今までも「死」ついて書いてきて全く答えは出ません。
当たり前です。体験してないから分かるはずもない
誰かが体験してそれについて話しても自分が体験しない限り真実は見つけれません。
これが外世は幻想といわれることなのです。
でも、私はとても興味があります。
死の直前、死の最中、死後の世界
やって見るのが一番ですが、伝えることができない事と死に対しての恐れと抵抗がその行為を止めいている事からしない方が良いと判断しています。
ですので、思考実験になりますし、死を取り巻く私たち生きている者の解釈を考えていきます。
さて、前書きはこれぐらいにしてプロローグとして、私の死に関する事と周りの死を綴りたいと思います。(過去ログでも書いてある事なので飛ばしてもらっても良いです)
私の死に関する事、もしかして命を落としていたかもしれない事です。
まず始めに零歳児の時です。
私は、腸なのかはハッキリと分かりませんが管が細く、毎回、母乳を飲む度に血混じりで嘔吐していたらしく両親共に非常に心配し病院にーーーーー早速、手術が行われ完治はしましたが零歳児には大変な手術だったとのこと。
2回目は、小学生のころ家族で登山にいき、帰りに坂道を駆け足で降りていたらスピードが付き過ぎ横転、そのまま転げ落ちやっとのことで止まることが出来怪我などはなかったもののあと一歩進んでいたらそのまま転落していた崖であった。
3回目は、社会人のときに仕事帰りに事故に合い車が1回転半ほどし全治2週間ほどのケガ
と、3回死にそうになりました。
3回死にそうと書きましたが、この3回も正確に言えば昏睡状態にはなっておらず意識はある状態でした。(0歳のは自覚がないです)ですので死にかけたというのも間違いかもしれません。
これは、私自身の問題です。
次に、他者の死です。
最初は祖母です。
中学生だった私には衝撃的な出来事で、祖母の死は受け入れがたいものでした。
母親の死
母親の死は非常につらいものでした24歳のことで、仕事やプライベートが忙しく合ってもいなく、最後に交わした言葉が母親の誕生日のメールのみ---------未だに後悔している---------なぜあの時会いに行かなかったのか?---------と....
他にも死に関わる体験をしてきましたが、ここでは割愛させていただきます。
死を明らかにして、自分が死を見定める。
どれだけ考えても、死とはどのようなものか分からない、
【想像】し【解釈】とする。
死には痛みなどないと私は思う、寝るように自我・意識・自覚がなくなり、その人の時が止まる、痛さを感じるのは身体である。死の恐れからくる感情が苦痛を生みだしているのではないだろうか、そして、死を受け入れた人は痛みはあっても苦しみはないのではないと私は思う。
私たちは今まさに生きている。
このことは事実であり、重要なのは生きている「私」だと考えます。そして、他者の死にどのように向き合い積み重ね受け入れるかが重要で、自分の死より明確に経験でき記憶にとどめることができ、そして役に立たせることもできる。
私の見ているblogの一つにこのようなエピソードがあった。
本人の許可を得たので引用させていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「仮にそうだとしても、もうこの年になってなんの手術も治療も受けるつもりはない。俺は自然死したい。」
と言っている、ということについても書きました。
私は以前に友人に聞きかじった情報で母にこう言いました。
「お母さん、自然死ってどういうことか知ってる? 早い話が経口で摂取できなくなったら、一切をあきらめるってことだよ。
だから例えば弱ってきたからといって、積極的にどこが悪いのか調べたり治療したりはしないけれども、これ以上弱らせないように点滴だけはしよう、っていうのもなしってことなんだよ?
せっかく自然に死に向かっているのにそこでいきなり人工的に生きるための施術をほどこされたらそこまでの努力は無に帰するからね。
それ、できる?
ちゃんと往診してくれるお医者さんを見つけておいて、お父さんに万が一のことがあってもそのお医者さんに連絡はするけど救急車は呼ばない、ってことなんだよ。
救急車って、呼んだらその時点から“治療”が始まっちゃうからね。」
と言いました。
すると母は、
「あぁ、わかってるよ。だけど、本人がねぇ・・・
それまでは絶対に点滴も一切してくれるな、って言ってても、いざとなったらやっぱり生に執着が出て注射の1本くらい打ってくれ、って言いだすかもしれないし。 もし、そう言ったときにそれが一時の気の迷いなのか、それともやっぱりそのときに言ったことを優先させてあげるしかないのか、その点は私にはわからないよ。そのときになってみないと。」
と言いました。
うぅ~ん・・・
難しい問題だ。
確かにそれはどこに責任があるのかと言われても軽はずみなことは言えまい。
元気なときには、
「いいか、俺はこういうつもりだからな。万が一のことがあっても救急車なんて呼ぶなよ。」
と言っていても、いざ自然死とはこんなに苦しむときもあるのかというほどの苦痛を味わうことになったとしたら(ないと思うんだけど・・)、もう我慢できんとなり、
「やっぱり救急車呼んでくれ~ 病院に連れて行ってくれ~」
となるのか、それともそう本人が言っても、ここが我慢のしどころ、呼ぶなって言ってたんだから、と家族は呼ばずにおれるのか?
