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過日高村山荘を観に行った際、高村記念館に『山口と高村光太郎先生』(浅沼政規著、(財)高村記念会)という小冊子が置いてあったので購入した。
その冊子の中に
(5) かのと講への招待
という章があり、その中身は次のようなものであった。
昭和二十二年秋のことです。…(略)…関上場と久保の人たちが毎年開いている「かのと講」へ先生を招待しました。その年の宿は、久保の仁右衛門さんのところでした。
小原金二さんがお迎えにあがってご案内し、開拓の道を西山の方に行き、そこから、山の斜面を切り崩して作った、人ッコ一人ようやく通る小道を下って、寒沢川のほとりの三戸の、久保仁右衛門宅に着きました。
仁右衛門さんの家には、大勢集まって餅つきや料理の支度をしていましたが、先生の姿を見ると、みんなが大喜びでご挨拶をしました。山道を三キロも歩いた疲れを忘れたように、歓迎に応えてくれました。
…(略)…
先生は一番の上座です。一言ご挨拶があり、あとは、大きな杯でお酒がやりとりされ、一緒に飲み、一緒に食べ、賑やかな席となりました。学校へ通っている子どもたちは、先生と顔見知りになっておりましたので、「先生がお振る舞いに来てくれた。」と大はしゃぎでした。
こうして、一年の「秋仕舞いの講」である「かのと講」は、大人も子どももみんな一緒になって、お餅やいろいろなご馳走食べながら、楽しい盛り上がりとなりました。先生も大へん喜んでおられましたし、関上場と久保の人たちも、「先生に一口でも差し上げたい。」という願いがかなえられ大満足でした。
<『山口と高村光太郎先生』(浅沼政規著、(財)高村記念会)より>
この文章を読んで次の二つのことが特に興味を引いた。
その第一は、如何に高村光太郎が疎開先の太田の人達から尊敬され、愛され、そして慕われていたかということである。そしてそれは大人からだけでなくて子どもたちからもであったことである。
そしてその二は「かのと講」のことである。以前花巻市の太田に住んでいるある方から太田では「庚申様」のことをたしか「おかの様」と云うというようなことを教えて貰ったことを思い出し、このことと併せてこの文章の説明からこの「かのと講」とは所謂「庚申講」の事ではなかろうかと直感したことである。以前、「仕舞いの庚申日(その年の最後の庚申日のこと)」には特に賑やかに飲み食いをしたと聞いたことがあったから、太田に疎開していた光太郎は庚申信仰が盛んな地元の人達からその日に招待されたのではなかろうかと思ったのである。
そして、この「かのと講」が「庚申講」であったことは次の本で確認できた。それは『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、(財)高村記念会)という著書で、次のように
七一 かのと祭
…秋じまいがすんで、一年の労苦をねぎらいあい、酒や餅のご馳走で中楽しみ合う振舞いです。毎年交替で宿をもち、旧十一月頃のかのとの日に行う庚申講で、関上場と久保の計十数戸が講中で…
と顕わに「庚申講」と書いてあったからである。
なお、この日には次のようなことも語り合ったと同著には書いてあった。
今年の作やキノコの話、クリの話、山葡萄や山菜の話など飲みながら食べながら先生をかこんで和やかな一時をおくりました。
ということで、私としてはいままであまりその実態がイメージ出来ずにいた庚申信仰であったが、これらの著書から当時の民間信仰「庚申様」のことや、「仕舞いの庚申日」の中身などがかなり具体的に見えてきた。
なお、佐藤隆房の同著はこの庚申講に招かれた際の光太郎の所感についても触れており
「まことにいい集まりですね。子どもたちまでみんなそろって面白くごちそう食べて楽しむのは……本当にいいことだ。詩でいうと『美なるかな』というところです。」
ということであったと云う。光太郎の人柄を彷彿とさせる。
つい、戦争協力を後悔して花巻に疎開して来たよそ者光太郎といままでは安易に決め付けていたが、光太郎のことをそのように思うのは間違いだということを知らされたような今回の光太郎山荘行きであった。
