拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 Neyの音色

2012年02月29日 | 還暦録
 ニコルの部屋から いきなり笛の音が聞こえてきた。
 彼女の同僚が ニコルに何か絵を描いて欲しい・・・という要望があり  その依頼の話で来宅していた。
 
 その彼が 吹いているらしい。 聞いたようなことのある アラブ風の 音色は ライブでなければ出ない 迫力があり
 隣部屋へ飛んで観にいく。 
 独特の笛の構え・・・初めて見る奏法と 音色に オリエントの情緒が 溢れる。

 アラブで ネイ(葦の意)と呼ばれる笛で 一見竹に似ているが 葦の種なのであろう 80cmぐらいであるが とても軽い。
                       

 ボクは今 眼の手術を受けたため 術後の10日を休ませてもらっている。なにせ ホコリたかい仕事なので ホコリが眼に入るのは厳禁なのだそうだ。
 今日でちょうど一週間たち 12針ほど縫っている為か 常に眼に砂が入っているように 痛いような イズいような・・不快感がずーっとあったが 
 やや薄れてきた。 糸の一部は自然に溶け 残りは2,3週間したら 抜糸してくれるという。  

 ほぼ片目でもやはり気になるので ツイッターに眼を お通しているが、 いい話は少ない。
 もうすぐ 一年になろうというのに 何にも解決していないどころか 多方面で 物事が悪化していて 肝心な 「避難」が 進展しない。

 よく「利権にしがみついている人々」と聞くが この人達は 本当に 金の亡者ゆえに 正しい判断が出来ないのであろうか・・・ 。

 

  数息観のすすめ 

2012年02月24日 | 還暦録
 手術台にのって準備していると 意に反して(美人看護婦を希望していたので) ガラッパチなお姉さんが「救急?救急?」っていきなり大声で聞いてくるから
 一瞬ポカーンとしていたら 「フランス語話せるの?」っていう。 
 
 救急かどうかは メニューみたいなもの・・・カルテを見ればわかるだろー!!と 内心思っていたので  ポカーンとしていたのだ。 
 だいたいでかい声出しやがって 年寄りだと 思ったのか!!! 失敬な奴だ・・・とこれも 内心で おもったのだけれど・・・。

 そいつが いきなりボクの二の腕に 「はい 入れるよ!」と 注射をぶち込んだが 失敗したらしく 違う場所にまた チクーっと 「痛い!」 と内心。

 その後 手術の先生が来て 挨拶 顔に布をかけられて それからは何も見えず。 
 眼の下に麻酔の注射を 打つと聞いていたので 待っていたが とうとうそれがない、 しかししばらくして気づいたが すでに麻酔は効いていて
 ボクは眼を閉じているつもりでいたが どうやら眼は開いていて 手術は始まっていたのだ。眼を閉じているのに 丸い光を感じるのが どうもおかしい
 とは 思っていたのが すでに 麻酔が十分効いていたらしい。

 映画みたいに 鼻の穴にチューブを通されたのは初めて。 ベッドは若干 頭部が下向きに傾けられたので 後で呼吸がしにくくなった場面もあったが 
 そうゆうことを 想定しての チューブであったかとも 思う。 

 顔に布を掛けられ 右目は麻酔で何も見えない・・・となれば 脳内は色々考えて 狭所恐怖症になる人もいるだろうなぁ~などと 考えた。

 そのような時 習い覚えた 「数息観」は じつに 素晴らし・・・かった。 禅修行でさんざんやった 数息観。 これは本当に 「安楽の法門」だね。

 これは 広める価値があるね・・・。 数息観をしながら そんな事を 思考 している内に 手術も終了。

                    

                     猫で写真展をした時 スイス人がスケッチをしていた。 この漢字の写し方 日本語知っているのだろうか?
 

 Deja vu =既視感 Matrix

2012年02月19日 | 還暦録
  デジャヴュ・・・文字通り もう何回も見たけれど  日本語字幕付きで 映画マトリックスを 初めて見た。
  文字通り デジャヴュだけれど なんか意味が 場面の進行に合わせて ちゃんとわかる・・・のって最高だ!!
  
