SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要9:《空海》(第1回)

(神代植物公園の梅園にて     2月8日にて)

 

 仏教思想概要9《空海》の第1回目のご紹介です。
 仏教思想概要も「インド編」「中国編」を終え、本日より日本編に入ります。
 日本編は「空海」「親鸞」「道元」「日蓮」の4人の聖人より構成されています。
 そして、本日より、最澄とともに、平安仏教の大成者である「空海」を取り上げます。

 今回は、序章として全体概要をまずご紹介します。この後、7回程度に分けてご紹介の予定です。どうぞよろしくお付き合いください。

 

序章 全体概要

 空海と言えば「真言密教」の大成者と言っていいのかと思います。
 空海は三十一歳で入唐、当時の中国の密教教祖「恵果」より密教教義を学び日本に持ち帰り、真言密教として大成します。
 さて、その密教ですが、空海はこの密教という言葉を一般的な仏教(密教以外の全ての仏教。これを空海は「顕教(けんぎょう)」と呼ぶ。)との対比で、宗教的な体験の極意の仏教、「秘密の仏教」と呼んでいます。
 では、密教は顕教と何が違うのでしょうか。その最も大きな違いは、顕教が「お釈迦様」の教えをもとにしたものであるのに対して、密教では「大日如来」の教えをもとにしたものである点です。
 これまで仏教はお釈迦さまが開祖者と思っていたのですが、ここではビックリの思想の大転換が起こっているわけです。
 それでは、大日如来が説く仏教とは何か、ということになるわけですが、ここからはかなり難しい話になりますが、その教えを一般大衆のために「密教の言葉」として表したものが、密教を特徴づける「曼荼羅」ということになります。
 「曼荼羅」というと、一般的には仏や菩薩など仏尊が集合した絵図「曼荼羅図」ということになります。曼荼羅世界には「胎蔵曼陀羅」と「金剛界曼荼羅」の二つの世界があり、この二つで、密教の世界を教えています。
 仏教はお釈迦様が創造した思想・宗教ですが、不思議なことに多くの「仏様」が登場します。
 それでは、お釈迦様と仏様はどう違うのでしょうか?
 この多くの仏様は大乗仏教になって登場してきます。小乗仏教では仏は釈迦一人でしたが、大乗仏教では、釈迦はさとりをひらいて仏になったが、仏は一人ではなく、過去にもいたのではないか、という訳です。
 こうして出来上がった仏は歴史上の実在の仏=釈迦から離れて、我々のようには身体をもたず、色も形も目に見えない永遠不滅の真理そのものとしての仏として形而上学的(理念的)に創造されます。
 これを仏教用語では「法身仏(ほっしんぶつ)」と呼びます。
 つまり、お釈迦様は、この法身仏がこの世に姿を現したもの(これを「応身仏(おうじんぶつ)」と呼ぶ)という訳です。

 そこで、やっと本題に入りますが、密教以外の顕教(けんぎょう)では、あくまで法身仏=釈迦だったのですが、密教になると、法身仏=大日如来となって、お釈迦様はその主役の座を追われてしまうことになるわけです。つまりこの点が密教の最大の特徴と言えます。

 こうして、密教では永遠不滅の無限の大宇宙の真理を体現した「大日如来」中心の仏教が展開されることになった訳です。
 とはいえ、全ての仏教真理を大日如来一人で広めるのは大変と、それぞれの役目を持った仏や菩薩など多くの仏尊が大日如来の代役として(これを仏教では「化身」と呼びます)登場します。(密教では、釈迦もその一人にすぎないことになります。)
 空海は入唐時、密教以外の当時の唐で流布されていた多くの思想・宗教の勉強も同時に行い、単に仏教に限らず多くの思想を取り入れて真言密教を集大成したと言われており、これらの仏尊にも、仏教以外の神が取り入れられています。
 つまりは、多くの仏尊は大日如来の一部であり、多くの仏尊を集約すれば大日如来となるという訳です。
 この大日如来と多くの仏尊の関係を目で見て分かりやすく表したのが、「曼荼羅図」という訳です。
 曼荼羅図のうち「胎蔵曼荼羅」における胎蔵は母胎を意味します。大宇宙(生きとし生けるものあらゆるもの全てという意味)の絶対者(大日如来)の理性をつまりは慈悲を表していると言われています。やがて、この理性、慈悲は知恵となって現れますが、その世界を表したものが「金剛界曼荼羅」ということです。そして、この金剛界曼荼羅の知恵は逆に慈悲となって現れ、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅は相互に一体となって、理(理性)と智(知恵)は不可分(「理智不二(りちふに)」の真言密教、大日如来の世界が成立しています。

