拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  還暦ギャラリー『森』 : 中世祭り

2022年11月12日 | 必撮無眼流

  数あるNetflixの混合玉石の作品のなかで、最近私がはまっているのは西欧の中世物語である。

  SFが大好きだけれども、最近はNetflixの優れた作品のおかげで過去の『中世物語』により興味を持っている感。

 

  先日まで『マルコ・ポーロ』を観て、チンギス・ハーンの孫、元の初代皇帝フビライ(1215〜1294)の存在に非常に関心を持った。

  一年前に『バイキング』を観て、当時の彼等の生命の躍動というかそのバイタリティに圧倒されたが、

  今ハマっているのは『ラスト・キングダム』で、英国がバイキングとの闘争の中で徐々に国を統一してゆく過程の物語である。

 

  これら歴史物を観ての感想は、一言でいうと『浪漫』という言葉が自然と私の愚脳に浮かんだのであるが

  果たしてその定義は?・・・と調べてみると

  『合理主義に反し、感情、個性、自由などを尊重、自然との一体感、神秘的な体験や無限なものへのあこがれを表現』(大辞泉)とあった。

 

  こういった物語を観る我々は、すでにその歴史の流れを知っているから、『浪漫』などと言っていられるが

  当時のヨーロッパ人にとって中世を生きるという事は、互いに言語や風俗習慣の違いから生じる『疑心暗鬼』の中で生きるということで

  現代の我々からみると不条理な事だらけの生活の中に、生死を貫くほどの信条や宗教が不可欠であったであろう。

  数々の限界を受け入れ、自己の信じる運命に身を投じて行く姿に、私は『浪漫』を感じるのだと思う。

 

  中世から千数百年経過し、 IT(情報通信技術)が異常に発達した現代とはいえ『ウクライナの戦争』をみる限り

  人間は相変わらず互いの『疑心暗鬼』に悩まされている・・・のが不憫だ。

  その意味では、人間は未だに『浪漫』を追いかけなくてはならないようだ。

          

  スイスでも各地で『中世祭り』が行われ、『撮人家』として、私は結構アチコチの中世祭りにでかけた。

  この写真はスイス・イタリア語圏のベリンゾーナで一撮した騎士たちの像。


  還暦ギャラリー『森』 : 箙さんの思い出

2022年10月27日 | 必撮無眼流

  今日、ここに発表する写真は、1977年『神への告発』というタイトルの本の著者・箙田鶴子さんを広島へ訪ねた時の作品。

 

  当時私は25歳、神戸の写真学校の助手として雇われ安月給ながら、初めて経済的、時間的に安定していたこともあって

  写真家として自分の作品作りを模索していた時期であった。

  自分で現像することを前提にしていたので写真はモノクロ、テーマはあくまで『人間』・・・と、そこまでは決めていた。

 

  それにしても箙(えびら)さんの本を読んで、感銘を受けたからと言って著者に会いに行った当時の自分の行動力に驚く。

  子供の頃の私は自意識過剰気味で、人と相対することが苦手な質であったから、後にカメラを人に向ける写真家を目指す

  ことになる事自体が以外であったのに…。

  でもそこには自分なりのトリックがあって、『写真機の後ろに自分を隠す』術をあきらかに使っていた。

  こういった行動力がその後もずーっと続いていたら、今頃はもしかしたら有名写真家であったであろう。

 

  箙さんの本のどこに感銘うけたか?詳細は覚えていないが、脳性小児麻痺という障害に生まれついた彼女自身の半生を描いた

  自伝小説風の内容は、若造の私にとって衝撃的であり、その困難を乗り越えようと必死に生きる姿に圧倒されたのだろうと思う。

      

          当時彼女は足で絵を描いて、生計のたしにしていたようだ。

        

          どこからともなく彼女を手助けするボランティアの人達が集っていた。

            

         車椅子が物凄く重く、路肩が傾いていると危なかったことを覚えている。(私と箙さんの写真)

         

         今ではその経緯を覚えてないが、この写真の青年の家に一泊させて頂いた。

  『神への告発』という強烈なタイトルの本を書くほどの人であるから、彼女の性格にも頑な一面があることは感じた。

  そうであるからこそ、障害者として社会で虐げられる不条理をこの著書で訴えることが出来たのだ・・・。

  彼女に会いに行き、本に書かれているような人間の憎愛物語が、彼女の現実生活に起こっているような錯覚(?)に

  私は陥(おち)いった体験・・・は今でも忘れられない。

 