  今まで見た 映画マトリックスは なんだったんだ・・・というくらい 意味がとれた。(当たり前だ!)
  やっぱりこれからは 外国映画の場合は 「字幕付き」が Must だろうなぁ。  こんに意味がわかってなかったなんて。

       
         既視感(デジャヴュ)は 青年ネオが 同じ猫を二度見た時 発せられた言葉・・・そして貴方もこの猫はデジャヴュ。

  この映画マトリックスは いろんな意味合いが 汲み取れて 何度見ても じつに傑作だ。

  人間は コンピュータに支配され 電力源として 培養されている・・・というストーリーは 
  以前にも書いたが 原発マフィア=マトリックスの図式が まさにそのまま 当てはまるのが 怖いくらいだ。

  と、言うことは 原発マフィア(政治家、東電の社員、司法関係者、メディアの一部の連中)は金ピュータに洗脳されているのだろう。

  先日 ツイッターを見ていたら 稲葉剛さんのこんな言葉があった: 

     「私は18年間、ホームレスの人たちと関わってきて、被曝労働に従事した方に何人も会ってきた。
      一緒に働いた友人を白血病で亡くした方もいた。そして今、首都圏や関西から事故処理のために日雇労働者がかき集められている。
      集めているのは手配師で、その背後には暴力団がいる。
     「・・・だから、私は考える。原子力発電が燃料にしているのは、ウランやプルトニウムだけではない。
         原発は、この社会の差別や貧困を喰らいながら電気をおこしているのだと。」

  我々は 3・11の事故が起きるまで 何にも知らずに生きてきていた。 

  

 雷龍の国

2012年02月18日 | 還暦録
 毎度 遅ればせながら 昨日初めて 「ブータン国王国会演説」動画を見た。 http://www.youtube.com/watch?v=Dk9VR61i9OE

  若きブータン国王は 本当に日本のことを 信じておられるのだろう・・・なぁ。この演説は2011年11月で その時点で
  国王はどの程度 日本の現状を知っておられたのであろうか、その点に大変興味がある。

  何もかも知った上での この演説ならば そのメッセージは 
  稀に見る危機に 直面した日本への 日本人の良心に向けての信頼と激励であったであろう。 

  この演説を 国会議員らは どのような気持ちで聞いていたのだろうか。 
  貧しい小国の国王の演説と聞いたか? 仏陀の如き 高い志を持つ人の声と聞いたか?

  本来のブータンの国名は「ドゥルック・ユル」が正しく、「雷龍の国」という意味だそうだ。
  そういえば 国旗は黄色と赤の二色の間に 白龍が描かれている。

  2012年 日本復興の「龍年」に先立ち 「白龍」が 応援にきてくれたのだ。

  我々は 彼の演説を 心に刻みたい。

                     


  

  集金で~す!(2) 素敵な日本を取り戻せ!キャンペーン

2011年11月01日 | 還暦録
  19歳の時 北海道から 東京経由で ほとんど偶然に神戸に来た。牛乳屋さんに住み込んで 写真学校に通っていたこの頃は
  ボクの人生の中で 最高と思える一時期と言える。

  牛乳屋の仕事は 毎朝の配達と月一回の集金。 それで初めて集金した時 暗算ができない自分に驚き 
  お客さんの所に行く前に お釣りはいくらだろうか?・・・などと勘定してから行ったっけ。

  必撮無眼流の話のところで 言ったように写真を始めた時は 46時中カメラを携帯することを自分に
  課していたので 集金中の こんな写真も撮ることができたのだろう。
  このおばあさんは 盲目で ボクが写真を撮っていることを 知らない。流石に 気が引けたが、多分おもしろい と
  同時に思っただろうと 思う。
  
                    