 密教の法身仏(ほっしんぶつ)が大日如来であること、そしてその世界を絵図で表現した物が曼荼羅図であることを説明してきましたが、それでは空海の真言密教がめざすものとは何か、それと真言密教の特徴的な世界観を最後に見てみたいと思います。
 真言密教の究極の目標、空海はそれを端的に「即身成仏」という言葉で表しています。
 空海は自己がそのまま絶対者(大日如来)であることを現証することが、真言密教のあらゆる実践において究極とするものであると説いています。
 そのためには、絶対者の偉大な慈悲のはたらきとわれわれの信心が合一することで、そのことを「加持(かじ)と呼びます。
 そのため密教の独自な深秘(じんび)の瞑想が実践され、それを「三摩地(さんまじ)」と言います。
 また、密教では「三密(さんみつ)加持」という実践法が行われます。これは絶対者がかって行ったと同じように、密教信者が印を結び、真言を唱え、自己の心を絶対者と同一の瞑想の境地にすえることで、自己の全行為が絶対者の全行為と合一し、ただちにこよなき完成が得られるとするものです。
 密教で有名な「護摩(ごま)行」も奇跡を願って行うものではなく、自己の信心を絶対者の力を借りて、絶対者に近づき両者が合一するために本来行われるものです。

 以上、絶対者の理性、慈悲、知恵と自己の信心が合一することで、今の肉体のままで宗教的理想の境地に到達すると説いているわけです。

 それでは、最後に、真言密教の説く世界観を見てみたいと思います。その世界は、自然中心の肯定的な世界です。
 一般的な仏教はその対象を人間としていますが、密教では「生きとし生けるものすべて」が対象です。動物にも植物にも心がある、と空海は説きます。釈迦から大日如来へ法身仏の移動は、人間崇拝から「自然崇拝」への思想の変化をもたらしました。このことは、八百万の神を信仰する我が国の固有の信仰とも一致し、密教がわが国でも早くから定着する大きな要素ともなりました。
 自然崇拝とともに見られる特徴は、「肯定的」な教義です。一般の仏教には常に死後と、否定の影が付いて回ります。「空」思想は大乗仏教の根本教義ですが、その教義も「こだわり」を捨てることを説いています。そこには否定の影が見られます。
 これに対して、密教では一般仏教で否定的にとらえられている教義のほとんどを肯定的にとられます。
 まずは「生」です。「即身成仏」まさに死後ではなく、現世で仏になることが究極目標です。肉体の快楽さえも肯定しています。
 不動明王は密教で初めて登場するか神ですが、仏教一般では戒められている憤怒の表情をしています。密教では、真理を実現させるための怒りは許されるのです。仏教一般では静かなる慈悲の笑いは許されますが、大笑いは禁じられます。それも、密教では楽しみかな生命よ、と大笑いも許されます。色についてもそうです。一般仏教では白黒の2色ですが、密教では5色、つまり全ての色が許されます。
 密教芸術は、絢爛豪華です。如来は通常裸形ですが、大日如来は菩薩形で絢爛に着飾っています。

 長く死をみつめ、情感を抑えてきた仏教は、密教によって、肯定の思想へと大転換を図ったのです。

 

 以上、長々とした文章となりましたが、序章として全体の概要をまとめてみました。

 以下、各論に入ります。

 

 ということで、本日はここまでです。次回より各論に入り、次回は「第1章 空海の思想の背景」のうち「1.空海の経歴」「2.空海の経歴の要点」を取り上げます。

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