(巾着田の曼珠沙華 9月25日撮影)
仏教思想概要6《中国華厳》の第6回目のご紹介です。そして、今回で最終回です。
前回は、「第3章 中国華厳宗と他思想との関係」についてみてみました。
今回は「第4章 中国華厳思想の至境」を取り上げます。
第4章 中国華厳思想の至境
ここまで、中国華厳宗の歴史、『華厳経』の構成と主な品名(「性起品」「十地品」「入法界品」)の概要、中国華厳と他宗との関係(「荘子」「天台」「唯識」「禅」)についてみてきました。
ここからは、いよいよ中国華厳思想の本論・詳論に入ることになります。ただ、内容は多岐に、さらに複雑となります。「中国華厳の概要」という観点からはあまりに煩瑣となりますので、ここでは用語説明という程度で、可能な限り簡潔に整理していきたいと思います。
1.華厳における法界とは-四種法界の成立
華厳思想の究極は法界縁起といわれるが、では華厳における法界とは何か?
華厳では、「法」は真理の意味、「界」は因の意味、したがって法界は「真理の根拠」「真理の領域」という意味になります。
さらに、法には「もの」の意味もあり、ものの存在しているこの現実の世界も法界であり、真理の法界との関係が問題となります。華厳における「理事無礙法界」とはこれを説明する原理のことです。
この「理事無礙法界」の思想を確立したのは、四祖澄観で、彼は開祖杜順の「三重の観門」をもととして、「四種法界」を体系化しました。(下表23参照)
以上から華厳の法界をまとめてみると次のようになります。
「この宇宙や世界に存在しているすべてのものは、おのおのの理法をもって現れているものであり、このような理法を践(ふ)み、理法を守って現れている万物は、またおのおのよく自己の本然の相(すがた)を守って、決して雑乱することがないというのが、法界ということなのである。一種の調和的な世界観がそこに現れている。そこには個と全体の美しきハーモニーがみられる。」と。
2. 融通無礙はなぜ可能か-無尽縁起の根拠
2.1.無尽縁起成立の論理的根拠
上述から、華厳の法界は、「円融・融通・無礙の世界」、つまりは「たがいに対者を妨げない、個と全体のハーモニーのみられる世界」ということが出来そうです。
そこで、次に、「では融通無礙はなぜ可能か」との命題が提示されることになります。華厳では、融通無礙を「無尽」とも呼びます。したがって、ここでの命題は「無尽縁起の根拠」を解明する、と言い換えることもできます。
これに対して、法蔵は、『探玄記』のなかで「縁起相由(えんぎそうゆ)」であるから、と結論付けています。縁起相由とは、「縁起は相由(あいよ)って存在するものであるから」という意味です。
そこでさらに、ではなぜ「縁起相由」か、という理由の説明が必要になってきます。以下、その理由を説明しています。
2.2. 無尽縁起成立の論理的根拠-十玄縁起
法蔵は『探玄記』で、無尽縁起を可能にする根拠=「縁起相由」という理由によるとしていますが、この縁起相由についての十義を説いています。そして、あらゆる現象の事物はこの十義をそなえているために縁起しているとしているのです。
さらに、この十義をもとに、あらゆる現象の事々物が、すべて円融無礙の関係(相互に関係し合い成立していること)にあることを10種の立場・見方から分析し、『華厳経』の法界縁起の至境としての「十玄縁起」(正しくは、「十玄縁起無礙法門」)を説いたのです。
・「縁起相由」の全体概念図(図7)
・十義用語の説明(表24)
以上の述べた十義に示された論理的成因により、法界縁起の至境である「十玄縁起」が成立することになります。すなわち、同体異体(*1)、相即相入(*2)の論理が、あるいは分割的にあるいは全体的に、あるいは縦面断面、あるいは正面側面などのよって、「同時具足相応門」などの十玄門が成り立つのです。みる見方の相違によって十門に分かれるといえるわけです。
*1同体異体:甲乙二者について、まったく別のものという観点と、乙は甲に内包されて二者は一つであるという見方のこと。(前者:異体、後者:同体)
*2相即相入:一切が対立せずに融け合い(相即)、 影響し合って(相入)いる関係をいう。相即相容ともいう。
・十玄縁起(表25)
