ここで言わせてください

過去や現在
おりまぜてます。

根無し草 59

2022-03-17 18:00:00 | 根無し草
そのマンションの部屋が安かった理由。

単刀直入に言うと、下の部屋に
見るからに『ヤ●ザ』の様な夫婦と中学生くらいの娘が住んでいた。

最初引越の挨拶に行った時に、真夏だったのでキャミソールの様な格好で出てきた奥さんの、急いで羽織った布で隠しきれない背中の入れ墨を見た時に確信した。

そこの家ではしょっちゅう怒号が聞こえていた。

救急車やパトカーも頻繁に来た。

夫婦喧嘩や娘の躾と称して、奥さんが110番や119番を呼ぶらしい。

それでも2年間くらいはうちには関係無く、あ〜又騒がしいなぁ、くらいで終わっていた。

結果10年後、もうたまらんとなって引越す事になった。

この家族の話は又後日。


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引越しが落ち着いた頃、お義母さんから仕事を手伝うように言われた。

9時から5時までの簡単な事務作業。

どうせパートを探すつもりだったから行くことにした。


まあ、想像通りズケズケ物を言う。

取引先の人に対して聞いているこちらが恥ずかしくなるような物言い。

お義母さんが席を外すと他の人が悪口を言っている。
聞いてられない。
(お義母さんは離婚しているのでサムと私とは名字が違う)
私を嫁とは知らずに不満を言ってくる。

私がパソコンで分からない事があり、サポートセンターと電話でやりとりをしたことがあった。

私の拙い説明にもスラスラ答えてくれ、まるで隣りで教えてくれているようだった。

電話を切った後
今の説明でよく分かってくれて、凄いわ!!
と私が言ったあと

「あのねえ、仕事やからあたりまえや!!」

と返ってきた。

普通に言えないの?






根無し草 58

2022-03-16 23:46:17 | 根無し草
仕事を辞めて毎日家でボーッとしていた。
今とおんなじ。

私達は26歳になった。

誰にも赤ちゃんの事は話さなかった。
サムと私だけの悲しい出来事だった。

仕事を辞めた事だけはお義母さんに伝えた。

暫くしたらパートでも探すつもりだった。

一ヶ月くらい経った頃お義母さんが中古マンションを買わないかと言ってきた。


買ってあげる、では無く
買いなさいと。


駅前で築20年。他の部屋より何割か安い掘り出し物らしい。


お義母さんは、友達と小さな会社をしていて、銀行やら不動産屋から色々勧められるのだろう。


相手が商売でおべんちゃらを言ってきても、素直に受け取りノセられてベラベラ貯金の話しとかしてしまうのだろう。


貯金と言っても、もしもに備えた程度なのだが。。。


投資物件として勧められて、エエかっこして、息子に買わすわとでも言ったのだろう。


渋る私に、早く手付払わないと広告出されるから!と購入を迫って来た。


行った事の無い場所の見たことの無いマンションを誰が買います?


間取りすら見ていない。


結局、買わされた。

安いとはいえ、高いローンを30年組んだ。


安いのには理由があった。

ご近所問題に苦しめられるのです。

根無し草 57

2022-03-15 21:07:00 | 根無し草
私は被災後新しく病院を探し、ある大学病院に通院していた。

普通なら紹介状が無ければすぐには診て貰えない病院だが、被災者と言う事で診て貰えた。その病院に結果8年お世話になった。


前の病院と同じ薬かと思ったが、血液検査の結果ステロイドに加えエンドキサンという免疫抑制剤が処方されていた。


その薬が、赤ちゃんに良くなかった‥

処方された時にきちんと説明されたか今となっては思い出せないが


その薬は胎児に催奇形性をもたらすという事だった。


内科から産科に連絡が行き、診察してもらい、説明を受けた。


初診では医師の説明が全然理解出来なかった。


2回目の受診の時に、手術日を具体的に決めるよう言われた。


妊婦さんで混雑する待ち合いに出た時に、私は全身の力が抜けて長椅子に倒れ込むように座りしばらく立ち上がれなかった。


私は仕事を辞めた。
何日間か休まなくては行けないし、元々の病気の事も内緒にしているのに何もかも説明なんかしたくなかった。

仲良くしてくれている人達にも言えなかった。


手術は全身麻酔で一泊した。


病院はナースステーションを境に東棟と西棟に分かれていた。


私が入院しているのと反対の棟では賑やかな赤ちゃんの泣き声が聞こえた。


全てサムが一人で付き添ってくれた。

ごめんね、産んであげられなくて。。。


根無し草 56

2022-03-14 18:05:00 | 根無し草
震災から3ヶ月たち、私達は見知らぬ土地で新しい生活をスタートさせた。

私達は24歳になった。


私は転勤先でも人に恵まれすぐ馴染むことが出来た。


伯母さんの家に避難していたおばあちゃんは仮設住宅の抽選に当たり、又一人暮らしに戻った。


サムは職種が変わり月に半分近く出張に行くようになった。


出張の期間はおばあちゃんの仮設住宅に泊まりに行き、そこから出社するようにした。


仮設住宅は電車のもより駅からバスを乗り継いで、バス停からも相当歩かなければならない辺鄙な所にあった。


そこから出社もだんだんと無理が出てきて、サムが出張の時は逆におばあちゃんがはるばるやって来て泊まって行くようになった。


私は仕事帰りに美味しい物を買っておばあちゃんと一緒に食べたりした。


教習所に通い、車の免許も取った。


全く知らない土地で誰にも邪魔されない生活を送る事ができた。


扶養されているという呪縛から解き放たれて『生きている』という実感が湧いてきた。


被災地を離れた後ろめたさも無くなって行った。

サムと二人で春と秋何度もディズニーランドに行った。

幸せな日々を過ごしていた。


25歳になり、私は妊娠した。。


この上ない喜び。

のはずが、違った…

後に

途轍もない悲しみ…

になってしまう。

根無し草 55

2022-03-13 22:05:00 | 根無し草
4月になり私達は再び二人の生活をスタートさせた。


普通なら1時間前後で行ける距離を、半日かけて引越屋さんが荷物を運んでくれた。


阪神高速が倒壊した。
絶対に壊れるはずの無いものが
こわれた。
未知のエネルギーの恐ろしさを
まざまざと感じた。


私の通院していた病院も被災し、入院患者の方が亡くなられた。
近隣の方が大怪我で運び込まれたり、もうすでに亡くなられた人を、助けてくださいと家族が担ぎ込んだりしたそうだ…
ニュースに映し出されたその病院は野戦病院のようだった。


私の病気を診断してくれた病院。

毎週から2週間に一度、
2週間から一ヶ月に一度
と通院間隔が開き出して

こうやって病気と付き合って行くんだなと教えてくれた。


こうやってブログに書くまで、
今まで思い出したこと無かったけど、どれだけの人達が関わっていたか…

何か、ウクライナと重なる。
辛い。

そして、その当時は二人で生活を立て直すために、被災地を離れなけれなならなかった。

幼い頃から私は不本意ながら、あちこちフラフラと生活拠点を移していった。

そして元住んでいた所に一度も戻ることは無かった。
そう、懐かしく遊びに行く事も全く無かった。

でも、震災で離れるのは何かが違う。
そこを捨てて逃げ出すような
自分が卑怯者になったような
そんな気持ちを引きずった。