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仏教思想概要4:《唯識》(第4回)

2023-07-30 07:54:18 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第4回目です。
 前回までで唯識思想の歴史と思想背景をみてきましたが、本日より「第2章 唯識思想の中核」として、唯識思想の本論に入り、今回は「実在論と唯識思想」について取り上げます。

 

第2章 唯識思想の中核

1.実在論と唯識思想

1.1. 外界実在論批判
 前項にて、唯識哲学における考察の主題が「アーラヤ識」と「三種の存在形態」であることを明らかにしましたが、アーラヤ識を論ずるに先立って、まず「外界実在論」に対する唯識派の批判について語る必要があります。
 唯識説とは、表象は潜在的な経験の余力(①アーラヤ識)が現勢的になったときにあらわれるのであって、外界の対象の認識によって形成されるのではない(②外界実在論批判)という説のこと。それは経験的認識が「業」であることを明らかにし、経験的認識の地平を超えた絶対知を見いだすべきことを強調する学説です。(下表13参照)


 ここでは、『唯識二十論』及び『認識と対象の考察』の二著の内容に沿いながら、以下、唯識派の認識論の性格を明らかにしていきます。

1.1.1. 四種の疑問と唯識哲学
 『唯識二十論』のはじめにヴァスバンドゥは、「勝利者の子(仏陀の弟子)たちよ、実に、この三界は心のみのものである」(『華厳経』十地品)を引用して、この世のすべてのものは、眼病者の幻覚にあらわれる網状の毛のように実在せず、ただ表象としてあるにすぎない、という唯識思想を闡明(せんめい)にしています。これに対して、反論者からの四種の疑問が提起されています。(表14)


 これらの疑問について、ヴァスバンドゥは各々答論していますが、まとめてみると以下の趣旨となります。
 「唯識哲学は経験的認識の夢からさめること、超世間的な知識を得ることを根本的な課題としている。経験的認識がすべての人に共通しているということは、その認識が正しいことを意味しない。過去世における同質の業により、みな同じ夢を見ているにすぎない。
 経験的認識の普遍的妥当性を根本的事実として、その成立根拠を問うことは唯識思想家たちの意図ではなかった」

1.1.2. 三種の外界実在論とヴァスバンドゥの批判
 ヴァスバンドゥは、『唯識二十論』で、認識の対象が外界に実在するとする学説を三種に分類し、それぞれについて以下のように批判しています。(表15)



 特に、「全体」を仮象とみなす経量部の理論批判が背景にあったとみられます。
 また、「実体は存在しない」とする原始仏教以来一貫した仏教の立場においても、以下のように説いています。
 「語の表わすものは実在ではなく、語は単に日常的慣行のためにつくられた記号である。「牛」とか「人間」とかいう語であらわすものは、諸要素が仮に集まったものにすぎず、そのもの自体としての存在性をもつものではない。人間存在を五種の物理的・心理的諸要素の集合体(五蘊)としてとらえ、それ以外に人間としての実体を認めない。諸要素の集合体は一瞬ごとにその様相を変えつつ、一つの流れを形成する。」と。
 以下、本論では、各学派の実在論が続きますが、概要では省略します。ご興味のある方は本文をお読みください。

1.1.3.経量部の立場とディグナーガの実在論批判
(1)経量部の立場
 経量部は、ヴァイシェーシカ学派や説一切有部の実在論と、唯識学派のそれとの中間的な立場をとっており、その説は以下のように整理できます。(表16)


 ディグナーガは『取因仮説論(しゅいんけせつろん)』にて経量部の3つの仮象の概念を取り上げて以下のように説明しています。(表17)

(2) ディグナーガの実在論批判
 ディグナーガもその論著『認識の対象の考察』で、外界実在論を、「認識の対象とする二条件」を挙げ批判しています。認識の対象は以下の二条件を満たすものでなければならないとしているのです。(二条件と有部、経量部説の評価・批判 下表18)