続き
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その冊子の中に
(5) かのと講への招待
という章があり、その中身は次のようなものであった。
昭和二十二年秋のことです。…(略)…関上場と久保の人たちが毎年開いている「かのと講」へ先生を招待しました。その年の宿は、久保の仁右衛門さんのところでした。
小原金二さんがお迎えにあがってご案内し、開拓の道を西山の方に行き、そこから、山の斜面を切り崩して作った、人ッコ一人ようやく通る小道を下って、寒沢川のほとりの三戸の、久保仁右衛門宅に着きました。
仁右衛門さんの家には、大勢集まって餅つきや料理の支度をしていましたが、先生の姿を見ると、みんなが大喜びでご挨拶をしました。山道を三キロも歩いた疲れを忘れたように、歓迎に応えてくれました。
…(略)…
先生は一番の上座です。一言ご挨拶があり、あとは、大きな杯でお酒がやりとりされ、一緒に飲み、一緒に食べ、賑やかな席となりました。学校へ通っている子どもたちは、先生と顔見知りになっておりましたので、「先生がお振る舞いに来てくれた。」と大はしゃぎでした。
こうして、一年の「秋仕舞いの講」である「かのと講」は、大人も子どももみんな一緒になって、お餅やいろいろなご馳走食べながら、楽しい盛り上がりとなりました。先生も大へん喜んでおられましたし、関上場と久保の人たちも、「先生に一口でも差し上げたい。」という願いがかなえられ大満足でした。
<『山口と高村光太郎先生』(浅沼政規著、(財)高村記念会)より>
この文章を読んで次の二つのことが特に興味を引いた。
その第一は、如何に高村光太郎が疎開先の太田の人達から尊敬され、愛され、そして慕われていたかということである。そしてそれは大人からだけでなくて子どもたちからもであったことである。
そしてその二は「かのと講」のことである。以前花巻市の太田に住んでいるある方から太田では「庚申様」のことをたしか「おかの様」と云うというようなことを教えて貰ったことを思い出し、このことと併せてこの文章の説明からこの「かのと講」とは所謂「庚申講」の事ではなかろうかと直感したことである。以前、「仕舞いの庚申日(その年の最後の庚申日のこと)」には特に賑やかに飲み食いをしたと聞いたことがあったから、太田に疎開していた光太郎は庚申信仰が盛んな地元の人達からその日に招待されたのではなかろうかと思ったのである。
そして、この「かのと講」が「庚申講」であったことは次の本で確認できた。それは『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、(財)高村記念会)という著書で、次のように
七一 かのと祭
…秋じまいがすんで、一年の労苦をねぎらいあい、酒や餅のご馳走で中楽しみ合う振舞いです。毎年交替で宿をもち、旧十一月頃のかのとの日に行う庚申講で、関上場と久保の計十数戸が講中で…
と顕わに「庚申講」と書いてあったからである。
なお、この日には次のようなことも語り合ったと同著には書いてあった。
今年の作やキノコの話、クリの話、山葡萄や山菜の話など飲みながら食べながら先生をかこんで和やかな一時をおくりました。
ということで、私としてはいままであまりその実態がイメージ出来ずにいた庚申信仰であったが、これらの著書から当時の民間信仰「庚申様」のことや、「仕舞いの庚申日」の中身などがかなり具体的に見えてきた。
なお、佐藤隆房の同著はこの庚申講に招かれた際の光太郎の所感についても触れており
「まことにいい集まりですね。子どもたちまでみんなそろって面白くごちそう食べて楽しむのは……本当にいいことだ。詩でいうと『美なるかな』というところです。」
ということであったと云う。光太郎の人柄を彷彿とさせる。
つい、戦争協力を後悔して花巻に疎開して来たよそ者光太郎といままでは安易に決め付けていたが、光太郎のことをそのように思うのは間違いだということを知らされたような今回の光太郎山荘行きであった。
続き
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