お天気も良かったので、近所の天神山へ夫と二人で散歩に出かけた。
さくら色にけむる美しい景色を十分楽しんでから、少し足を伸ばして遠くの洋菓子店までスイーツを買いに行ってから帰宅した。
まだその余韻も冷めやらないうちに、玄関のチャイムが鳴った。
インターホンに出てみると、モニターには年配の女性二人が映っていた。要件を聞くと、駐車場で来客用の駐車場に停めようとして我が家の車にぶつけてしまったと言う。
夫は丁度電話中だった為、とにかく私が駐車場に行って確認することにした。
几帳面な夫はいつも駐車場のラインにキッチリ沿って真っ直ぐ車を停めているのだが、ぶつけられた衝撃で車は大きく斜めにズレていた。損傷した箇所は運転席側の後輪の直ぐ側で、無惨な凹みはその衝撃の大きさを表していた。
運転していたのはかなり高齢の女性で、この状況から見て、ブレーキとアクセルを踏み間違えた様だった。
すぐに夫に伝えなければと、二人の女性に夫を呼んでくる旨伝え、部屋にとって返した。家のドアを開けると、丁度夫が出てきたところで、車がぶつけられた事を伝えると、「いやー…」と言うなり夫は頭を抱え込んでしまった。夫にとっては相当ショックな出来事だ。
2年前、「人生最後の車」として吟味して買った新車だ。大切に大切に今日まで愛情を込めて扱ってきた、その愛車が傷つけられたのだ。
駐車場で被害者である夫と、加害側の女性との間で話が交わされ始め、女性が警察へと電話を入れた。
車に対して私は移動手段としての「道具」という認識しかなかったので、凹んだ車をこの目で見ても、「ああ、ホントだ。凹んでる」と言う感想しか無かったのだが、夫は車に傷を付けられたことが悔しく、納得が行かない気持ちが強かった。自身には全く落ち度のないもらい事故。夫にとっては正に青天の霹靂。まさか駐車場でこんな物損事故が起こるなんて、予想だにしない。
警察官も到着し、冷静に話し合いは進められ、修理は先方の保険で賄われることになったが、夫の気持ちはずっと収まらなかった。
当日、翌日、翌々日と3日間に渡って悔やみごとを繰り返していた。聞いている私も辛くなってくるほどだったが、とうとう「修理が終わって見た目が同じでも、事故車になってしまって、これまでのように大切に思う事も、愛着もわかなくなってしまう」と言った。
私はその言葉を聞いて、とてもショックを受けた。何故か、我が家の「傷付いた車」と「年老いた自分」が一瞬ふと重なった。そう感じて初めて我が家の車がすごく可哀想に感じられた。他人に傷付けられた上、夫の愛が消えてしまうなんて。
道具としてしか見ていなかった我が家の車に、私は初めて感情移入した。
車の修理はディーラーに頼んだのだが、6月末までかかるという。
それで色違いの同じ型の代車が用意された。我が家の車には装備されていないカーナビやバックモニターが付いているのだが、それが快適だと夫がたいそう気に入っている様子だ。
はためで見ていると、傷付いた“あのコ”を忘れて“新しいコ”に惹かれ始めている…車を擬人化して、私はそんな妄想が湧き、何だか2台の車が夫の新旧の彼女みたいに思えてきた。
私は傷付いた彼女が修理を終え帰還するのを心待ちにしている。ちゃんと治って、動けるかな?夫の愛が無くなっても、私が待ってるよと伝えたい、そんな気分になった。
今回の件で救いは、ぶつけた方がちゃんと申し出てくれた事、そして保険に加入されていた事。これが当て逃げで、怒りの矛先を向けるべき相手も分からなければ、夫のショックは倍増、いやそれ以上かも知れなかった。
夫はこれを契機にドライブレコーダーを取り付けることを決心したようだ。
また事故車両ということで当然査定は下がるが、修理後問題が無ければ夫は後10年程度は乗ると言う。10年後の査定…下がったとして、例えば30万円から5万円に下がったとして25万円の損失。まあ、残念だけど、この先10年の間にまた何があるかは誰も分からない。「神のみぞ知る」だ。
それより、もはや事故車になったことで、これからは「車体に小さな傷が付いていないか」と夫がピリピリすることが無くなるのは良かったような気もする。
最近多い高齢者のブレーキとアクセルの踏み間違い。こんな形で我が家が体験するとは夢にも思わなかった。
“車のボディー”と“夫のハート”は傷付いたけれど、誰も怪我をしなかったのは、不幸中の幸いであったと心から思う。