扉への道

泉明 香鈴(せんめい かりん)申します。
香り善き、鈴音(りんね)を拠り所に、「今」を明め「ここ」に在る

死への解釈

2017年07月24日 13時37分42秒 | 気づき
今までも「死」ついて書いてきて全く答えは出ません。


当たり前です。体験してないから分かるはずもない

誰かが体験してそれについて話しても自分が体験しない限り真実は見つけれません。


これが外世は幻想といわれることなのです。



でも、私はとても興味があります。

死の直前、死の最中、死後の世界


やって見るのが一番ですが、伝えることができない事と死に対しての恐れと抵抗がその行為を止めいている事からしない方が良いと判断しています。


ですので、思考実験になりますし、死を取り巻く私たち生きている者の解釈を考えていきます。


さて、前書きはこれぐらいにしてプロローグとして、私の死に関する事と周りの死を綴りたいと思います。(過去ログでも書いてある事なので飛ばしてもらっても良いです)


私の死に関する事、もしかして命を落としていたかもしれない事です。


まず始めに零歳児の時です。

私は、腸なのかはハッキリと分かりませんが管が細く、毎回、母乳を飲む度に血混じりで嘔吐していたらしく両親共に非常に心配し病院にーーーーー早速、手術が行われ完治はしましたが零歳児には大変な手術だったとのこと。


2回目は、小学生のころ家族で登山にいき、帰りに坂道を駆け足で降りていたらスピードが付き過ぎ横転、そのまま転げ落ちやっとのことで止まることが出来怪我などはなかったもののあと一歩進んでいたらそのまま転落していた崖であった。


3回目は、社会人のときに仕事帰りに事故に合い車が1回転半ほどし全治2週間ほどのケガ


と、3回死にそうになりました。



3回死にそうと書きましたが、この3回も正確に言えば昏睡状態にはなっておらず意識はある状態でした。(0歳のは自覚がないです)ですので死にかけたというのも間違いかもしれません。



これは、私自身の問題です。


次に、他者の死です。

最初は祖母です。

中学生だった私には衝撃的な出来事で、祖母の死は受け入れがたいものでした。

母親の死

母親の死は非常につらいものでした24歳のことで、仕事やプライベートが忙しく合ってもいなく、最後に交わした言葉が母親の誕生日のメールのみ---------未だに後悔している---------なぜあの時会いに行かなかったのか?---------と....



他にも死に関わる体験をしてきましたが、ここでは割愛させていただきます。



死を明らかにして、自分が死を見定める。

どれだけ考えても、死とはどのようなものか分からない、


【想像】し【解釈】とする。


死には痛みなどないと私は思う、寝るように自我・意識・自覚がなくなり、その人の時が止まる、痛さを感じるのは身体である。死の恐れからくる感情が苦痛を生みだしているのではないだろうか、そして、死を受け入れた人は痛みはあっても苦しみはないのではないと私は思う。




私たちは今まさに生きている。

このことは事実であり、重要なのは生きている「私」だと考えます。そして、他者の死にどのように向き合い積み重ね受け入れるかが重要で、自分の死より明確に経験でき記憶にとどめることができ、そして役に立たせることもできる。



私の見ているblogの一つにこのようなエピソードがあった。

本人の許可を得たので引用させていただきます。


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「仮にそうだとしても、もうこの年になってなんの手術も治療も受けるつもりはない。俺は自然死したい。」

と言っている、ということについても書きました。

私は以前に友人に聞きかじった情報で母にこう言いました。

「お母さん、自然死ってどういうことか知ってる? 早い話が経口で摂取できなくなったら、一切をあきらめるってことだよ。

だから例えば弱ってきたからといって、積極的にどこが悪いのか調べたり治療したりはしないけれども、これ以上弱らせないように点滴だけはしよう、っていうのもなしってことなんだよ?

せっかく自然に死に向かっているのにそこでいきなり人工的に生きるための施術をほどこされたらそこまでの努力は無に帰するからね。

それ、できる?

ちゃんと往診してくれるお医者さんを見つけておいて、お父さんに万が一のことがあってもそのお医者さんに連絡はするけど救急車は呼ばない、ってことなんだよ。

救急車って、呼んだらその時点から“治療”が始まっちゃうからね。」

と言いました。




すると母は、

「あぁ、わかってるよ。だけど、本人がねぇ・・・

それまでは絶対に点滴も一切してくれるな、って言ってても、いざとなったらやっぱり生に執着が出て注射の1本くらい打ってくれ、って言いだすかもしれないし。 もし、そう言ったときにそれが一時の気の迷いなのか、それともやっぱりそのときに言ったことを優先させてあげるしかないのか、その点は私にはわからないよ。そのときになってみないと。」

と言いました。

うぅ~ん・・・

難しい問題だ。

確かにそれはどこに責任があるのかと言われても軽はずみなことは言えまい。

元気なときには、

「いいか、俺はこういうつもりだからな。万が一のことがあっても救急車なんて呼ぶなよ。」

と言っていても、いざ自然死とはこんなに苦しむときもあるのかというほどの苦痛を味わうことになったとしたら(ないと思うんだけど・・)、もう我慢できんとなり、

「やっぱり救急車呼んでくれ~ 病院に連れて行ってくれ~」

となるのか、それともそう本人が言っても、ここが我慢のしどころ、呼ぶなって言ってたんだから、と家族は呼ばずにおれるのか?