  集金で~す! 素敵な日本を取り戻せ!キャンペーン

2011年10月21日 | 還暦録
 昨日は 例の読売記者の事件で つい熱くなってしまった。
 ボクは 口下手だし こちらスイスの生活も長く 日本語もスラスラ出ない状態なので 怒った場合 「コノヤロー!」
 とか 「なんだバカヤロー」とか 割りと 怒っていることが わかりやすい 表現形式を 用いやすい傾向にある。
 日本語でも怒った時 うまい文句がでないのに、フランス語でなんていちいち 怒っていられないのだ。
 それでも最近は 上司を怒らせるぐらい ボクの口も ほんの少し達者になっているようで、うれしい。

 まぁ、そんなに使う場面が幸いなく あっても歳のせいか 我慢強くなっているが 、こちらに来たばかりの頃は
 ガイドだったが、現地の運転手が云うことを聞いてくれなくて 日本語で啖呵をきった・・・事もあった。

 結果は でも それでよかった・・と言うことが 多かった。怒ることができる人間であるということを示すことは
 こちらではとても 大切だ。
 自分がというより 自分も含めた人間の尊厳を損なう行為にたいしては 断固として怒るべきで それをしないのは
 その行為を容認することになってしまう。

 そういう意味で まさに今の我々日本人は ”怒る” べきでは ないだろうか。 良き日本を取り戻すために!

         今日の写真は 良き時代の 集金風景、 神戸で共進牛乳の配達と集金をしていたが その時スナップしたもの。
       
        
           

 古本屋のおばあちゃん ~ 素敵な日本をとりもどせ!キャンペーン

2011年10月12日 | 還暦録
  今はもう20~30年ぐらい前の話になるが 東京に住んでいた頃は 暇さえあれば 古本屋に行ってたっけ。

  コンピューターのない時代の 簡易に知的刺激を受けることができる “場” で なにより金のない自分
  にとって ブラっと立ち寄ることができる 場所で しょっちゅう出入りしていた。

  スイスに住みながら ボクの本棚にやたら本があるのは その頃にせっせと買いだめした本だ。
  
  そう言えば 小学生のころは ボクの北海道の田舎でも 貸本屋さんがあって マンガを よく借りたなぁ。

          

 写楽斎の人生で最も長い一日 27年前の7月14日

2011年07月14日 | 還暦録
 今となっては ほぼ断片的な記憶が 穴の開いたチーズの如く しかもそれが事実であったか
 どうかも確認しようもない我が事ながら 毎年7月14日を迎えると 27年前初めてヨーロッパは
 パリに着陸、夜中は何時であったかわからない時刻にクタクタのになって 今いるこの街ローザンヌ
 の大きな駅にたどり着いた一日を思い出すのだ。

 ここヨーロッパに来たのも 神の悪戯(いたずら)。ボクの鍼灸の先生のところに3人のスイス人
 男女が訪ねてきたことがその発端となった。今考えるとキューピットの「矢」というのは恐ろしい
 威力で 彼等が滞在していた多分一週間のうちに 思いもしない恋が炎となって燃えた・・・。

 それまでボクの辞書に“ヨーロッパ”という文字はなくアメリカはニューヨークにばかり目がいって
 いた時期だったし、彼女と恋に落ちてもその場その時の出来事と思っていたのに、翌年になって
 スイスに遊びに来ないか・・と誘いの手紙がきて、スイスやヨーロッパに対する何の知識もない
 まま飛行機に乗り込んでいた。 機中隣の席にボクと似たような境遇の日本女性がいて彼女と共に
 眼下に広がるパリ郊外の豊かで美しい田園風景を興奮して見たのが懐かしい。

 空港から目的の駅まで行く苦労、やたら人の多いリヨン駅、それもそのはずパリ祭でバカンスに
 繰り出す人で普段よりよほど人が多かったようだ。今考えるとボクも本当に馬鹿で、スイスまで行くのに
 日本でいう新幹線、TGVの存在すら知らず、どうやってスイスのローザンヌに行くのかさっぱり
 わからずに困った。電話もかけ方がわからない。英語で尋ねても誰も親切に教えてくれなかった。