2.3. 無尽縁起の事実的根拠と実践的要求(六相円融)
(1)無尽縁起の事実的根拠
論理的根拠はものの見方であって、あまりにも抽象的であり、現実的には把握できないようなところがあります。「もの」そのものに即して無尽縁起をみようとするのが、この項のねらいであるわけです。法蔵は十玄に何が縁起するかの10種のものをあげています。(下表26参照)
ここにおいても、以上の10種は客観的世界の存在する「もの」を表わしているものは少なく、ほとんどが宗教的実践主体とのかかわりによって生まれる概念です。
これまでの無尽縁起の論理的根拠はきわめて抽象的哲学的な論理のようにみえるが、実はここで述べられた宗教的実践の抽象化であったとことに気づくことになります。
(2)無尽縁起の実践的要求-六相円融
十玄門は、智儼-法蔵により体系化されたものであり、華厳思想の至境を表わすものであるとともに、この思想の背景には深い宗教的体験がひそんでいます。
それは、この無尽縁起を成り立たしめるものは、実践的体験として「海印三昧」(後述)という禅定経験・意識があるのです。華厳思想の究極を知らんと欲すれば、深い禅定の体験に触れなければならないのです。
ここでの、実践的な要求を満たす思想として、世親の『十地経論』をもとに、地論宗南道派の浄影寺慧遠→第二祖智儼→法蔵と体系化したものに「六相円融」があります。
六相とは、総・別、同・異、成・壊(じょう・え)の三対(六相)の概念で、これがたがいに円融無礙の関係にあって、一相に他の六相が含まれ、しかも六相のおのおのの分を守ることで法界縁起が成り立つという思想です。
(『華厳五教章』における六相の「屋舎」「人体」の引用例、下表27参照)
以上、「総相・同相・成相」と「別相・異相・壊相」はそれぞれ、同じ視点からとらえたものであるわけです。
2.4.中国華厳の実践法-海印三昧
(1)海印三昧とは
十玄縁起の無尽円融の思想や性起の考え方をささえるための宗教的実践方法のことをさします。
法身毘盧舎那仏が海印三昧に入定(にゅうじょう)して、そこから説法したのが『華厳経』であるといわれています。
ここに現れた海印三昧とは、ほとけがあらゆるものに示現するはたらきとして現れる勢力を意味し、この海印三昧の大海のなかに、無量の一切衆生の色像が現ずることをいう。それは一切を包摂し、一切をそこに顕現せしめる、鏡のごとき絶対的境地を意味します。
そこでは心も自然物も、美も悪も、ありのまま映現する。そのような絶対現実の心を海印三昧と名づけたのです。
澄観は海印三昧を定義して「無心頓現」といっているが、禅的に理解するなら「無心」の境地といえます。
(2)華厳の観法
「海印三昧」を前述では実践法と説明しましたが、実践の結果の境地というのが正しいようです。
華厳の観法(宗教的実践)を説いた書物には『五教止観』『遊心法界記』『妄尽還源観(もうじんげんげんかん)』などがあげられます。ここでは、教相(教義を理論的に研究すること)と観法とが別なものではなく、教相即観法であり、古来「文義一致」といわれ、教相がすなわち同時に観法となるとしています。
『妄尽還源観』で説く観法の方法で、その根本をなすものを「摂境帰心真実観(しょうきょうきしんしんじつかん)」と呼びます。これは、観法を三界唯心の立場からとらえているもので以下のように説いています。
「唯識の「境無識有」(境=客観、識=主観)の立場をとりながら、識もまた空なるを主張し、境が唯心であること。→ここでの唯心とは、境と識とが対立的存在としながらも、しかも融会(ゆうえ)していること。つまり、華厳の円融無礙の世界が開けてくること。
→このような事々無礙法界を出現させるには、頓悟(禅宗でいう「見性」という禅経験)が必要となる。」と。
ということで、ここでも、具体的な実践法は説かれていなく、それは禅宗にゆだねることになります。
以上、仏教思想概要6《中国華厳》完
ということで、「仏教思想概要6《中国華厳》」は本日で終了です。如何でしたでしょうか?
長らくお付き合いいただきありがとうございました。次回からは「仏教思想概要7《中国禅》」です。
しばらくお待ちください。
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