こんにちは
sujaです
現在の総理大臣である菅義偉首相は
『叩き上げの苦労人』をアピールしていますが
政治家で叩き上げの苦労人と聞き
私がすぐに浮かぶ名前は
『田中角栄』です
田中角栄氏が総理大臣の頃
私は政治というものを全く知らない小学校低学年でしたが
扇子片手に「まぁそのぉ~」
と、しゃべるおじさんはテレビで見てよく知っていました
周りの大人たちが
「角栄は、小学校しか出ていないのに総理大臣にまでなった努力と苦労の人」
と言っているのを
私が大人になっても記憶しているほど印象に残る人物だったのです
そして令和になった今また
叩き上げの苦労人が国の長となり
なんとも頼りない印象しかなく
リーダーシップの能力に乏しさを感じてしまいます
そこでかつて
昭和の叩き上げ総理大臣だった田中角栄氏という人物を知りたくなり
角栄氏自伝を読んでみました
『私の履歴書』は、1966年に日本経済新聞の連載を書籍にしたものです
そして1973年には児童書として『わたくしの少年時代』が出版されています
こちらは字の大きさといい
漢字にふってるルビといい
児童はもちろん私にも読みやす本です
角栄氏は
新潟の雪深い村で1918年5月4日に生まれます
牛馬商を営む父は、度々借金を作るので
母が農作業などで家計を支えており
非常に貧しい暮らしぶりだったようです
吃音だった角栄氏は小学生の頃
お経や漢詩、法律書などを音読したり
浪曲を山中でうなったりと
なんとも個性的な努力によって克服します
話す時にも
歌のように節回しを付けることで
どもらずに話せるコツを見つけたりします
成績は優秀で
特に数字には強く計算も得意だったようですが、経済的事情により進学を諦め
高等小学校2年(現:中学2年)で卒業し
社会に出るようになります
角栄氏は14歳で
救農土木工事でトロッコや猫車を押したりして泥まみれで働いたそうです
この時共に働いていたお爺さんの
「土方土方というが、土方は一番でかい芸術家だ。パナマ運河で太平洋と大西洋を繋いだり、スエズ運河で地中海とインド洋を結んだのも皆土方だ。土方は地球の彫刻家だ」
この話が当時少年だった角栄氏に印象深く残っているようです
16歳で角栄氏は伝手を頼りに上京するのですが
そこで働くことが出来ず
土建会社で住み込みをしながら
夜間学校で勉強する生活を送ります
角栄氏は仕事先で、理不尽だと思ったらすぐ辞めてしまうようで
何度か転職をします
途中、海軍になろうと考えますが
母の事を想うとその道へは進めず諦めます
土建業、保険の資料集め、輸入専門の貿易商、建築事務所と職を変えた後
角栄氏は19歳で独立し
『共栄建築事務所』という看板を掲げます
仕事は順風満帆にこなしていたようですが、20歳で徴兵され満洲に駐屯します
しかし
程なく肺炎を患い内地還送され、除隊。
体が回復した角栄氏は、1941年に再び東京で土木建築の設計施工の仕事を始めます
そして1943年
『田中建工株式会社』の社長となります
角栄氏は、かなりのやり手だったようで
年間施工実績は、全国で5位以内だったそうです
第2次世界大戦終戦間近な1945年
朝鮮に軍事工場を移設する仕事を請け負った角栄氏は
朝鮮半島で
木材などの買い付けに駆け回る中、終戦を迎えます
この時
「在鮮全財産を没収されるくらいなら」と、現地で雇った職員たち新生朝鮮に寄付をします
1946年
戦後復興の波に乗って
田中建工株式会社が業績を伸ばしていることを知った、当時の進歩党の議員が
角栄氏に資金援助を求めてきます
気前よく献金に応じる角栄氏ですが
会社の顧問の一人だった大麻唯男氏から「選挙に立候補してみては?」と薦められ
悩んだ末、肚を固めて故郷の新潟で立候補します
しかし、結果は落選
しばらく仕事に没頭していたのですが
翌年の総選挙に再び立候補し
1947年28歳で当選します
政治家になって何がしたかったのかは不明ですが
政治家になってからしたいことが明確になったのかもしれません
海軍に入って国のために働きたいけど
母のためを想って諦めるという人を想う心を持ち
そして理不尽な扱いを受けると未練なく切り捨てしまう潔さ
何よりも没収されるくらいならと
寄付をするという活きたお金の使い方が出来る
こういう人間的に魅力ある人柄が
人々に印象深く残っているのかもしれません