  これらの写真は今日まで未発表であるが、これを発表する肝心の『行動力』・『想像力』の欠如が

  写真家として無能であることの決定的要因であった、と今にして思う。


  還暦ギャラリー『森』 〜 写真家の財産

2022年10月08日 | 必撮無眼流

  昨年の引越しで相当の写真を断捨離し、齢(よわい)70になってみれば日本であればともかく、

  『写真後進国』スイスでの写真活動の縮小は仕方ない・・・と思う今日此頃、であればこのブログの副題が

  うまい具合に『森羅万象』…と謳っているのであるから、『還暦ギャラリー森(シン)』という新たなシリーズを立ち上げ

  未発表作品などをいくらかずつ発表して行きたいと思う。

 

  

  その初めにこの写真↑(1980年)を選んだが、これは私が初めて行った個展『骸骨人』というタイトルの自写像作品を

  京都の飲み屋『聖家族』で行った際、大阪からたまたま来た写真家・有野永霧さん(写真右側)が立ち寄ってくださり、

  感想ノート1ページ全面に激励文をしたため最後に『写真家はネガだけが財産』…であると文章をまとめていたのが

  未だに強く印象に残っていたからだ。

  

  私はその後、あっちにウロウロこっちにウロウロしていたが、有野氏は写真道一筋を貫き通し、数々の写真集を発表し

  後に大学で教授として写真を教えていたようだ。

  

  残念ながら酒の飲めない私は、『聖家族』のオーナーのオヤジさんには愛想のない青年であったであろう。

  セルフポートレートのタイトルは『骸骨人』で、その頃から自分の中に『もう一人の自分』のようなものを

  感じていたのだろう…か。 今は自称『馬骨』と名乗って、どこの馬の骨だか・・・。

  

  


 写真とは何か?〜(その4) 『結』の巻

2022年07月23日 | 必撮無眼流

  『私にとって写真とは何か?』・・・それは結局、非言語である『写真 IT 』学による『人間観察』であって

  それは自ずと『己事究明』へと畢竟帰処(ひっきょうきしょ)するもので

  ・・・・ここに『結』となり、この『結』は『スピリチュアル』なものと再び結びつける…という意味で『Religion』となった。

 

  考えてみれば、このブログ名『拈華微笑』は・・・仏陀はいつもの講話をせずに、『ただ華を示す』ことで、『情報通信』を発した場面で

  誰よりも『写真家』がこれを解読する立場に近かったのではないだろうか。

 

  そういった一面もある『写真』・・・、『スマートフォン』出現以来、人類は歴史上『総写真家』現象を起こし、それこそ猫も杓子も…状態となり

  それは逆にプライバシーを守るために『肖像権』の強化となり、『写真』による『人間観察』アプローチの道を閉ざすこととなった。

  そのせいかどうかは知らないが、『コンテンポラリーアート』が台頭し、徹底的に作為的作品ばかりが世に憚っている気がする。

         

            これが私のコンテンポラリー写真。

         『押し黙る 鷺にこそ聞け 青色に 空も湖水も 染まるその時』一撮


  写真とは何か?〜(その3) 『転』の巻

2022年07月22日 | 必撮無眼流

         

 

  このシリーズをだらだら書くつもりはなく、どうしようか・・・と思案していたら『起承転結』の四文字熟語を思い出し、即採用。

  で、この3回目は『転』となったが、果たして私の人生の『転機』となるエピソードを展開することで、『私の写真』の究極の意味にせまりたい。

 

  鍼灸学校を卒業し、私は長年憧れていたニューヨークへ永住の覚悟で飛び立った。 使い古された言葉『アメリカン・ドリーム』になんとか

  あやかりたい…という淡い希望を胸に、現地で待っていてくれる婚約者・・・金も人脈も何もない私は、男と女という不思議な引力を活用して

  二人で新しい生活を切り開きたいと思っていた。この年の前年に私は一度渡米してガールフレンドができ、日本にも来てもらっていた。

  真剣に結婚するつもりであったので、彼女のシカゴのご両親の家に伺った時、私にとっての『転』の事件が起こったのだ。

 

