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仏教思想概要3:《中観》(第7回)

「仏教思想概要3:《中観》」の第7回です。
 中観思想の本論に入っています。
 前々回、前回と「中観派の批判哲学」をご紹介しました。今回は、空の理論のまとめと、ナーガールジュナの思想を宗教面から分析します。さらに、ナーガールジュナ以後の中観派として「中期中観派」をみてみます。

 

2.3.ナーガールジュナの論理形式-本体の論理と現象の論理-
 以上、『中論』を中心として、批判の哲学ともいえる中観哲学の性格をみてきましたが、最後に空の論理のまとめとして、ナーガールジュナの論理形式についてみてみます。
 ナーガールジュナの論理形式の特徴は、定言的論証(三段論法)は多用せず、仮言的推理(条件的論証)、ディレンマ、四句否定を武器としたことです。それは、自己の論理の主張より、他学派の理論の批判に専念したからです。

以下、四句否定から、その内容をみてみましょう。

2.3.1.四句否定
(1)四句否定の問題点と性格
 四句否定はナーガールジュナの創見ではなく、初期経典にも見られるもので、彼はその伝統を受け継いだだけのことです。例えば、『中論』(第二十五章第十七詩頌)の「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」という詩頌はブッダの教えとして伝わるものです。
 ここで、四句否定は、論理的には、第三句は矛盾の原理に反する、第四句は第三句に等しいという問題をもっています。(下表29参照)

 したがって四句否定を形式論理の中で理解することは困難です。むしろ、ある論議領域において成り立っている一つの命題を、それと異なった、より高次な論理領域から否定していく過程として、弁証法的性格をもっていると考えなくてはならないのです。

(2) 教育的段階としての四句
 四句否定の論理は、教育的な手法としても活用されています。(下表30参照)

(3)四句否定の意義
ⅰ)中観における四句否定の意味
 以上のように、「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であり、あるものは真実でない」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてあるものです。四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論議領域においてのみなりたち、いずれも一定の条件のもとでのみ肯定、否定されるものです。無条件に、絶対的な真であることはできないのです。
 このように、中観の真理では、四句のいずれも絶対的なものとしては否定するのが「四句否定」の意味であるのです。

ⅱ)最高の真実としての第四句が否定される理由
 第四句「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その点では否定されるべきものではありません。但し、第四句も第一、または第三句の成り立つ領域では否定されるべき性質をもつものです。つまり、中観の真理も一般的な論理領域では真であるとは限らないのです。
 例えば、『般若経』では、空を執着するものに対しては空をも空ずる必要があることが強調されます。
 つまり一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界を弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じるのです。

2.3.2.ディレンマの意味と名辞と実在の関係
 この後本文では、ナーガールジュナのディレンマの論理的手法、名辞(ことば)と実在の関係の論理的展開について詳細に説明しています。
 しかしいずれも、既述の「2.2.3. 原因と結果の否定(2)ディレンマ」及び「2.2.7. ことばと対象の関係の否定」の詳細説明となっています。このため、「概要」という趣旨からここでは省略します。ご興味のある方は是非本文をお読みください。
 ただ、本文最後に次の説明がありました。「ナーガールジュナの論理形式と本質は、彼を継いだ中観者たちによって必ずしも彼の意図どおりに正しく理解されなかった。」と。(詳細は後述)

 

2.4.ナーガールジュナの宗教
 ここでも、本文では空性(くうしょう)についての説明が続きますが、内容的には既述の空の論理に関する内容となっていますので、概要としては省略します。
 ここでは、「宗教」という視点で、ポイントとなるとと思われる部分を抜き書きしてご紹介しておきたいと思います

(1) アビダルマ仏教-区分された要素-の批判
 ナーガールジュナはアビダルマ仏教の区分された要素の世界を信じていません。区分されたもの、たとえば愛着がそれ自身で存在するならば、人がなくして愛着があることになります。
 ナーガールジュナは、『ラトナーヴァリー』第一章第四十、四十一詩頌(下表31)にて、次のように説いています。

(2) 迷悟一如
 ナーガールジュナは、『中論』第二十二章第十六、十五、十九・二十詩頌(下表32)にて、如来と輪廻について次のように説いています。

 

3.ナーガールジュナ以降の中観派

3.1.中期中観派
 ナーガールジュナ以降の中観派の動向については、すでに第1章にて説明しています。ここでは、その思想概要についてご紹介をしていきます。

3.1.1. 帰謬論証派と自立論証派
 第1章でも説明したように、中期中観派は帰謬論証派と自立論証派に分かれますが、その二つの論証方式は次のようです。(下表33参照)

 帰謬論証は当初は正式な論理法とは認められていなかったが、八世紀以後の後期の仏教論理学では、定言法と並んで、推理としての位置を確立していきました。
 インド論理学の領域では、定言論証と帰謬論証との関係は次のようになります。(下図3参照)

3.1.2.『中論』解釈の諸問題
 ナーガールジュナの論理は、ニヤーヤ学派やディグナーガの論理学のようにインド論理学の主流とは異質的なものでした。このため、中観派は他派との論争のため、ナーガールジュナのディレンマや四句否定をインド論理学の形式で表現する必要があったのです。
 しかし、帰謬論証派も自立論証派も中論の論理的証明に成功しませんでした。
 このため、帰謬法の支持者だったチャンドラキールティは、帰謬ということばを論理の超越という意味にとって、中観の論理的証明そのものを放棄し、その非論理性ないし超論理性を主張することで、中観を主体の問題、実存の思想ととらえようとしました。しかし、それにも成功しているとはいえないものでした。
 つまりは、中観につては、これを「弁証法」として理解すべきですが、これまでのインドや中国の仏教者がこれに成功したとはいえません。現代の課題といえる問題点です。
 なお、本文では、帰謬法の推進者ブッダ・パーリタ、定言法の推進者パヴィヤ、それぞれの主張と問題点が記述されていますが、ここでは省略しています。興味のある方は本文をご確認ください。

 

 今日はここまでです。次回は後期中観派を取り上げます。少しお待ちください。

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