(神代植物公園のアジサイ)
第2章 日蓮の主な著作と思想
1.鎌倉時代
日蓮は、出家、比叡山での修行、その後の遊学を終え、結果的に鎌倉で布教をはじめます。その鎌倉に入って五年後正嘉二年(1258)に、彼は岩本の実相寺(静岡県富士市内)に入って「一切経」(大蔵経)をひもといて読書と思索にふけったといわれています。その結果でしょうが、翌正元元年から翌々年文応元年にかけて次々と著作が生まれます。
『守護国家論』『念仏者追放宣旨事(せんじのこと)』『災難興起由来』『災難対治鈔』『立正安国論』『唱法華題目鈔』などです。
この中で重要と思われる『守護国家論』と『立正安国論』について、その内容とそこに表されている思想をみていきたいと思います。
1.1.『守護国家論』
この『守護国家論』は、法然の『選択本願念仏集』に対する反論の書です。本文の著者の一人は日蓮の本の中でも、もっとも理論のきめ細かい本ではないかと述べていますが、そこで、日蓮が法然に反論する論法に二種類あるとしています。一つは彼が叡山で学んだ天台智顗(中国天台宗の開祖)の論法でした。今一つは、日蓮の時代に応じた彼みずからの独自の論法でした。
(1)天台教学思想-天台智顗の五時八経
それでは、まず天台智顗の思想とはどんなものであったのか、智顗の代表的な説、「五時八教」について簡単に触れます。
中国にはさまざまな仏教経典が同時に入ってきました。その膨大な文献を整理した大成者が天台智顗でした。智顗は教説を五時に分け、釈迦の一生の五つの時期に当てはめていったのです。(このように、経典を整理し、判定していくことを「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」と呼び、智顗はそれを行った代表的な一人です。)
第一期:『華厳経』を説いた。しかし難しく人々によく理解されなかった。
第二期:分かりやすい『阿含経』(あごんきょう、原始仏教、小乗仏教)を説いた。小乗の教え十二年説いた。
第三期:大乗の教えに導くため『維摩経』(ゆいまぎょう)を中心とする方等(ほうどう)の教え、在家仏教者中心の教えを十六年説いた。
第四期:般若の教え、「空」の教え、大乗の中心思想を十四年説いた。
第五期:最高の教え『法華経』を八年間説いた。
智顗は、このような「五時」と名づけた時代考証に、「八教」と名づける価値判定表を付け加えたのです。(下表1)
化儀の四教:教説の形式による分類
化法の四教:教説の内容による分類
以上から、智顗は、『法華経』は釈迦が最後に説いた最も優れた円教中の円教、最上最高の仏教であるとしているのです。そして、その智顗の教説を信じ、日蓮はみずからの教説の根拠としたのです。
(2)法然の主張への攻撃
法然は『法華経』はすぐれた教えだが、その教えでは末法に生きる凡夫は、もっとやさしい、もっと単純な救いの方法である「浄土三部経」にもとづく口称念仏によらなければ救われない、としています。
そこで、日蓮は、この法然の主張を逆手に取って攻撃をします。
法然は「浄土三部経」が末法時代にあって、一番最後まで残り、人々を救うとしていますが、日蓮はどの経典をさがしても、日本浄土の源信の本を読んでも、『法華経』より「浄土三部経」があとあとまで残るとの説はない、「浄土三部経」のすぐれていることは説いているが、それは『法華経』との比較においてではないのだと指摘しているのです。狂気の人との印象もある日蓮ですが、実際には鎌倉仏教の開祖の中では最も理論的な人であったということのようです。
(3)題目の発明
法然は「末法の時代にわれわれ凡夫が救われる方法は難行ではなく、易行、つまりナミアムダブツと口でとなえる念仏行しかない」との説に対して、日蓮が発明したのが「題目」でした。つまり、もう一つの日蓮独自の論法とは、「題目」のことでした。
「南無妙法蓮華経」と『法華経』の本の名前を、題目を唱えること、それによって『法華経』全体を通読したのと同じ利益をえようというわけです。
(4)「題目」にかくされた哲学