1.2. 表象主義的認識論

1.2.1.知識の内部にある二契機
(1)何が認識の対象か?-灯火の事例-
 ヴァスバンドゥ、ディグナーガによって、外界実在論はことごとく否認されました。それでは、何が認識の対象と認められるべきでしょうか。
 それは、知識の中にある形象にほかならない、という唯識説がここで示されます。ディグナーガは、『認識の対象の考察』で次のように説いています。
 「知識の内部に認識されるものの形があたかも外界のもののようにあらわれるが、その形が認識の対象である」と。
 認識の対象は外界にあるのではなく知識の内部にある形象であるということは、知識が知識自体を認識するということにほかならないのです。知識は自己認識を本質とするというのが、唯識派の基本学説の一つなのです。

(灯火の事例)
 灯火は対象を照らすと同時に灯火自身を照らすことによって、対象が灯火によって照らし出されたことを明らかにする。
→対象が認識されるということは、われわれの知識の中に知識によって照らし出された対象と、その対象を照らし出す知識という「二つの契機」が同時にあることを意味する。

(2)ディグナーガの著書の事例
 ディグナーガは彼の著書『知識論集成』第一章(知覚章)において、知識内部の二つの契機について説いています。その一部を以下に示します。
①「きのう彼を見た」ということを想起する知識は、きのう生じた彼を対象とする知識を対象としている。知識の内部に二つの契機がないと、「彼」という知識と、「きのう彼を見た」という知識は区分されないことになる。
②想起は必ず過去に経験したものについておこる。過去に見たこともない動物を想起することはありえない。「きのう見た彼」を想起するだけでなく、「きのう彼を見たこと」も想起する。つまり想起するのは、「対象だけでなく」、「対象の知識」も想起する。このことは、対象の知識がきのう経験されたこと、換言すれば、「見られた対象」と「それを見るものとその内部に含む知識」がきのう発生したことを意味している。

1.2.2.ディグナーガの論理に対する二つの疑問
(1)知識の原因に対する疑問
 ディグナーガのあげた認識の対象の二条件は、①認識を生起させる原因であること、②表象と同一の形象をもつこと、でした。
 この二条件について、②の知識内部にある対象の形象はこれを満たすことは明らかだが、①については、知識と同時に発生するものがどうして知識の原因となりうるのかとの疑問が呈されたのでした。
 この①の疑問に対して、ディグナーガは以下の二つの答えをしています。(表19)

(2) 認識器官についての疑問
 もう一つの疑問は、外界に物質的存在がなければ、視覚器官も認識を生ずる作用をなしえないのではというもので、これに対して、ディグナーガは次のように答えています。
 「認識器官とはその本質は能力である。すなわちそれ自体は知覚しうるものではなく、その作用の結果である認識という事実から、それをひきおこす能力として推測される。その能力が、知識それ自体の中にあると想定すれば、外界の存在を要請する必要がないわけである。」と。

(3)二つの疑問のまとめ
 以上、提起された疑問に答えながらディグナーガは、知識の内部に、一方には対象の形象があり、一方にはそれを知る能力があることを論証しました。外界の対象は存在しなくとも、その両者の交互作用によって、無限の過去から知識は瞬間ごとに生滅しながら流れを形成している、というのがディグナーガの結論なのです。

1.2.3. 「識の変化」へ
(1)有形象知識論と無形象知識論
 知識はそれ自体の中に対象の形象をもつという見解は、「有形象知識論」と言われ、これは「無形象知識論」に対する呼称です。両者の説を整理すると以下のようになります。(表20)

 無形象知識論の弱点は、個々の知識の特殊性を説明しえない点にあります。対象の形象をもたない知識は、純然たる知る作用としてすべて同一であり、青の知覚・黄の知覚などの区分が出来ないことになります。

(2)「識の変化」の検討
 唯識哲学の主題は外界の対象がなくても認識が成り立つことを論証することにあったわけではありません。それは、「経験的認識の全体を夢として、その夢から覚醒する超世間的認識を得ること」が課せられた根本問題であったのです。この問題への立場で、唯識派は、「有形象唯識派」と「無形象唯識派」に分派したのです。(上表20参照)
 「識」を超える世界を見いだすためには、「識の変化」の概念の検討へと進む必要があります。(次項にて「識の変化」を取り上げます。)

 

 本日はここまでです。次回は「識の変化」を取り上げます。