  外科医であった彼女の父と専業主婦であったお母さんらの生活は豊かで、彼女の兄弟姉妹も皆親切にしてくれた晩餐会の後で

  ご両親の若き日のスライド写真ショーを見せて頂いた。お父さんは若いときに米海兵隊員として日本の横浜に勤務し、写真は

  そこでの兵役が済んでアメリカに船で帰国した際に撮影したもので、真っ白の海兵隊員、士官兵の制服と女優のように美しいお母さんの

  幸せそうな二人が写っている写真は見ていても眩しいほどであった。

  まるでリチャード・ギア主演映画『愛と青春の旅だち』のワンシーンを見ているようであったのだが、その時私は眩暈のような感じがし

  何故かわからないが、それが結婚することに躊躇する原因となったようなのだ。

  結果的に、私はアメリカに半年もいただろうか、その後スイスでの一年を経由して日本に戻り、本格的な『禅修行』に打ち込むことになった。

 

  長い間、私は自分の中で何が起こったのか、アメリカで起きた出来事の意味がわからず

  彼女に対して理不尽な行動をとって、罪なことをした自分を攻めるのだが、いつも最後には、あの時はああせざるを得なかった…という結論であった。

 

  後に禅書で、ある禅の公案に出会った。

  いまその公案の詳細は忘れたが、『 修行に行くつもりの青年が、途中で美しい女性と出会い、結婚することになった・・・、で幸福な人生を送って

  死の床についた時…そこで、夢から覚める 』というようなストーリーであったが、これを読んだ時、私はあのアメリカでの謎が解けた気がした。

  あのスライドに映った彼女の若き日のご両親の姿・・・に、私は自分の一生を重ね合わせ、その最後までを見たのだと思う。

  そして、幸せであるが、何か肝心なものが抜け落ちているような人生に、怖れを感じたに違いない・・・。

  

            

      私の作品の中で、自分では傑作だと思っている作品。でも長い間、何が写っているのかわからないまとまりのない駄作とおもっていた。


 写真とは何か?〜(その2) 『承』の巻

2022年07月21日 | 必撮無眼流

   『写真とは何か』・・・といっても、そこには『私にとって』を付け加えなければ…、いかんなぁ〜と感じつつ

  自分の人生を『写真活動』との関わりの中で還暦スキャンすると、今まで気づかなかった視点から省みることができるこがわかった。

 

  『神戸』という私にとって第二の故郷的場所は今思えば、まさに『神様がいる所』であったであろうか。

  道産子の私が、高卒後最初に就職した東京の新宿京王プラザホテルを3ヶ月で辞職、牛乳屋さんに住み込み配達員として神戸六甲道

  に住みはじめ、神戸に来た理由であった夜間神戸外語大学の受験に落第後、写真専門学校に入学・・・・

  こうした一連の時の流れは、私の気まぐれなその時々の思いつき的行動のように思い、これまで省みることもなかった。

 

  北海道から東京経由で関西の『神戸』に住み着いた私は、なにもかも新鮮で生きる喜びを強く感じていたが

  『神戸』にまで来たことで、それまで18年間生きた、私の様々な『柵(しがらみ)』から、私は完全に解放されていたのだ。

  

  大抵の若者を苦しめる、将来の展望の中で自分が何をやりたいのか? という具体的な目標が定まらない時期…

  これに私自身もそうとう悩んだと思うが、神戸に移り住んだある時、電車の窓から観えるある芸術学院の『写真科』という

  文字をみた時、私の悩みは解決していた。

  それまでの人生のなかで『私と写真』との接点というのが、もしあるとすれば単に『映画好き』・・・ぐらいなもので

  当時19歳だった私が『写真をやろう』、という思いに取り憑かれた原因が何であったのか?解らなかったし、別に解ろうとも

  しなかったのであるが、後に禅の道に進んで『己事究明』に深くかかわる事を思えば、『写真』の選択はその布石であったかもしれない。

  

  もとより写真は視覚芸術で、非言語であり、より『直感』を要求するモノ・・・という認識が私にあり、だから写真家としては

  ブレッソンやロバート・フランクなどのスナップショットという『撮影法』で、深く『人間観察』された作品を好み

  自分もそのような作品作りを目指し、『寝てる時以外はカメラを首からぶら下げていること』を自分に課していた。

           