いや、というか、呼ばなくていいのか?
呼ばずに済ませられるものなのか・・?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私はこの文章を読んで、医者に連絡するが救急車を呼ばないことは不可能だと思いました。
それは、医者は人の命を救う義務と意思があり社会的に道徳的に見捨てることはできないと…
そして、私が重要視するのは病気の人に言い分ではなく、本人がどうしてしたいか?相手に対して何をしてあげたいか?だと私は考えます。
死に対しての後悔は必ずします。私もしました、その後悔を如何に少なくするか、その人に対して自分が解釈した最善を尽くせるかであり、ここには相手の解釈や言い分は関与しない。
その上で私たちが相手に対して受け入れることができるかなのだと思います。
私の父も母が亡くなる時、最初は生かしてほしいと医者にお願いしたと思います。
ただ、昏睡状態が続くにつれ「もう、意識が戻らないのなら、色々な装置がついているのはお母さん苦しいから早く取って楽にしてほしい」と医者に言ったらしく、私自身、親父の言い分が良く分かる。
これも、本人の意思など関係ないが、当時の親父の最高で愛にあふれる考えだったと今でも思います。
死についてのことは、とても重要で繊細ではあるが相手の考えを尊重することは大切かもしれませんが、残されたものが受け入れるために自分がどう判断するのが一番大切なことだと私は考えています。
当たり前です。体験してないから分かるはずもない
誰かが体験してそれについて話しても自分が体験しない限り真実は見つけれません。
これが外世は幻想といわれることなのです。
でも、私はとても興味があります。
死の直前、死の最中、死後の世界
やって見るのが一番ですが、伝えることができない事と死に対しての恐れと抵抗がその行為を止めいている事からしない方が良いと判断しています。
ですので、思考実験になりますし、死を取り巻く私たち生きている者の解釈を考えていきます。
さて、前書きはこれぐらいにしてプロローグとして、私の死に関する事と周りの死を綴りたいと思います。(過去ログでも書いてある事なので飛ばしてもらっても良いです)
私の死に関する事、もしかして命を落としていたかもしれない事です。
まず始めに零歳児の時です。
私は、腸なのかはハッキリと分かりませんが管が細く、毎回、母乳を飲む度に血混じりで嘔吐していたらしく両親共に非常に心配し病院にーーーーー早速、手術が行われ完治はしましたが零歳児には大変な手術だったとのこと。
2回目は、小学生のころ家族で登山にいき、帰りに坂道を駆け足で降りていたらスピードが付き過ぎ横転、そのまま転げ落ちやっとのことで止まることが出来怪我などはなかったもののあと一歩進んでいたらそのまま転落していた崖であった。
3回目は、社会人のときに仕事帰りに事故に合い車が1回転半ほどし全治2週間ほどのケガ
と、3回死にそうになりました。
3回死にそうと書きましたが、この3回も正確に言えば昏睡状態にはなっておらず意識はある状態でした。(0歳のは自覚がないです)ですので死にかけたというのも間違いかもしれません。
これは、私自身の問題です。
次に、他者の死です。
最初は祖母です。
中学生だった私には衝撃的な出来事で、祖母の死は受け入れがたいものでした。
母親の死
母親の死は非常につらいものでした24歳のことで、仕事やプライベートが忙しく合ってもいなく、最後に交わした言葉が母親の誕生日のメールのみ---------未だに後悔している---------なぜあの時会いに行かなかったのか?---------と....
他にも死に関わる体験をしてきましたが、ここでは割愛させていただきます。
死を明らかにして、自分が死を見定める。
どれだけ考えても、死とはどのようなものか分からない、
【想像】し【解釈】とする。
死には痛みなどないと私は思う、寝るように自我・意識・自覚がなくなり、その人の時が止まる、痛さを感じるのは身体である。死の恐れからくる感情が苦痛を生みだしているのではないだろうか、そして、死を受け入れた人は痛みはあっても苦しみはないのではないと私は思う。
私たちは今まさに生きている。
このことは事実であり、重要なのは生きている「私」だと考えます。そして、他者の死にどのように向き合い積み重ね受け入れるかが重要で、自分の死より明確に経験でき記憶にとどめることができ、そして役に立たせることもできる。
私の見ているblogの一つにこのようなエピソードがあった。
本人の許可を得たので引用させていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「仮にそうだとしても、もうこの年になってなんの手術も治療も受けるつもりはない。俺は自然死したい。」
と言っている、ということについても書きました。
私は以前に友人に聞きかじった情報で母にこう言いました。
「お母さん、自然死ってどういうことか知ってる? 早い話が経口で摂取できなくなったら、一切をあきらめるってことだよ。
だから例えば弱ってきたからといって、積極的にどこが悪いのか調べたり治療したりはしないけれども、これ以上弱らせないように点滴だけはしよう、っていうのもなしってことなんだよ?