法然は『法華経』難行だと言っているが、日蓮はそうではないと以下(表2)のように説いています。
つまり、『法華経』は、釈迦のすべての教説の精髄であり、南無妙法蓮華経ということばは『法華経』の精髄である。したがって南無妙法蓮華経ととなえれば、『法華経』全体を通読したと同じばかりか、全経典を通読したのと同じ功徳を得るというわけです。
日蓮の師ともいえる天台智顗は『法華玄義』という本の中で、南無妙法蓮華経という題目を解釈していますが、日蓮もこの智顗の題目重視の精神を継承したといえます。また、南無妙法蓮華経ということばに、全仏教はおろか、全存在が含まれるとしていますが、これは、一瞬の心の中にあらゆるものがふくまれる、という天台の「一念三千」の思想に沿ったものといえそうです。
(5)法然の影響
日蓮の口称念仏という敵の武器をうばって、おのれの武器とする戦術は巧であったが、そのことは無意識のうちに法然の思想をうけたものであり、『法華経』という正統派仏教を標榜する彼の教説を無意識のうちにオーソドックスな天台の教説と別れさせるものとなるものでした。(このことは、佐渡流罪時代の著作とその思想といったところで、詳述することになると思います。)
1.2.『立正安国論』
(1)『立正安国論』の著作理由
『守護国家論』で法然の謗法(ほうぼう、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、 “誹謗正法”とは、仏教の正しい教え(正法)を軽んじる言動や物品の所持等の行為を指す)の正体を論理的に明らかにした日蓮は、このことに対する正法の採用を幕府に提案します。それが『立正安国論』だったのです。
彼は北条氏にある種の親しみを感じていたようで、特に時頼は名君として噂の高い政治家でした。
(2)『立正安国論』の構成
本著は主(僧、おそらく日蓮自身)と客(俗人、ひそかに時頼をさすか?)との間の10の対話からなりたっています。
対話は客の嘆きから始まります。客は天災地変が頻発し、民は嘆いているが、どういう理由かと憂います。この憂いに、主は、それは「世皆正(しょう)に背き、人悉く悪に帰す」からだと答えます。
こうした対話から始まって、主は最初は、いぶかしみ怒る客に対して、『守護国家論』で論証した説を徐々に簡明に説いていきます。すると、客もだんだん主の論理に説得され、最後はやはりこの邪法を世にもたらした念仏の徒を退治して、早く泰平の世をもたらしたいというところで終わります。
(3)仏教の暴力肯定と日蓮の立場
仏教は原始以来、暴力否定の立場をとっています。しかし釈迦以来徐々に現世肯定、世俗肯定の立場をとり、この方向は当然国家肯定へとつながります。したがって仏教が国家との関係をもつかぎりにおいて、力の問題が重要な問題となってきます。
暴力の問題をもっとも真剣に思索した経典は『涅槃経(ねはんぎょう)』と思われます。『涅槃経』の次の言葉には明らかに暴力肯定の思想がみられます。(下表3参照)
日蓮は、この『涅槃経』の文句をひき、王たるものは力によって正法を世界に普及させなければならないと説いたのです。
(4)日蓮の予言
さらに日蓮はこの『立正安国論』の中で一つの予言をしています。それは経典の中に、正法が滅びるとき七難が起こるとある、そのうち五難はすでに起こっているが、あと二難が残っているとしているのです。
その二難とは、他国侵逼(しんひつ、侵略のこと)の難と自界叛逆(自国の叛乱)の難である、としているのです。
つまり、『立正安国論』は、正法の採用のすすめであると同時に、採用しないことへのおどしでもあったのです。
ただ、結局、この当時の無名の僧による上申を幕府は黙殺する結果に終わっています。これには、この上申で日蓮に対する念仏者の一層の反発が起こることを心配した、時頼の日蓮に対する温情、という見方もあるようです。
本日はここまでです。
次回は第2章の続き「2.佐渡流罪の期間」の前半部分を取り上げます。少しお待ちください。
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