これまでは、息子が居ようが居まいが、ノーメイクで、娘や息子のお下がり(いやこの場合お上がりだろうか)の少々くたびれたTシャツを着ていた。家族の前では、格好をつける事もなく、寝癖のままで過ごすことも多かった。
そんなある日、私がパジャマ代わりの作務衣を着て耳元の髪をかきあげたら、横に座っていた息子がそれを見て「北大路欣也みたいだ」と言った。
セルフカットの短髪にもみあげの白髪が目立ったみたいだ。作務衣の効果?もあって、余計に男性の北大路欣也さんを連想させたようだ。
それにしても、欣也さんって…。
お婆ちゃん寄りのオバサンの私だけど、女性として家族の前でも、もう少しちゃんとしようかなと考えるきっかけにもなった。
特にコロナ以降、人と会うことも激減し、おしゃれにも縁遠くなっている。
人と会い“周囲の目”があってこそ、良くも悪くも自分を取り繕うものだ。その“目”が夫のものだけだと、お互い“空気のような存在”には、飾らないありのままの自分をさらけ出しがちだ。最低限、親しき仲にも礼儀ありだけれど。
一緒に暮らしていない子供たちには、会わずに暮らし経過する日々の中で、刻々と老化していく親の姿は心配のタネとなるだろう。若く美しかった(嘘)母親が、老いさらばえていくのは悲しいことに違いない。
老いるとキチンとしないと見苦しくなっていくばかりだ。ふと、往年の女優沢村貞子さんの事を思い出した。
かつて沢村貞子さんの献立日記が評判となっていた頃、彼女の本を何冊か読んだ。
チャキチャキの江戸っ子の沢村貞子さんは、人生の先輩としても見習うことが多かった。きっちりと着付けられた粋な着物姿に、髪もきれいに結いあげキリリとした姿にカッコ良さを感じていた。
著書の中に、朝起き抜けに鏡に映った自分の姿にショックを受けたというようなことが書かれていた。あの白い髪を振り乱した老婆は誰?と。その数行を読んで、まだ若かった私も少なからずショックを受けた。だから未だに覚えているのだ。女性なら皆そう感じる日が必ずやって来る。その彼女の思いは、何れ自分にも起こる。いや、もうそれに近い感覚は、味わっているかも。ちゃんと身ぎれいにしなきゃと思う。
化粧をするといったところで、アイシャドウも口紅も塗っていないのだから、息子には化粧をしていることすら、気づかれてはいないと思う。顔色を良くするためのファンデーション程度の化粧だから。それでも、顔色が良くなるのは健康的に見えるだろうし、それだけで自分の気分も顔色と同様に少しアップするというものだ。
身綺麗に、それに加えて、部屋もきれいにしておかないと。
部屋の有り様も、あまりにも乱れていたら、これまた子供たちの心配につながるのだから。それがなかなか片付かない。
積まれた書物と散らかった数々のメモ。
目下の悩み。いや、片付けは私にとって永遠の課題だ。