宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

267 大正時代のイギリス海岸

2011年02月02日 | Weblog
1599 大正時代のイギリス海岸
 宮澤賢治の「イギリス海岸」ので出しは
 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。

   <イーハトーボ農学校の春』(角川文庫)より)>
とある。

 されど、いまのイギリス海岸に佇んでみてもその面影は薄い気がする。
《1 現在のイギリス海岸を朝日橋から望む》(平成22年7月26日撮影)

大正末に賢治が農学校の生徒を引き連れて遊んだ頃の北上川の西岸は、残念ながら後に瀬川の流れが変えられてその河口でイギリス海岸は分断されてしまったからだ。
《2 現在のイギリス海岸の瀬川河口付近を望む》(平成22年7月26日撮影)


 たまたま過日、大正当時の五万分の一の地図「花巻」(大正2年測図、同14年鉄道補入 地理調査所)を入手できた。その地図を眺めているとそこからは賢治達が遊んだであろう当時のイギリス海岸が彷彿として眼裏に浮かんでくる。因みにその地図から抜粋してみた
《3 大正時代のイギリス海岸周辺》

である。次の
《4 平成時代のイギリス海岸周辺》

   <五万分の一の地図「花巻」(平成11年修正 国土地理院)より抜粋>
と比べてもらえればその違いがよく判ると思う。特に当時の瀬川の流れはいまとは全く違っており、豊沢川の河口のすぐ手前で北上川に合流していたこと、イギリス海岸は北上川の西側に切断されることなくたしかに長々と続いていたこと等が解る。これならば、賢治が『その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました』と表現していることも容易に理解できる。
 因みに次が現在の
《5 瀬川橋(左)と朝日橋(右)》(平成22年7月26日撮影)

であり、おそらく
《6 瀬川はかつてこの砂利道辺りを流れていた?》(平成22年7月26日撮影)

のであろう。

 あわせて、この地図からは当時と現在の鉄路の違いが際立っていることも知れる。話としては聞いていたことだが、線路跡はいま自動車道となってしまった当時の軽便鉄道はたしかに北上川に沿って敷かれており、これならば賢治が「銀河鉄道の夜」に登場するプリシオン海岸はイギリス海岸を、銀河鉄道は岩手軽便鉄道をそれぞれモデルにしているという説は素直に賛成できる。
 
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