったのかは不明ですが
政治家になってからしたいことが明確になったのかもしれません

海軍に入って国のために働きたいけど
母のためを想って諦めるという人を想う心を持ち

そして理不尽な扱いを受けると未練なく切り捨てしまう潔さ

何よりも没収されるくらいならと
寄付をするという活きたお金の使い方が出来る

こういう人間的に魅力ある人柄が
人々に印象深く残っているのかもしれません