  この写真は、卒業した写真学校に助手として雇われた頃(24歳)。玄関・台所があり4畳半の部屋は、それまで相部屋とか間借りであったから

  完全に『一国一城』の主になったような気分であった。写真はフイルム現像をしている時の私自身の様子。

  フイルムも印画紙に焼くのも自分自身でやっていたが、フイルム現像する時のかったるい『時』はある意味『瞑想』の始まりであった。

  

 


  写真とは何か? (その1) 『起』の巻

2022年07月19日 | 必撮無眼流

  カテゴリー『必撮無眼流』・・・このカテゴリーがあることを忘れていた、わけではないが。

  写真といえば、我妻ニコル専属写真家に成り下がり、それもカメラではなく携帯で撮るしまつ・・・。

 

  自分のことを『写真家』と名乗る暇も実力もないうちに『禅』にうつつを抜かし、20年間ほど写真から遠のいていた。

  2003年ジュネーブで『引越し屋』の職をえてから、肉体サラリーマンとして給料や休暇の日程などが安定したので

  写真活動を再開したのだが、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のごとく、写真機材が銀塩からデジタルに移行してるうえに

  『肖像権』とかで、昔のようにやたらに人にカメラを向けることが出来ない時代になっていた。

 

  21歳の時、写真学校入学以来、私は自称『撮人家・サツジンヵ』というくらい、撮影の対象は『人間』だけであり

  自分で現像、紙焼きするモノクロ写真家であったから、写真活動を再開したものの非常にめんくらってしまった。

 

  しかし、やはこここにも『捨てる神あれば拾う神あり』、写真活動休止の空白の20年をある日本人写真家のブログを読むことで

  写真家にとっての変革期をどのように乗り越えるか・・・個人レッスンを受けるが如く、色々彼から学んだのである。(感謝)

         

  1981〜1986年の間、私が30歳代初期のとき、↑この写真展案内カード左からの順で『銀座ニコンサロン』・『新宿ミノルタ』『新宿オリンパス』

  でそれぞれ写真展を行った。右側の『貰った背広』は自写像作品で、写真雑誌の批評で高く評価され、記名帳を見ると有名な写真家や評論家など

  が見に来てくださったが、肝心の私がその時スイスにいて、写真で飛躍するチャンスを逃してしまっていた。

  しかし、今思うと『若気の至り』も至りで、銀座や新宿の街中で短期日とはいえメーカーギャラリーで無料で写真展を行えた事が、

  如何に光栄なことであり、どんなに有り難いシステムであったか、その頃の私にはまったく解っていなかった。

  当時、アマチュアにしてもプロにしても作家志望の写真家はメーカーのギャラリーの審査をパスし、写真展を積み重ねることで

  写真家として箔を付けるというのが王道であったのだ・・・。『井の中の蛙大海を知らず』であった。

 

  スイスにきてから何度か写真展を行ったが、銀座や新宿で行った写真展とは問題にならないくらい、手応えのない写真展であった。

  いま色々なことを還暦スキャンする余裕があるから、はっきり解るが、人口比がまったく違うことを考慮にしても

  ニコンやキャノン、オリンパス、ボクの愛機であったペンタックス・・・

  などなど有名どころの写真機メーカーがある国である日本と、それが何もない、たとえばスイス…

  写真機材ばかりではなく、 写真に対する人々の『思い入れ』のレベルが圧倒的に違うことを痛感する。

  ただヨーロッパの中でもパリは例外的に写真を愛好する人々が多い。

  それがロベルト・ドアノーやアンリ・カルティエ・ブレッソン等を輩出した素地であったか

  あるいは逆に、彼等がいたからこそ写真文化を大切にする風土ができあがったのか・・・。

 

  もう十数年前になるが、フランスからスイスに進出した本のチエーン店「Fnac」がジュネーブに出来た時、

  フランス店には必ず写真展コーナーを設けてあるので、ジュネーブ店にも初めは写真展コーナーがあったが、

  4,5ヶ月後廃止されてしまったのをみた時、私はジュネーブ人の写真に対する関心の薄いことに大いに失望したのをおぼえている。

 