いや、というか、呼ばなくていいのか?

呼ばずに済ませられるものなのか・・?


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私はこの文章を読んで、医者に連絡するが救急車を呼ばないことは不可能だと思いました。

それは、医者は人の命を救う義務と意思があり社会的に道徳的に見捨てることはできないと…


そして、私が重要視するのは病気の人に言い分ではなく、本人がどうしてしたいか?相手に対して何をしてあげたいか?だと私は考えます。


死に対しての後悔は必ずします。私もしました、その後悔を如何に少なくするか、その人に対して自分が解釈した最善を尽くせるかであり、ここには相手の解釈や言い分は関与しない。


その上で私たちが相手に対して受け入れることができるかなのだと思います。


私の父も母が亡くなる時、最初は生かしてほしいと医者にお願いしたと思います。

ただ、昏睡状態が続くにつれ「もう、意識が戻らないのなら、色々な装置がついているのはお母さん苦しいから早く取って楽にしてほしい」と医者に言ったらしく、私自身、親父の言い分が良く分かる。

これも、本人の意思など関係ないが、当時の親父の最高で愛にあふれる考えだったと今でも思います。


死についてのことは、とても重要で繊細ではあるが相手の考えを尊重することは大切かもしれませんが、残されたものが受け入れるために自分がどう判断するのが一番大切なことだと私は考えています。

違い・入り口

2017年07月19日 12時56分31秒 | 気づき
相手の幸せを願うことは、とても簡単で願えば良い。

ただ、相手が幸せなのか否かは相手しか分からないーーーーーーーーー物語は1人ひとりあり、その認識が現実を具現かしている。


知っている通り、外世の幸せと内世の幸せは全く質の違うもので、外世の幸せは幻想。そして、内世の幸せは常に在るのに気づかない。


内世の幸せに気づくことはとても素晴らしく全てが変わるものではあるが、外世とのギャップがありすぎて定着するまで不安定になり、これもまた「苦しみ」を生んでしまう可能性もある


外世と関わる事によって、必ず幸せが幻想に苦しみが隣り合わせにと、私たちにとって本当に良いのかと疑問に思ってしまうほどーーーーーー離れた方が良いのかと勘違いしそうで萎えてしまう。


ただ、苦しみの裏には幸せが感じられ、幻想だが実際に幸せを感じることは事実である。

この積み重ねが自我を柔らかくしゆとりを作り内世の繋がりを容易とする。


外世との関わりがあることによって、幸せを感じる事で内世との入り口にもなるのです。反対に苦しみもまた内世の入り口でもあるのです。

考えなくてもわかります

2017年07月13日 11時14分54秒 | 気づき


外世の生活は、とても苦しく制限が多く時の流れによって弱体を余儀なくされる。


その、囚われた世界で「私」は周りばかりを見てそれが現実だと思い込む実際の出来事の本質を思考するのではなく勝手な解釈と勝手な物差しで計り、周りが自分と捉え「本当の自分」を忘れてしまう。


365日休まず仕事をしているA君とB君がいるとしよう-------------------------------勿論同じ仕事である。


周りから見れば、両方とも同じで、心配もするだろうし助言もするだろう。


A君は「休みが取れないんだよ」「やるしかない状況だから仕方ない」「誰も助けてくれない」


などを想いながら仕事をしてる。


反対にB君は、「めっちゃ楽しい」「ワクワクすんぞっ!!」「これをこうして・・・・・( ̄ー ̄)ニヤリ」


両者ともに、勿論、休みがほしいと思っている。


そして、休みが取れるようになったが、ここで両者の反応が違うわけである。


B君は、休みの中でも仕事のことを考えワクワクしているがA君は「どうせ、休み明けは仕事が多くあって…はぁ~」と萎えるだろう。


なぜ、ここまで違うのかは一目瞭然である。


両者の在り方が、周りにあるか、自分にあるかだけの問題である------------------------感情、解釈、時間、思考の全てが違うだけで同じ出来事でも変化してしまう。


ただ、誤解してほしくないのですが、



365日仕事ができるように考え方を変えなさい。


考え方を変えれば、解釈を変えれば今の環境が変わる



と言っているわけではなりません。



会社に勤めている限り、社会に属している限り、外世にいる限り、すべて囚われコミュニケーションのツールは唯一「言葉」「文章」しかない中で自分の主張は言わなければ伝わらないのである。


休みがほしいのであればA君もB君も同じで、言わなければわからないのである。





「観測して初めて現実になる」からなのです。




自分にとって、役に立るもの----------------------------苦が減らせるものは、A君の状態なのか?それともB君の状態なのか?



