(神代植物公園の梅園にて 2月8日撮影)
4.密教のシンボリズム
4.1. ことばのシンボリズム
(1)密教的象徴主義
空海の真言密教は、教理そのものをきわめて象徴的に説いています。したがって、それは密教的象徴主義(シンボリズム)、表象主義あるいは表現主義と名づけることができます。
日常的なことばのはたらく領域とは次元を異にする密教は、何らかの象徴的な意味をもった事物や記号を用いるか、もしくは象徴的意味合いをもった言語や文字をかりるよりほかに表現のしかたがないのです。
(2)宗教・仏教一般の象徴的な表現例
ところで、宗教的な真理は日常的なことばで認識することができないという前提のもとに、絶対の真理は言語表現を絶ったところに存在するという見方があります。
禅がその代表ですが、さとりの境地はことばで言い表すことができないとするのです。しかし言語表現を絶つ(仏教用語では、言語道断・言亡慮絶(ごんもうりょぜつ))ことはやはり表現の一つの方法ではあるのです。インドでは宗教的さとりを得た聖者は沈黙を守る者=牟尼(むに)といったが、これも象徴的表現に属するものです。
象徴というと、表示されるものは抽象的なものであるから、それは一種の暗号的な機能をもっているわけです。ただし、暗号解読は宗教的体験によらなければならないのです。
(3)密教の象徴主義
密教においては、宗教的真理の表象である直観的な意識内容、つまり瞑想的な認識は抽象的なものではなく、かえってそれこそ真の実在であることを知るべきで、だから日常的なことばは本質的にいって虚妄であるのです。前者は真実のことばでありパトス(感情)としてのことば、後者はロゴス(論理)としてのことばにほかならないのです。
空海は実在こそがことばであると考えた。そこで真の実在は法身大日如来であるから、真のことば、つまり真言は大日如来のことばでなければならないのは当然なことなのです。
4.2.言語哲学-声字実相
4.2.1. 声字実相とは
(1)『声字実相義』の序
空海は『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』の序で言語表現の基本的立場を以下(表33)のように表明している。
(2) 声と字(声字実相の意義)
前述のように、このようにして、パトスとしてのことばの極限を「声字実相」ということばで言い表しているのです。そこで次に空海は声字実相の名義を注釈しています。
声:内外の風気がかすかに起こることにより必ずあるひびきのこと。
字:声を出せば無意味なものはなく、それは必ず物の名を表わす。そのことを「字」という。
実 相:名は必ず本体をまねくものであるから、こうよぶ。
つまり、声というものは音声をともなうことばであって、それは意味を表示するものでなければならない。そして、意味内容すなわち概念を示す名称はただちに実相の相を指向する。
ここで空海は、ことばというものを人間が言語音として発音する音だけに限定せず、自然界すべてを対象としているのです。つまり、絶対者である大日如来のことばはあらゆる意味が含まれているとしているのです。だから声字実相は大日如来三密にほかならないことが知られるのです。
4.2.2.阿字の象徴
(1)ことばとしての実在
前述の如く、ことばとしての実在がそのまま、絶対者の三密という宗教的人格によるすべてのはたらきだとするならば、そこに示される絶対者のことばは一字一句であっても、秘密の解釈によるかぎり、無量無辺の意味をもっているものでなければならない。
宇宙の大生命の実在の世界は、そのまま偉大な生きたことばである。空海は実在のことばである真言を観想しながら唱えるとき、宇宙生命への飛躍があるとしたのです。
(『般若心経秘鍵』での例 表34)
(2)「阿字(あじ)」の意義
前述のように、真言の一字一文がもつ象徴性がパトスの世界を表現する場合に、その極限においてサンスクリット語の阿字(アルファベットの最初の文字 )をもって大日如来を象徴するものとするのです。
このことに関して、空海は『大日経』を引用しながら、声字実相の意味をさらに明らかにしようとしました。(下表35参照)
阿字の一字が永遠存在なる実相を象徴していること、それは大生命の深秘の世界である。空海が真言を観想して唱えたところに見い出した密教の秘密がそこにあるのです。
