“やりたいこと”があるのに、それがやれない。
なぜだと思う?
やりたいことなのに、やらないように言い訳をしているからーーーー本当に、ただの言い訳であり、やらないを決めているだけである。
ただ、思考は全てが自我の一部であるし、大いなる存在の一部でもある。
どちらかの流れなのかを認識することが、重要であり行動に移したときにスムーズ度合いが変わってくる。
自我や思考は敵ではない。分かりやすく書けばシステムの一部ーーーーーーだからこそ、このシステムを使えるようにすることが、未来の可能性を広げることであり、「今ここ」を認識出来るのです。
「今ここ」を認識すれば、やりたいことのスタートを切ることが容易に出来ると私は考えています。
自分のことを疑わない事。
自分のことを信頼する事。
自分のことを愛する事。
自分は幸せである事。
そして、分かち合う事が、“やりたいこと”を可能にするのです。
自我に操られ、囚われている。
そして、その自我が強固になればなるほど、全てが盲目となる。
その自我は周りを受け付けようとぜず、私が正しと思い込む。
それを気づかせようとするが、受け入れることもなく、自分が無くなる事を嫌い反発する。
その反発が苦しみを生むことも気づかずに・・・・・
この囚われの人達を見ていると、とても悲しくなる。
なぜ?そこまで囚われているのか?
助言的なことを話しても受け入れの態勢ではないので、無理とは分かっている。
何とか、考えても私にはどうすることもできない。
強制的に変えるとその反動も大きいからである。
与え、見守るだけしかできない。
相手が受け入れる体勢が整えば、変わるであろう。
それを見守るのはとても、苦しい。
私は気づいている。
私の苦しみは気づきの前兆であり、自我との共存である。
だから、私は私の苦しみを受け入れる。
とても、外世の人との関係が遠退いてしまうが・・・・・
とても、活きづらいーーーーこれも私の自我の叫びである。
そして、その自我が強固になればなるほど、全てが盲目となる。
その自我は周りを受け付けようとぜず、私が正しと思い込む。
それを気づかせようとするが、受け入れることもなく、自分が無くなる事を嫌い反発する。
その反発が苦しみを生むことも気づかずに・・・・・
この囚われの人達を見ていると、とても悲しくなる。
なぜ?そこまで囚われているのか?
助言的なことを話しても受け入れの態勢ではないので、無理とは分かっている。
何とか、考えても私にはどうすることもできない。
強制的に変えるとその反動も大きいからである。
与え、見守るだけしかできない。
相手が受け入れる体勢が整えば、変わるであろう。
それを見守るのはとても、苦しい。
私は気づいている。
私の苦しみは気づきの前兆であり、自我との共存である。
だから、私は私の苦しみを受け入れる。
とても、外世の人との関係が遠退いてしまうが・・・・・
とても、活きづらいーーーーこれも私の自我の叫びである。