扉への道

泉明 香鈴(せんめい かりん)申します。
香り善き、鈴音(りんね)を拠り所に、「今」を明め「ここ」に在る

産まれること、生まれること、死ぬこと、亡くなること、

2016年03月31日 12時56分29秒 | 気づき
「はじめ・・・」にを読んでもらえる とうれしいです。

そして、深く「気づき」を体験したもの合わせて読んでもらえるとうれしいです。 「人生のシステム」
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最近、私の叔母さんが亡くなり父親の血の繋がりが私たち子供だけに、親からすれば子供は子供であり子供に対する接し方がある訳で姉や嫁とは違うと思う。

本人はとうとう俺、ひとりになってしまったとボソリ

話をわかってくれる人はやはり人生の支えになる訳でひとりで歩くのはイバラ過ぎると思うが、父もいい歳であるので自分でも分かってはいるみたい。


葬儀を終えふと考えてみた。


産まれること、生まれること、死ぬこと、亡くなること、


精神世界では「うま」れないし「し」なない
私も経験は出来ないから理解は出来ないが分かっているし、産まれれば動くが死ぬと止まることも事実であるの。


考えた事は、死んだ後に残った肉体は何か?と言うことであるの。

産まれたときは母親の細胞と父親の細胞が化学反応を起こし分裂を繰り返し形成されているし見たときは動いている。


動かなくなった肉体は言わば動かなくなった車のようだったが、感情的にはそんな冷たい事は思えない訳だが思ってしまった自分もいる。




死んだ本人は悲しまない。

残った私たちが悲しんでいる。

悲しんでいる人見てつられた部分もあるがこれは冷めている訳でもなく、元に還ったと思ったので叔母さんを見ても還ったんだと認識した。

確かに感情と過去の思い出が悲しさを出し泣けてきたがこれもまた仕方ないとこである。



今、書いてて、ふと思った。







亡くなった人に触れてない。




なぜだろう?



お婆ちゃん、母親、叔母さん


血の繋がりがある人ばかりなのにどうして遺体に触れなかったのだろう?分からないままにしておこう。


産まれること、死ぬことの感覚はなってみないと分からないし伝えることのできないこと。
言わば、独り占め出来る事柄であるので、とりあえず、死ぬときの楽しみとして取っておこう



色々な葬式を経験して唯一分かったことが、人間は生きている時しか無いってこと。
相手が死んでしまっては伝えることもできない。後悔するぐらい、後悔で涙を流すぐらいなら、生きている時に伝える事をお勧めする。

いつかはお互い死んでしまう訳だから。



出来れば苦労無いけどね。




皆様が、常に「いま」に在りますように

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