 だからどうやって夜遅くに ローザンヌ駅に着いたのか そこのところの記憶が抜け落ちているが、
 アラブ系の男がズーッとそばにいて親切に教えてくれた記憶がかすかにあるのみ。

 いま夜10時半を回ったところ、この写真のレマン湖の向こう側はエビアンで、パリ祭の花火が打ち上げられている。
        

”涙の連絡船” で号泣をこらえる

2009年12月22日 | 還暦録

 病気は人をして反省をうながすものだ。昨日まで足が不自由な人がいても何にも思わなかったが,自分の足が痺れたり,痛かったりすると他人の辛さに同情の思いを持ったりする。

 健康時はその事に感謝の念を持ちにくいものだ,それを失った時,本当にその有難味が身にしみてくる。

 今日,知り合いの日本人からクリスマスカードをもらった、彼はガンになって今年いっぱい入院,闘病して良くなり最近自宅療養ということになったと喜んでいた。時折人づてに彼についてのニュースが届いて,闘病の大変さを知らされていたので、彼からのハガキは嬉しかったし,心から良く頑張ったね!・・・と祝福した。どんなに辛いか・・などと思ってみても,ボクなどは想像も出来ることではないが、彼の闘病態度は何故かボクに侍を思わせ,以前にまして敬服している。

 パリから届いたもう一枚のカードの彼女もガンと戦っている人だ。彼女は数年前離婚してパリに移り住み,やっとパリに慣れたや先の今年、ガンになってしまった。アフリカ系フランス人で天性の楽天家、稀にみる,めったにいない楽天家である、が・・・やはり一人で何もかも頑張るのは辛いだろうなあ−、とニコルなどはよく電話して激励しようとするが本人はいたって元気でニコルは拍子抜けしたりしている。いつもニコルと出す結論は,アフリカ系は強いなあ−!!となる。

 病気は人をして,初心に立ち返らすもののようだ。
瓦を磨いても,鏡にはならない・・という話が、禅の本にあるが、確かにその通りと坐禅を怠っていた自分を反省して無意識に奢っている自分を常に叱咤激励を与えるのは生きている限り必要、健康面から考えても充実した下っ腹は大事であることを忘れていた。20分でもいい、背筋伸ばして鼻から息を吐く時、ゆったりと下腹が充実するように呼吸を続けると,肩の力が抜け心身がスッキリする。

 ニコルが彼女のブロクのための冬の日本の音楽何かないか?と尋ねてきたので、思わず都はるみの北の宿から・・・と答えていた。そんなわけで十何年かぶりでユーチューブで彼女の歌を何曲か聞いた。ニコルに見せるわけには行かないので,ジットこらえたが、”涙の連絡船”でぐわーっと泣けてきた!!! やっぱり演歌ってゴッツイすごい!!わずか数行歌っただけで人の心をぐっと捉える。はるみちゃんの熱唱力だ。それにボクは,江戸っ子と道産子のハーフやしなあー気持ちわかるわ。(それにしてもネットでこれが見られるなんて,いい時代になった。)


嗚呼,25年の戦メリ!

2009年12月20日 | 還暦録

たまたま、Webの朝日ニュースに坂本龍一さんの写真がのっていたのでクリックすると,彼の最近の森林を守ろうという趣旨についての記事が載っていた。

坂本さんの名のついた賞を昔いただき、その時お会いした事があるのと、彼とは同じ生まれの辰年ということもあり、彼の名前を聞くとどうしているのかなあ、なんてふと思ったりして、ユウチュウブで戦場のメリ-クリスマスを久しぶりに聞いた。

 彼とお会いしたのがちょうど25年前、それから彼もいろいろあっただろうし,ボクもいろいろあった。そんな25年という歳月を、あたかもこの曲は何もかも知りつつ、肯定も,否定もなく、ただ優しいまなざしを今もなお変わらずに投げかけているように響く。目を外にやると雪がチラついて一瞬の永遠を垣間見た気がした。これは坐骨神経痛がボクの心になせる技であろうか。

