ニュースなどでこれまで見る限り、東京や大阪の人々の真夏のマスク着用は、かなり大変なことであろうと想像される。
東京や大阪の暑さを私は体験したことが無いのだが、高校生の時、修学旅行で訪れた京都の暑さには、本当に参った。北海道仕様の体が、内陸の蒸し暑さに対応できずに苦しかった。
最近は北海道でも東京より気温が高いことがたまにあるけれど、北海道は湿度が低い分、爽やかな暑さだ。
働いていた時は、会社でもマスクはずっと着用していたが、クーラーの効いた快適な環境だったので、苦にはならなかった。真夏でも朝と夕の通勤時は気温が低めだったから、暑さはさほど気にならなかった。
アメリカでは昨年まだコロナ感染者数が多い段階で、一部の人々が「マスクを外す権利を認めろ」とデモを起こしていたことがあった。
これをテレビのニュースで見て、「ちょっと何言ってるかわからない」と、お笑い芸人サンドウィッチマンの富澤さんのセリフを言いたくなったのは私だけだろうか。感染予防対策である「マスク着用」を、どうとらえたらあんな行動にでられるのか不思議だった。
現在では、欧米諸国の多くがマスクの着用義務が無くなっているようだが。
マスクを付け始めた当初は私も確かに内心、「いつになったら外せるんだろうか」と、常に顔についているマスクを煩わしく思っていたけれど、最近は「出かけるときは忘れずに」とどこかのCMで聞いたようなフレーズを合言葉に習慣化し、不快な感じも薄れた。
冬場などは顔がマスクのおかげで温かく、防寒効果でむしろ快適だった。
先日、ため込んだ未読の新聞を一気読みしていた時に、『すっかりマスクに慣れ、もはや人前でははずせ無いとして、マスクのことを「顔パンツ」と呼ぶ人々が現れた』という記事を読み、爆笑した。
私もかねがねマスクが下着のようになりつつあるなとは感じていたが、ダイレクトにパンツとは。
以前コンビニ強盗が立て続けに起きた時期があって、帽子(キャップ)とマスクをつけていれば「すわ、コンビニ強盗か?」と勘ぐられた時期もあったくらいだが、今の季節、帽子とマスク姿はすっかり当たり前の風景となっている。
私はつば広の帽子を使っているが、最近いつも会う同じマンションの住人とマンション前でお会いしたので挨拶したのだが、先方は私だとわからなかったようだ。
その体験から、このマスク&帽子スタイルが元々悪いことをしようと企む人が考えたように、自分が誰であるか悟られない匿名性を確保するものであるということが実感された。それが妙に心地良く、もはや「マスクはずしていいよ」と言われても、はずしたくないような心境にまでなってきた。
振り返れば、小学6年生の時前髪を長くしていたのは、髪の毛で自分の顔を出来るだけ隠したかったからだ。
現在はその時の前髪が、マスクに置き換わったような感じだ。
テレビ番組の「家ついて行っていいですか」でも、コロナ感染症が流行る前の過去の放送に、風邪でもないのに一年中マスクがはずせ無い若い男性が出ていた。彼はクラスメートだったか誰かに心無い言葉をかけられ、自分の顔に自信を失いマスクで隠すようになったということだった。
私も外見的にも内面にも、劣等感のようなものを持っているので、顔を隠す為のマスクを肯定的にとらえるフシがある。
マスクはmask、もともと仮面という意味だし、「仮面を被る」という言葉には何かしら隠すことに通じている。
世界的に見て、繊細でシャイで神経質な日本人が、「マスクを着用しなくて良い日常」がやってきたとしても、全体の数%の人はマスクをつけ続けていくことになるのではないだろうか。
色々な意味で、私も“顔パンツ”はなかなか脱げないかも知れないなあ。
スーパーコンピューター富岳の飛沫感染のシミュレーションを見て以来、言ってしまえば様々な口内の菌を含むツバキがどれだけ飛び散るかということを可視化してくれたのはありがたかったが、同時に驚異であり、さらに脅威でもあった。
これまで食べてきたバイキングの皿の上、パン屋さんのトレーに並んだパンの上などなど、絶対降り注いでいたでしょう…。
スパコン富岳のシミュレーションを見るまでもなく、中学時代は教室の最前列で、先生の熱のこもった授業で、雨粒のような飛沫が実際私の頬を濡らしたこともあった。うわっ!思い出しただけでも嫌な感じ。
そんな私の様な被害者を今後出さないためにも、学校の先生にはマスク着用は必須。永遠に。