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《↑ 『私の宮澤賢治散歩 上巻』(菊池忠二著)表紙》
1.『私の宮澤賢治散歩』から
さて前回触れたように、岩手県立青年学校教員養成所は「六原青年道場」に併設されていたわけだが、菊池忠二氏は次のように述べている。
「六原青年道場」は日本国民高等学校の指導理念と教育方法を取り入れ農村青年の大量育成にあたった。
と。
このことは同著の『岩手県国民高等学校と「農民芸術」論』という章の中に書かれていることであるが、この章は国民高等学校に関して詳述してある。例えば次のようなことなどが書かれている。
岩手県国民高等学校開設の理由については、
阿部繁の次のような言『一体国民高等学校は疲弊した県下の農村を如何にして更正するかを論議した結果、丁抹(デンマーク)の国民高等学校を例にして開設した』を借りて語っているし、この当時の時代背景については『産業開発による増産計画の実施によって、経済不況や農村の窮乏か問題を解決しようとする、県当局の施策があった反面、大正末年には県民の自覚を促すために、成人の社会教育の拡充や、農村青年の人材育成の必要性が叫ばれ、その風潮が次第に高まってきていた』
と説明している。
そして、菊池忠二氏自身は『(開設の)目的は、疲弊した農村を厚生するために、まず農村青年の社会教育を充実し、あわせてその精神的奮起をうながそうとするものであった』と結論している。
一方、岩手県には大正15年に最初にして最後の唯一の国民高等学校が開設され、他でもない1926年1月~3月間花巻農学校に開設された岩手国民高等学校がそれであるというから、この国民高等学校の流れを「六原青年道場」や「岩手県立青年学校教員養成所」も受け継いでいたということになるのではなかろうか。
そこで、今回は 「岩手県国民高等学校」について少しく触れてみたい。
2 岩手国民高等学校
伊藤清一が『岩手国民高等学校と宮澤賢治』というタイトルで次のようなことを語っている。
岩手国民高等学校は大正15年1月10日~同年3月27日まで、花巻農学校に開設された。
生徒の資格は高等小学校以上の能力を有し、満18歳以上で将来地方自治に努力すべき抱負ある者など。生徒は全て寄宿舎に入舎して自治的共同生活をした。寄宿舎費、食費、日用品、学用品等は自己負担。このとき参加した生徒は県下から35名で優秀な者ばかりだった。
この学校はデンマークの国民高等学校に見習って、農村青年の訓練計画を立案、社会教育の一環として試みられたとのことで、時局柄県は大した力の入れようだった。
校長は坂本県内部長、生徒の指導は県社会教育主事高野一司(かつじ)が当たった。高野主事は筧克彦や日本国民高等学校長加藤完治から薫陶を受けた直系で、宮澤賢治とは特に親しかったようだ。
日課は
起床(6時)
点呼・洗面・掃除
国民体操
やまとばたらき
心の力
朝食(7時)
講義(9時~12時)
昼食
講義と研究(13時~16時)
夕食(18時)
課外講演意見発表、音楽会、夜の集いなど(夕食後随時)
消灯(21時)
日課の皇国運動(やまとばたらき)は、後に六原道場などに持ち込まれた。目的は皇国精神を発揚することにあり、県当局にとっては国策に沿った主要な訓練であったろう。
この学校の開設時期は真冬であり、手足が冷たくて困ったことを覚えているが、宮澤賢治は寒い中厳しい行事を率先して生徒と共に実行した。
<『校本 宮沢賢治全集 第十二巻(上)の月報』(筑摩書房)』より>
などと。
たしかに、岩手国民高等学校の重要な日課の皇国運動は六原道場に引き継がれていったことをこれで確認出来た。というのは以前”『六原道場』について”の中で述べたように六原道場の日課の中に「日本体操」というものがあり、
日本体操といふのは、石黒英彦の恩師、筧克彦博士の創案にかかわるもので、一名皇国運動(やまとばたらき)からとり入れた『青年の部』のもの。
だったということで、実際に六原道場にも皇国運動が取り入れられていたからである。とすれば、それはこの体操のみならずその精神も少なからず受け継がれていたに違いないといってもいいはずである。
3 国民高等学校における賢治
菊池忠二氏の著書『宮澤賢治の散歩』の前掲の章には
「宮沢先生は、その頃大変ご健康でした。朝の行事の大和働きなど、上衣をぬいで気合いをかけながら、生徒と共に真剣におやりになり、駆け足の時なども、途中で中止されるような事はありませんでした」と、伊藤清一が回想している。