  

  


 桃源郷の仙人たち〜樹上読書老人

2021年10月13日 | 必撮無眼流

  私が日頃『桃源郷』ではないか、と思っているロマンモティエ…という名前の村は、人口500人でローザンヌの北30kmの所。

  我々の散歩コースとしては第4コースとなっている。

  スイスで最も古い教会、聖ロマモティエ教会があり、昔歌手のダイアナ・ロスが結婚式を挙げたことで有名になった村だ。

 

  相方のニコルが大好きな場所でよく散歩に行きたがる場所であるが、私はどういうわけかいつも気が向かない場所であったが

  なんどもお供しているうちに、駅から村に至る道の風情の素晴らしさが実感できるようになり、お気に入りの一つになった。

  駅から村へはわずか1.5kmほどであるが、清流の小川にそって四季折々の花や樹木をめで、その左手の牧草地に放牧されている馬などを

  眺めながら、この先の森の深まった小さな谷間に11〜14世紀に建立された修道院教会を中心に形成された村を訪ねるのだ。

  だから、車で直接村に乗り付ける人々はその風情を味わうことは無いだろう・・・。

  車のない遠い昔、徒歩でこの奥深い森の修道院教会を訪ねる…ということを想像したとき一層『桃源郷』という言葉を想起してしまう。

  それが決定的になった瞬間を私は先週この村で目撃してしまったのだ。 その貴重な証拠写真がこれ⬇︎⬇︎

        

           『樹上読書老人』・・・一瞬眼を疑ったが、桃源郷ならではの風景・・・

  世間体(せけんてい)という体裁からまったく自由に生きる仙人がやはりスイスにもいた!…と感動して一撮したら 『 Bonjour!』と仙人からの一言。

    『 秋の陽に 浮かれ仙人 樹上読書 学び魂 時空選ばず 』 :一撮

 

  この一枚の写真で自分が『写真撮家』であることを久々に思い出したが、この『桃源郷』こそ撮家を志す動機ではなかったろうか。

  『桃源郷』は場所ではなく『次元という時空間』であるとした時、この『桃源郷の仙人たち』はシリーズになる可能性がありそうだ。

    


 タイトル : 地球は回っている

2021年01月03日 | 必撮無眼流

  私は幼少の頃から口数の少ないほうであった。

  菊池の母さん(育ての親)は盲目で文盲、出かけるときは私が手を引いて歩いた。

  大人の話に子供は口を出しては行けない…と躾けられ、お客が来ても私は大人の話には耳も向けず、自分の世界に浸っていた。

  そういった環境で育ったせいで、私は他の子供に比べてもボキャブラリーが少なかった…のだと思う。

  特に、花だとか、木だとか日常生活からちょっと離れたところにある物の名前は未だに知らないタイプの人間である。

  寿司やとか居酒屋とかほとんど行ったことがないが、行っても注文する名前がわからないので、恥ずかしいのだ。

  そんな言葉にうとい人間の私が、ブログなんかを書くようになったのは実におかしい・・・。

  そのへんを、『還暦』してみて、思い当たる事があった。

  20歳の時、電車の窓から見えた『芦屋芸術学院』という看板に『直感』してその学校の写真科に入学したことが

  私が自分の人生を歩む第一歩であり、視覚人間であることを自覚した瞬間であったと思う。

  ところが、よく考えてみると写真にはタイトルが必要で、私は写真のタイトルを何故か重要視していたので、自分なりによく考えたものであるが

  私にとって、この短いタイトルが『詩』であり、おそらく『禅の公案』でもあったであろう…、その頃はもちろんそんな様なことは思いもしなかった。

  視覚的に何かを直感した時にシャッターを切り、その後、出来上がった写真を観て自分が何を感じたのか言葉で反芻する作業…を自然としていたのだ。

  のちに禅修行をすることになり、最初は『数息観』その後『公案〜庭前の白樹子』と向き合った。

  禅の公案(禅問答)=短い言葉、は修行者を『黙らせる』働きと同時に、言葉の奥の奥にある真意に至らせる働きがある・・・と理解した時

  視覚人間のはずの私は、いつの間にか言葉を少しずつ『獲得』していき、自家薬籠としていく。

          

           写真を始めた頃の作品(1973年頃)、タイトル『地球は回っている』にした。写真では見えにくいが、神戸の六甲山から遠くに海と船舶が観える風景

           ここに初公開、初発表する作品。何故『地球は回っている』なんていう、タイトルを付けたのか?