4.2.3.ことばこそ実在
空海は五言四句の詩で声字実相の内容を説明しています。
「五大にみな響きあり、十界に言語を具す
六塵悉く文字なり、法身はこれ実相なり」
(1)「五大にみな響きあり」
ここで、五大(地・水・火・風・空)という物質界を構成している原質はことばの本体であり、ひびきはその作用だとしているのです。そして顕教では五大はたんなる物質元素とみるのに対して、密教では金剛身を示す梵字や、曼荼羅における仏菩薩などが五大の粗大な原質とするのです。(下表36参照)
「もともと五大などの万有一切は大日如来を象徴するものであるが、五大がことばの本体であるということは、ことばの本体は宗教的人格をもった実在でなければならない。天地・万物・自然のかなに絶対者である大日如来のことばがつねに語られているのである。そのことばの本体は単純な物質ではなく宗教的生命にかがやく諸尊諸仏が顕現している世界である。」としているのです。
(2)「十界に言語を具す」
「十界に言語を具す」とは、真実と非真実(虚妄)との二つのことばを明らかにした詩句です。
十界(仏・菩薩・縁覚・声聞・天・人間・阿修羅・畜生(傍生)・餓鬼・地獄)のうち菩薩から地獄はすべて非真実で、仏の世界のことばのみが真実であり、秘密語とよばれるゆえんなのです。
パトスとしてのことばは真実なものとして、つねにロゴス的なことばの背後に隠れているものであるから、それは秘密語というにふさわしいのです。
空海は、大日如来という絶対者のことばがあらゆることばの根源であって、それが展開して世間日常のことばになるという考え方をしているのです。これは明らかに空海密教の独特のことばの形而上学(*)です。しかし、その形而上学がそのままさとりの認識論につながっているのです。ことばの深求がただちに信仰に結びついているのです。
*形而上学とは:現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しようとする学問。主要な対象は魂・世界・神など。
(3) 「六塵悉く文字なり」
ⅰ)顕教の六塵と密教の六塵
六塵(色・声・香・味・触・法(思考の対象となるもの。心で考えられたもの。))というものは、われわれの感覚知覚による認識対象となるもので、顕教の解釈では、人間の心をけがすものであるから「塵(じん)」とよばれています。これに対して密教では、われわれの認識対象物はすべて文字だとしているのです。
ⅱ)『声字実相義』による空海の色塵の文字の説明
(色塵についての空海の詩句 表37)
空海は色塵の色はサンスクリット語のルーパが原語で、色かたちをもったものを総称するとしています。つまり、われわれの視覚器官で認識しうるすべてを色といっており、色には「顕色(けんしき)」「形色(ぎょうしき)」「表色(ひょうしき)」の三種類があるとしています。(下表38)
この区分を空海は「文字」とする。あらゆる目で見ることができるものは文字であると最大限に拡大解釈しています。ここには実在が真実のことばであるとする空海の根本的な見解がはっきり現われているのです。
なお、実在論としての極微(ごくみ)については、空海は有部の実在論はとらず、唯識哲学一派の学説(極微は観念論的な存在にすぎないとするもの)をとり、その仮構成と無常性とをのべています。
(4)色の文字(「六塵悉く文字なり」の続き)
ⅰ)声字実相論の立場からの芸術や宗教問題
空海は青色・黄色・赤色・白色・黒色の五つの色彩を用いて阿字などの真言を書くことをまた「色の文字」と名づけました。そしてさまざまな生きとし生けるもの、草木・山河・大地などの非情を彩画するのをまた「色の文字」と、錦などのさまざまな織布などもまた「色の文字」と名づけたのです。
こうして造型された美なるものをひろく芸術とよぶとすれば、芸術の世界もまた「色塵の文字」であるのです。
ⅱ)「当相即道」「即事而真」
顕教では「色塵の文字」を煩悩罪障(ざいしょう)のみなもとと退け否定するところに迷いの世界を離れた真実風光のさとりの世界が開かれると説いています。
これに対して密教では、現実が絶対であるべきものであることを確信をもって説くのです。そのためには即而的(そくじてき)に現実を絶対に転換しなければならないのです。それを「当相即道(とうそうそくどう)」あるいは「即事而真(そくじにしん)」などとよびます。