<『宮澤賢治の散歩 上巻』(菊池忠二著)より>
ということも書いてあった。そこには賢治の生真面目さと責任感の強さが窺える。あるいは、賢治でさえも大和働(=皇国運動)を率先垂範して行ったということにその時代の抗いがたい流れを感ずる。
なお、宮澤賢治はこの岩手国民高等学校で教科「農民芸術」を担当し、その抗議内容はほぼ「農民芸術概論綱要」となったということは周知の通りである。また、 ベートーベン百年祭レコードコンサートなども開いたりしたいたという。
また、岩手県国民高等学校と賢治に関しては森荘已池も『ふれあいの人々』の中で次のようなことを語っている。
岩手県にも国民高等学校というものができた。県庁の高野さんが新しくできた「社会教育主事」に任命され、この高野主事と賢治との出会いが、いろいろの面で賢治の羅須地人協会が産まれる機縁となった。
高野さんは水沢の人。賢治と会うと、いっぺんに「意気投合」したのであった。
高野さんは、道場精神を、県下の農村に説いて回っていたので、「花巻」に「宮澤賢治あり」といううわさを聞きはじめていた。
のちに、高野さんは岩崎開墾地の所長となり、賢治と接触して尊敬の念を深めた。
その高野さん、賢治を開墾地に招いて、講演をしてもらったのである。
六原道場が、まだ開かれていない時代だったので、学校の教室を使って、夜は講演会や座談会、朝早く起きて「かけあし」をさせた。
賢治も招かれて「芸術概論」や、詩や短歌を教えた。これが後の六原道場の芽生えになったのである。…(以下略)
<『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)より>
ただし一部に誤解の恐れがあると思うので補足すれば、もちろん森荘已池が書いている
1 ”学校の教室”の”学校”とは花巻農業高校のことであり、
2 ”これが後の六原道場の芽生えになった”の”これ”とは賢治の教えた「芸術概論」などのことではなく、岩手県国民高等学校の開設のことであろう。
また、高野一司は水沢の人とあるが、もしかすると明治27年7月新潟生まれではなかろうか。
続き
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1.『私の宮澤賢治散歩』から
さて前回触れたように、岩手県立青年学校教員養成所は「六原青年道場」に併設されていたわけだが、菊池忠二氏は次のように述べている。
「六原青年道場」は日本国民高等学校の指導理念と教育方法を取り入れ農村青年の大量育成にあたった。
と。
このことは同著の『岩手県国民高等学校と「農民芸術」論』という章の中に書かれていることであるが、この章は国民高等学校に関して詳述してある。例えば次のようなことなどが書かれている。
岩手県国民高等学校開設の理由については、
阿部繁の次のような言『一体国民高等学校は疲弊した県下の農村を如何にして更正するかを論議した結果、丁抹(デンマーク)の国民高等学校を例にして開設した』を借りて語っているし、この当時の時代背景については『産業開発による増産計画の実施によって、経済不況や農村の窮乏か問題を解決しようとする、県当局の施策があった反面、大正末年には県民の自覚を促すために、成人の社会教育の拡充や、農村青年の人材育成の必要性が叫ばれ、その風潮が次第に高まってきていた』
と説明している。
そして、菊池忠二氏自身は『(開設の)目的は、疲弊した農村を厚生するために、まず農村青年の社会教育を充実し、あわせてその精神的奮起をうながそうとするものであった』と結論している。
一方、岩手県には大正15年に最初にして最後の唯一の国民高等学校が開設され、他でもない1926年1月~3月間花巻農学校に開設された岩手国民高等学校がそれであるというから、この国民高等学校の流れを「六原青年道場」や「岩手県立青年学校教員養成所」も受け継いでいたということになるのではなかろうか。
そこで、今回は 「岩手県国民高等学校」について少しく触れてみたい。
2 岩手国民高等学校
伊藤清一が『岩手国民高等学校と宮澤賢治』というタイトルで次のようなことを語っている。
岩手国民高等学校は大正15年1月10日~同年3月27日まで、花巻農学校に開設された。
生徒の資格は高等小学校以上の能力を有し、満18歳以上で将来地方自治に努力すべき抱負ある者など。生徒は全て寄宿舎に入舎して自治的共同生活をした。寄宿舎費、食費、日用品、学用品等は自己負担。このとき参加した生徒は県下から35名で優秀な者ばかりだった。