 ニコル,ジョナスと一緒に映画”アバター”を見ている時もこの曲が心のどこかで鳴っていたような気がする。


名付けて "拈華荘”(ねんげ・そう)

2009年12月18日 | 還暦録

 西瑞にくる前までは東京に住んでいた。

 ニコルと目黒の安アパートに5年ほど住んだが,それぞれアパートには名前が付いていた。

 最初が丸十荘,今思うとよくあんな日陰のアパートとに住んでいたと思うほど陽あたりの悪い一階の六畳ひと間に一年ぐらい住んだ。そこに今ジュネーブの私立銀行の共同経営者になっているニコルの従兄弟が出張で来日し、フルーツバスケットを持って訪ねて来てくれたが、内心びっくりしたであろうと思うが,さすが,そんな素振りを少しも見せないで何もない我々の究極の侘び,寂び生活を束の間味わってくれた愉快な思い出がある。

 次が彰久荘で文化住宅というやつ、建物の外側に階段がある二階の部屋は4畳と6畳の二間のアパートだった。ここはニコルのお気に入りで、西小山,武蔵小山のアーケード街が近く,銭湯もすぐそばで我々は毎晩通ったが,ニコルなどは銭湯友だちもできて毎晩楽しみににしていた。彰久荘の前にバーデンという喫茶店があってそこのマスターと奥さんと友達になって彼女の第一拠点となった。などなと我々にとって楽しい思い出が沢山ある街。

 考えてみると、ここ西瑞のアパートには名前が付いていない。ただ住所の番号のみ。このアパートに住んで17年目を迎え,タイミング的にも新たな年、2010年を迎えるにもあたってこのアパートに命名することにした。このブログを書かなければそんな気も起きなかっただろうであるから、このブログの名前がら”拈華荘”にした。

 ローザンヌやジュネーブは住宅不足でアパートを見つけるのは至難の技で、ボクらもここを見つけた時,応募者が多く無理かなあ・・と思ったが,思わぬところでコネが効いた。家主がニコルのお父さんの同級生であったのだ。不公平と言えばそうであるが,めったに無いコネクション有り難くて使わせていただいた。ゴメンなすって。

 このアパートに初めて見学に来たとき、5階のテラスからみえるレマン湖の美しさに目を奪われた。


懺悔

2009年12月03日 | 還暦録

 "懺悔"などという言葉はボクの辞書には無いとずーっと思っていたが、それは事実ではない事を最近自分の脳を検証してわかった。

ボクの脳にも過去の様々な出来事がインプットされているようだが、何故か無視されてきた。というかそれに注目する事に興味さえ持たずにこれまで生きてきたと言える。しかし、生きている限りその時その時の人生の問題に対して何だかの決断を下してきたのは、サイコロを振って決めてきたわけではないのだから、やはり自分のこれまでの背景にある経験群を無意識にしろ活用してきたに違いない。
 
 最近は自分の中で自分史にすこしずつ興味を持ち始めてきた。先が見えてきた為か? 自分史は自分思。
 
 その時に”懺悔”がまず来た。自分にもっとも遠いものと思っていた言葉。

 ボクはボクの懺悔の時を迎えるまで、無頓着に残酷だった。幼い頃、僕らの空にはトンボで埋まるか、というくらいトンボが沢山いた
特に家の裏の隣の人の畑はトンボやら蝶々が、近くの小川にはメダカやら蛙なんかが沢山した。それらをボクは随分殺してしまった。
猫が小鳥を遊び殺してしまうようなもの。悪気なんて全然なかった。周りの人達は誰もそれを咎めなかった。どうやって殺したかなんて恥ずかしくていえやしない。しかし、小学校何年生だったか憶えていないが、ボクは直ぐそばにいる雀をバチンコで打ってしまった。
 パチンコを打つ瞬間ボクは確かにためらった事を、今でも憶えているが、ボクは打った。その雀がボクの手の中で震えながら死んでしまった。もの凄く後悔したボクは以来むやみに生き物を殺さなくなった。