           北海道の片田舎、山中で生まれ育った自分が、今ここで海を見下ろしている…ところに、あるいは『諸行無常』を感じていたのか?

  

  

  


一撮ロゴ完成

2020年06月06日 | 必撮無眼流

花粉症と小風邪で咳痰の日々で何もやる気がない状態が続いていたのに、昨日突然やる気が湧いて十年来の念願だった一撮ロゴが出来上がった。

鈴木大拙の本を読んでいたら『創造欲』が湧いてくる…ということが実にシバシバあるので、やはり彼の言葉には人をして奮い立たせる力(パワー)があることを再確認。

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一応、ボクの写真ホームページように作ってみたロゴ www.shinjiro1.jimdo.com

是非一度覗いてみてください。『花猫風月』というタイトルで猫写真あります。

それで、ボクのロゴが何故『猫』なのか…ということなのですが。

ここ最近の世の中の出来事(例えばコロナ騒動)などを振り返って見ても、猫達は一向に動じていない・・・様子(FacebookやYoutubeに観る猫の生態)にあらためて感心を通り越して敬意あるのみ。『自由』というのは猫族の特性でしょうか。彼らこそ我ら人類の『師』。

13年前にフィルムカメラからデジカメに変更した時、慣れないデジカメ操作の練習に『猫』をテーマに写真を撮ったときからボクは愛猫家になったのです。このロゴもその時に撮った一枚を使っています。

絶対の平和主義者でありながら『和して同ぜず』・・・Going my way  + 按摩名人の猫

追伸:ロゴを猫にしたもう一つの大事な理由を書き忘れていた。

ボクの名前のS・Mの頭文字から猫のシッポ(S)と耳の形(M)のイメージ発想から来ています。 

 


必撮無眼流 〜 焦点深度

2019年06月10日 | 必撮無眼流

昨日、10日間のSionでの写真展が終わった。

写真展の意義というのは、写真展をやった時に深まるものだ…と改めて思った。

結局断ったラジオインタビューの件にしても、写真展現場で受ける何気ない質問にも、その中にこれまで、思いもしなかった事を考える切っ掛けになったように思う。

それは写真と一緒で、まず直感に従って撮ることに専念する。そのあとなぜ撮ったかを考える必要があれば考える…で、ボクは特にこれといって考えたことがなかった。

何故なら、一枚の写真の中に全てがあるから…と確信しているから。

だから、質問がでると改めてゼロから考えては自分で感心するが、そんなに深いモノがあったのだろうか???と。

深いモノがなければ、撮らなかったのも事実ということを思えば、在るのだろう。

しかし、それを言葉にしたとき、各人の受け止め方にアクセントがついてしまうのが、

嫌なんだとも思う。

例えば、なぜスイス闘牛を撮ったのか?…という質問があったとき、なぜかと言われても正直困る質問なのだ。なにか言ったとしても脇がこそばくなるだけだ。何故なら真剣に考えたときその行動を導いた要素は無数にあるのだから。『そこに山があるからだ』…みたいな答えになってしまって相手を当惑させるだけなら、一層のこと

黙っていたほうが正解のような気がする…。そこまで考えたときインタビューに出なくてよかったなぁ〜と思う。

しかし、日常生活の中に常にこんんな問題があって、いちいち説明するのが面倒だから

適当に相手が納得する答えを口にすることが案外多い、ボクの場合。

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友達が子連れで来てくれた図

上の子は反抗期なのか、写真を拒否している図でもある。

遠路はるばるシオンまで写真展に来ていただいた皆様、ありがとうございました。


闘花粉章

2019年06月04日 | 必撮無眼流

花粉症になって6,7年目?