せっかく自然に死に向かっているのにそこでいきなり人工的に生きるための施術をほどこされたらそこまでの努力は無に帰するからね。
それ、できる?
ちゃんと往診してくれるお医者さんを見つけておいて、お父さんに万が一のことがあってもそのお医者さんに連絡はするけど救急車は呼ばない、ってことなんだよ。
救急車って、呼んだらその時点から“治療”が始まっちゃうからね。」
と言いました。
すると母は、
「あぁ、わかってるよ。だけど、本人がねぇ・・・
それまでは絶対に点滴も一切してくれるな、って言ってても、いざとなったらやっぱり生に執着が出て注射の1本くらい打ってくれ、って言いだすかもしれないし。 もし、そう言ったときにそれが一時の気の迷いなのか、それともやっぱりそのときに言ったことを優先させてあげるしかないのか、その点は私にはわからないよ。そのときになってみないと。」
と言いました。
うぅ~ん・・・
難しい問題だ。
確かにそれはどこに責任があるのかと言われても軽はずみなことは言えまい。
元気なときには、
「いいか、俺はこういうつもりだからな。万が一のことがあっても救急車なんて呼ぶなよ。」
と言っていても、いざ自然死とはこんなに苦しむときもあるのかというほどの苦痛を味わうことになったとしたら(ないと思うんだけど・・)、もう我慢できんとなり、
「やっぱり救急車呼んでくれ~ 病院に連れて行ってくれ~」
となるのか、それともそう本人が言っても、ここが我慢のしどころ、呼ぶなって言ってたんだから、と家族は呼ばずにおれるのか?
いや、というか、呼ばなくていいのか?
呼ばずに済ませられるものなのか・・?
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私はこの文章を読んで、医者に連絡するが救急車を呼ばないことは不可能だと思いました。
それは、医者は人の命を救う義務と意思があり社会的に道徳的に見捨てることはできないと…
そして、私が重要視するのは病気の人に言い分ではなく、本人がどうしてしたいか?相手に対して何をしてあげたいか?だと私は考えます。
死に対しての後悔は必ずします。私もしました、その後悔を如何に少なくするか、その人に対して自分が解釈した最善を尽くせるかであり、ここには相手の解釈や言い分は関与しない。
その上で私たちが相手に対して受け入れることができるかなのだと思います。
私の父も母が亡くなる時、最初は生かしてほしいと医者にお願いしたと思います。
ただ、昏睡状態が続くにつれ「もう、意識が戻らないのなら、色々な装置がついているのはお母さん苦しいから早く取って楽にしてほしい」と医者に言ったらしく、私自身、親父の言い分が良く分かる。
これも、本人の意思など関係ないが、当時の親父の最高で愛にあふれる考えだったと今でも思います。
死についてのことは、とても重要で繊細ではあるが相手の考えを尊重することは大切かもしれませんが、残されたものが受け入れるために自分がどう判断するのが一番大切なことだと私は考えています。
取り上げていただき、いろんな方に考えていただく機会をいただきありがとうございます。
あれから父はものの2週間もたたないうちに、自宅療養での点滴をお願いしていました。
はぁ~? あんなに自然死っていってたのに、と思いましたが、父と話していてわかったのは、周りが(この人、いよいよ最期かも・・)と思っていても、父はいっこうにまだ自分では死ぬとは思っておらず、もう1度元気になると思っているのです。
それは”希望”ということではなく、本人の確固たる”予測”という感じで。
だから今回は末期の治療うんぬんのことではないから、点滴をお願いした、というわけですね。
なるほどね~ とまた1人考え込みました。
知り合いに聞くと、その人のところのお父様が亡くなるときもそうだったそうです。
本人はいっこうに死ぬとは思っておらず、また家に帰れると思っていたらしい。
そう考えると一休さんでさえ「わしゃ、まだ死にとうない」と言ったのももっともかな、と思いました。
「死ぬと思っていない」ことはとても良いことですね。
私たちは“私が死ぬなんてあり得ない”と思っているし、恐れを感じそこからどうにかして逃げることを考えるーーーーこれが自我なのです。
だからこそ、死は突然にやってくると感じてしまうのですね。
とにかく、死なないこと、元気で生きていることが大切ですね。