「当相即道:自己が直面している当のものがそのまま仏道である
即事而真:世俗の事物そのままがとりもなおさず真実である」
密教においては造型的な表現を離れて真理を語ることはできないのです。それを離れて真理を語ることは、ただたんなる観念的な存在にしかすぎないことなのです。真理とは空海にとっては、もっとも具体的な内容をもった実在であって、感性的暗示的な象徴において把握されなければならないのです。
ⅲ)「迷悟、人にあり」
象徴を理解する主体的な態度とは、空海のいう「迷悟、人にあり」であって、もとより自己を離れた客体的な対象それ自体に迷悟の区分があるのではない、ということを内に含んでいるのです。
ⅳ)色の区分(二色)と依正
空海は『華厳経疏(けごんきょうしょ)』にみる三種の世間(*)および仏身について述べていますが、まず色についてみると、これには内と外の二色あるとしており、それは以下のように整理できます。(下表39-1)
*三種の世間とは:器世間、衆生世間、智正覚世間のこと。現代的に解釈すれば、自然環境、世俗社会、聖世界ということ。
空海が『大日経』を引用している大日如来の世界は以下に整理できる。(下表39-2)
(5) よく迷いよく悟る(「六塵悉く文字なり」の続き)
ⅰ)「随意顕現」と「よく迷いよく悟る」
生きとし生けるものにも、本来絶対の自覚を得ている法身大日如来が存在しているのです。あらゆる迷いの世界における身体及び国土は、なんらかの結果をあまねくわれわれの行為にしたがって、さまざまなあり方で存在しているのです。これを生きとし生けるものの縁にしたがって顕現するもの「随意顕現」と呼びます。
したがって、このような内色と外色などは無知なものによっては毒となるものであり、知者にとっては薬となる。だから「よく迷いよく悟る」といったのである、と空海は『声字実相義』を結んでいるのです。
ⅱ)万有一切がことごとく色塵の文字
餓鬼・畜生その他最低下の者から絶対者である大日如来に至るまで、すべてのものは「色塵の文字」である。法然(本体)も文字、隨縁(現象)も文字であるから、ことごとく文字でないものはないのです。
「よく迷いよく悟る」当体は、この自己自身である。自己の内面において奥深く法然の文字である法身大日如来の仏身と仏国土を発見することができれば、極悪相の地獄の姿が隨縁の文字としてひそんでいることを知りうるのです。
密教において色塵の文字をみるということは、宗教的な根本自覚を意味していることが知られるのです。
ⅲ)阿字の意義
ことばの本質は真言である。そしてあらゆる真言は大日如来の唯一の絶対のことば、すなわち阿字に帰入する。また阿字から万有一切は流出し、あらゆるものがことばとなり文字となって展開しているのです。
ⅳ)「法身はこれ実相なり」
空海はこの一句を注解していません。したがって『声字実相義』は未完です。ここでは絶対者は存在するもののありのままの姿すなわち真実在であるということを意味していると思われます。
4.2.4.この項のまとめ
以上まとめてみると、宇宙の天地万物すべてがことばであり、ことばの本源は法身大日如来として真実在のものだとするのが、空海の声字実相であるのです。
万有一切がことばとして表現され、ことごとくの存在が意味をもちなんらかのことを語っている。しかし、それは、つねのわれわれにとっては秘密であって、かくされた事実であるから、まさしく深秘の世界である。密教のシンボリズムは、この深秘の世界を開示しているのです。
4.3.ことばの形而上学
ここでは空海の著作『吽字義(うんじぎ)』にみる密教のシンボリズムについて探っています。
・『吽字義』とは
吽字は梵字の音写であるが、吽すなわちhumは阿字(a)の対で、サンスクリット語のはじめが阿字で、終わりが吽字となっています。『阿字義』とともに重要な論書であり、この吽字の一字に計り知れない無数の真理に教えが含まれており、あらゆる仏教の経典論書の趣旨もみなこの一字におさめられているということが説かれています。
以下、詳細については省略します。
本日はここまでです。
次回は第3章を取り上げます。そして、次回が最終回です。
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