案外くるしいのか、毎年の如くこの季節になると、ブログに愚痴ってる。

以前、短歌で花粉症の苦しみを「五月サッキ」に絡めて「殺気」立つ思い…と詠んだことがあった。それが今年は六月にずれ込んでよく知らぬ土地、Sionで急に真夏なみの暑い日差しをほどよく柔らぐ葡萄の葉の屋根の下でいつ来るともわからぬ我が写真展鑑賞者を居眠りしては、ふと覚めて自分は一体どこにいるのか?一瞬の永遠の「間」に迷ったあとに…大 くしゃみ三回、で鼻がズルズル、目がどうしょうにもなくイズイズする不快感は筆舌に尽くしがたい…(この表現は一度使ってみたかった)のだ。

何より絶え間ない「睡魔」… に襲われるのが真面目一徹居士の自分には耐えられない苦痛で、せっかくの「間」の時間に読もうとする松岡正剛著「侘び・数奇・余白」という高尚な著書に挑戦するのだが、数行いくと瞼が焼けるように熱くなって、気が付くと瞼が閉じられているというていたらく。嗚呼花粉症よ。

そのせいでもあるまいに、日本から児童殺し、息子殺し等など悲しいニュースが届けられる。格差問題など様々な問題が山積みとなっている日本への思いもこの夏に選挙を控えるだけに日に日に重さを増している。


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必撮無眼流 ~ 審美眼

2019年06月04日 | 必撮無眼流

スイス闘牛の本場、バレー州の州都Sionでの写真展も今日で4日目、友人などが遠くからはるばる来てくれて感謝感激。

地元の写真家も何人か来てくれ、色々話が弾んだが、意外だったのが闘牛をテーマにした写真展はこれまでほとんど無いとのこと。

ラジオや新聞社がボクに声をかけてくれた訳はそうゆうところにもあったのかも、しかも写真家が日本人であるということもポイントであったであろう。(ところでラジオのインタビューの方は熟考の末、お断りした。)

今回の写真展はこれまでの合同展ではなく何から何まで全部自分の采配で行ったという意味で新鮮な気がした。一人でやるにはちょっと大きすぎるスペース。だからA2サイズで33枚展示したが、それでも洞窟状の小部屋は使わなかった。表入り口に客引き用の写真を見ても地下にあるギャラリーには入ってこない人も結構多く、闘牛に興味が無いという事だろうか。昨日はハイキングに来た人たちがポツポツ見に来てくれた。実際の闘牛は見たことがない人たちがほとんどだが、ボクの写真は楽しんでもらえたようだ。

鑑賞芸術にもいろいろあるが、中で写真というのは案外思うほど一般的ではないのでは、と思えてきた。もちろんテーマにも依るが展示内容をその写真家レベルで理解する人は少ない気がするのだ。写真を鑑賞するにもある程度の訓練や慣れが必要なことは言うまでもない。写真は見れば誰でも解る…というものでないところが、写真の面白いところかも知れない。


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ところが昨日、閉展まじかに入ってきた地元の写真家の男…ボクとほぼ同世代。

熱心に見ている肩に声をかけると、彼の感想をいろいろ聞かせてくれ、その審美眼の深さに恐れ入って嬉しくなった。淀みない話し方は何故か全部聞き取れて不思議な気がした。昔、この地で禅会を催したそうだが、そういった共通点もあるいは関係あるのだろうか。

 


必撮無眼流 〜 写真展『L'homme et la bête 』スイス闘牛

2019年05月25日 | 必撮無眼流

今週の金曜日5月31日よりスイスのバレー州、州都シオン(Sion)で10日間の写真展を行う。

べく、準備などなどで忙しいというより気ぜわしくして…(という言い訳)によってブログ更新を御無沙汰していた。

写真は2004年〜2010年にかけて撮りためたスイス闘牛写真。

日本の宇和島などで行われている牛と牛の闘いと同じ、ただ牛たちがスイスでは雌牛である。フランス語では Combat de reines で、『女王の闘い』となる。

2003年に引っ越し屋に社員として定職をもち、生まれて初めてのバカンスというものをもらい、そういう時間を利用してスイス闘牛を撮り始めた事情がよくわかる。

撮りはじめの2004年頃は、観に来る人は地元の人ばかりで規模も小さく、数人のアマチュア写真家達が柵に近づいて写真を撮っても自分達の安全さえきちんと確保していれば誰も文句を言わない状況であったが、その後徐々に人気が出てきて最近では毎年テレビ中継が入るようになり、観客も昔の比ではないほど、したがって写真撮影も自由に最前線で撮ることができなくなっている。