この学校はデンマークの国民高等学校に見習って、農村青年の訓練計画を立案、社会教育の一環として試みられたとのことで、時局柄県は大した力の入れようだった。
校長は坂本県内部長、生徒の指導は県社会教育主事高野一司(かつじ)が当たった。高野主事は筧克彦や日本国民高等学校長加藤完治から薫陶を受けた直系で、宮澤賢治とは特に親しかったようだ。
日課は
起床(6時)
点呼・洗面・掃除
国民体操
やまとばたらき
心の力
朝食(7時)
講義(9時~12時)
昼食
講義と研究(13時~16時)
夕食(18時)
課外講演意見発表、音楽会、夜の集いなど(夕食後随時)
消灯(21時)
日課の皇国運動(やまとばたらき)は、後に六原道場などに持ち込まれた。目的は皇国精神を発揚することにあり、県当局にとっては国策に沿った主要な訓練であったろう。
この学校の開設時期は真冬であり、手足が冷たくて困ったことを覚えているが、宮澤賢治は寒い中厳しい行事を率先して生徒と共に実行した。
<『校本 宮沢賢治全集 第十二巻(上)の月報』(筑摩書房)』より>
などと。
たしかに、岩手国民高等学校の重要な日課の皇国運動は六原道場に引き継がれていったことをこれで確認出来た。というのは以前”『六原道場』について”の中で述べたように六原道場の日課の中に「日本体操」というものがあり、
日本体操といふのは、石黒英彦の恩師、筧克彦博士の創案にかかわるもので、一名皇国運動(やまとばたらき)からとり入れた『青年の部』のもの。
だったということで、実際に六原道場にも皇国運動が取り入れられていたからである。とすれば、それはこの体操のみならずその精神も少なからず受け継がれていたに違いないといってもいいはずである。
3 国民高等学校における賢治
菊池忠二氏の著書『宮澤賢治の散歩』の前掲の章には
「宮沢先生は、その頃大変ご健康でした。朝の行事の大和働きなど、上衣をぬいで気合いをかけながら、生徒と共に真剣におやりになり、駆け足の時なども、途中で中止されるような事はありませんでした」と、伊藤清一が回想している。
<『宮澤賢治の散歩 上巻』(菊池忠二著)より>
ということも書いてあった。そこには賢治の生真面目さと責任感の強さが窺える。あるいは、賢治でさえも大和働(=皇国運動)を率先垂範して行ったということにその時代の抗いがたい流れを感ずる。
なお、宮澤賢治はこの岩手国民高等学校で教科「農民芸術」を担当し、その抗議内容はほぼ「農民芸術概論綱要」となったということは周知の通りである。また、 ベートーベン百年祭レコードコンサートなども開いたりしたいたという。
また、岩手県国民高等学校と賢治に関しては森荘已池も『ふれあいの人々』の中で次のようなことを語っている。
岩手県にも国民高等学校というものができた。県庁の高野さんが新しくできた「社会教育主事」に任命され、この高野主事と賢治との出会いが、いろいろの面で賢治の羅須地人協会が産まれる機縁となった。
高野さんは水沢の人。賢治と会うと、いっぺんに「意気投合」したのであった。
高野さんは、道場精神を、県下の農村に説いて回っていたので、「花巻」に「宮澤賢治あり」といううわさを聞きはじめていた。
のちに、高野さんは岩崎開墾地の所長となり、賢治と接触して尊敬の念を深めた。
その高野さん、賢治を開墾地に招いて、講演をしてもらったのである。
六原道場が、まだ開かれていない時代だったので、学校の教室を使って、夜は講演会や座談会、朝早く起きて「かけあし」をさせた。
賢治も招かれて「芸術概論」や、詩や短歌を教えた。これが後の六原道場の芽生えになったのである。…(以下略)
<『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)より>
ただし一部に誤解の恐れがあると思うので補足すれば、もちろん森荘已池が書いている
1 ”学校の教室”の”学校”とは花巻農業高校のことであり、
2 ”これが後の六原道場の芽生えになった”の”これ”とは賢治の教えた「芸術概論」などのことではなく、岩手県国民高等学校の開設のことであろう。
また、高野一司は水沢の人とあるが、もしかすると明治27年7月新潟生まれではなかろうか。
続き
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