考えなくても分かると思います。





お前、今までも今もこれからも本当は幸せって知ってるでしょ。

2017年07月11日 12時31分07秒 | 気づき
第二章の書き始めには、いささか仰々しいですがお付き合いお願いします。







と、ハードルを上げていますが、やはり書くことは同じだと思います。

お伝えすることが理解できないときは何なりとコメントをください、それが私にとっての学びにもなります。






さて、本題に入ります。



私はこのblogを書き続けていますが、何周期で書かなくなります。

理由は、色々ありますが大きく占めているのが内世とのつながりを意識することなくつながった状態で外世の生活を送れるか?もしくは内世なして生活できるのでは?の体験及び学びと今までの内世の繋がりを活用してどこまで生活できるかを見てみたい好奇心が始まりで、周期で試したくなるわけです。



今回の切っ掛けは本業が忙しくなり休みが取れない状態が続き余裕がなくなったことが始まりです。


初めのころは繋がっている=詰まっていない訳なので生活に支障はなかったのですが、休みが取れない状態が続くにつれて心身共に状態が変わってきたのです。

身体は疲れにより、至る所が痛くなり毒素を抱えているところは腫れたりと大変で精神も自我が大きく膨れ上がり暴走を始めようとしていました。




身体に関しては時間を見つけ病院に行き落ち着いを取り戻してホッとしているのですが、自我暴走はやっぱり厄介でした。


今の状態を他人に伝えることなく、言わない選択をし言わない決定を自分でしながら、



私がつらい目にあっているのに、なぜ気づかない?


周りは何もしてくれない。


と愚痴を言って余計に囚われていきました。



唯一の救いは内世の繋がりがあったため自我の暴走をすくなからす抑えることができたことですが、これもパイプのつまりが多くなれば薄れてしまう。


そのことも理解していました。



丁度、休みなしで3カ月(実際は1度だけ休みがあり)が経ったころに「大いなる存在」が助けてくれ、気づかせてくれました。



「そろそろ、言いなさい」



そこで、決定を変えたのです。



勿論、囚われていることには変わりなく、状態の変化はあったにせよ、実際の生活環境が劇的に変わったわけではなく、明日になれば自我が暴走知るかもしてないのです。



本業は私にとって楽しく面白い仕事ではある。

ただ、思い出したことがあるのです。



「私たち人間は自由であるが故、やらされることを嫌う」


「私たち人間は自由であるが故、自分からやることを好む」



今の私の状態は前者であり、会社の枠組みから逃れることができず、やらされている状態-------------------------------これは、会社に勤めている全ての人に共通すると思う。



好きでも嫌で、見返りを求め、契約を交わす。

外世では当たり前の事である。


では、後者はというと、これは経営者や自営業・自分でクリエイトする人たちである。



両者に休みがない状態でも、自分の外世でのポジションで解釈が変わってくるのです。

このすべてをゆるぎない真実であり、自分を変えることでしか環境を変えることができない。


これば私の今の状態である。



ここから、どのように変化していくのか?変化させていくのか?私には分からないが変化の分岐点はしっかり把握したので今後が楽しみではある。


私は、あえて今の環境から離れることはないだろう。

これが私の決定である。


今の状態で自分の変化は周りにどのような影響を与えるのか?


自分にどのような影響を与えるのか?


外世の幸せは今の状態で感じることができるか?



を確かめてみたいわけです。







「長ったらしく、今までのことを書き、私こんなことがあったのです。

全然、幸せじゃないのです、って書いているくせに・・・お前、今までも今もこれからも本当は幸せって知ってるでしょ。」

徐々に、取り戻す動き

2017年07月09日 08時54分37秒 | 気づき
おはようございます。

そろそろ、取り戻す仕事をするときが来たと私は思う。


外世での縛りは今でも続いている中で内世との繋がりが重要な事に深く気づくことが出来るか?

今までの気づきは幻想だったのか?


blogに書いたことは幻想だったのか?


役に立つことだったのか?



実際どうなのかをそろそろ感じ、考えた、使う事が必要になってくる。




で、気づいたことの一つ






【我々はどれだけ内世に繋がっても囚われの身である】






このblogの第二章になればと私は思う。