いずれにしても、ボクの興味は牛達の勝負よりは地元の人々の人間模様…そういった観点からどこに行っても変わらない人間と動物、人間と人間の関わり具合をボクは楽しく拝見したものを展示しることにした。

スイスの闘牛…といっても闘牛を行っている地域は限られていてスイスのバレー州に限られているようだ。そのバレー州の8ヶ所を取材に行っている。

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 この省略図では省略しすぎてスイスを知らない人にはわからないかもローヌ川

今回写真展を行うにあたって撮影地を地図に表したが、案外あちこち行っていたので驚いた。

地元の人々が楽しみで催している闘牛が、その存在すら知らずにいた人々に広がって酪農家の人々の生活の一端を知ってもらえる喜びというものがあるのだろうか。

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写真の神様 H・C・B 夫妻と一撮

2019年04月17日 | 必撮無眼流

名もなき写真家、必撮無眼流開祖・一撮にとって秘蔵と呼べる唯一の写真を初公開すべきタイミングが来たようだ。

いつの日か…とは思っていたが、ブログという形で公開する日が来るとは…

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時は1978年、一撮26歳の時、まだ芦屋芸術学院に写真科助手として勤めていたか、或いはやめてフリーのときであったか?その点よく覚えていないが、PPS通信社という世界的に有名な写真家の写真版権を取り扱う会社の大阪支社でアルバイトしていたときに

PPS通信社主催の『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真展』が行われ、そのオープニングに気前のいい社長さん(写真左端)が招いてくれた時に撮った写真。

カルティエ=ブレッソン夫妻のちょうど間に黒子になりきって微笑む一撮であった。

当時は英語すらできなかったし、かりに出来ても写真の神様に声を掛ける勇気は持ち合わせていなかった。写真を始めたばかりの頃、カルティエ=ブレッソンと、ロバート・フランクがボクにとって偉大な写真家であったから、カルティエ=ブレッソンのそばに寄れたというだけでうれしかったのだ。しかし、彼の作風には影響を受けたと思うが、真似をしようとは全く思わなかった。ブレッソンといえば、カメラは高価なライカであったが、ボクは当時安く、小型のペンタックスSPが気に入っていた。

『決定的瞬間』はブレッソンの写真を語る時、必ず出る言葉であって、風景の中で動く人物の切り取りは抜群であったが、ボクが最も彼を高く評価するのは静止するポートレイトにおける人の心の表出だった。あくまで自然光を利用した内面の表出の美しさ、強さに本当に写真のあり方というものを学んだと思う。

んで、なんでこのタイミングでこの『秘蔵写真』を公開する気になったかというと

最近、週一で5回のフランス語を学ぶコースをとったが、その最後の日に先生が最近のローザンヌでのTVニュースのビデオを見せてくれ、それが今現在、地元で行われているエリゼ写真美術館での『Martine Franc』展の案内であった。写真は1960〜90年代のモノクロ写真で大変いきいきした素晴らしい写真であった。この聞き慣れない写真家『マルティン・フランク』は誰なのだろう???と先生の解説も熱心に聞いているとボクは『エエッ!!』と激しく驚いたのだ。というのは、このMartine Franc こそアンリ・カルティエ=ブレッソンの奥様だというのだ。自分ではこの年代の写真家で知らない写真家は一人もいない!と勝手に自信を持っていたので、この写真家の存在を全く知らなかった事と、彼女が尊敬するブレッソンの奥様であったことも知らなかった事、さらにもう一つ、いま現在の我がエリゼ写真美術館の館長がこのマルティン・フランク女史の姪

Tatyana Franck(35歳)で2015年より館長になっている…ことなど知らなかった!のだ。

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Martine とブレッソンは彼女が32歳、彼が62歳のときの結婚で、すでにブレッソンは世界的名声を得て写真の巨匠と言われているときに彼女は結婚したわけで、写真家としてもブレッソンに大きな影響をうけていることは、写真展を見ればわかった。

ただ、出逢っていなければ或いはもっと彼女の個性を活かした作品が撮れたのではないかと…写真展をみながら思ったことも事実だ。いずれにせよ、偉大な写真家との生活は彼女自身の写真家としての活動に快い事ばかりではなかったであろう。

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   彼女の写真展が京都に来ていたんだ!