(神代植物公園にて・しゃくやく 5月6日)
序章
多くの思想家がそうだったように、道元の思想を理解する上で、その生い立ちが重要な要素になります。本文でもまずは彼の経歴が語られます。
そして、道元15歳の時、彼は叡山を下り栄西(日本臨済宗の祖)の弟子になりますが、その理由は叡山での修行中に頭に浮かんだ、仏教に対する基本的な疑問の答えを求めての事でした。
やがて、道元は宋にわたり、禅宗の教えを学びます。その中で「正伝(しょうでん):釈迦以来伝わる仏教の正しい教えといった意味」の教えを受け、疑問の答えを得ることになります。そして、その正伝とは彼の有名な言葉「只管打坐(しかんたざ):ただただ坐っていなさいといった意味」だったわけです。
では、なぜ「只管打坐」なのか?早い話、それは「坐ってみきゃ、分からない」ということで、「知りたかったら、坐ってみろ」ということになるのですが、それですと弟子の育成が出来ないと考えたのでしょうか、主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』に、実体験から導き出した彼の仏教真理を、「ことば」で表現(道元はこれを「道得(どうて)」と呼びます)していきます。
以上、まずは簡単に整理してみましたが、本著は①「道元の生涯」 ②正伝の意義 ③道元の思想(正伝(『正法眼蔵』)の内容)を狙いとしており、私も私なりの理解をこの順に追って整理してみたいと思います。
第1章 道元の生涯
本題に入ります。第1章は、道元の経歴についてです。年表形式で整理してみました。(表1)
以上、道元の生涯につき、ポイントと思われる点を抜き書きしてみました。この中でも道元の思想の一旦を知ることができると思います。
以下は補足の説明です。
(1) 比叡山にのぼる
道元の叡山での得度は、建暦三年(1213)正月、天台座主公円の下で、十四歳の時でした。
しかし道元は十五歳くらいで早くも叡山批判をしています。これは法然や親鸞と違い、仏教界の動きが耳に入って、多感な少年にひびいたためと考えられます。『正法眼蔵随聞記』にはこの時の道元の気持ちが述べられています。(下表2)
(2)入宋―禅宗の現状
入宋時、南宋の禅宗の状況は以下のとおりでした。(下表3)
道元が渡航した宋(南宋)は当時元の圧迫をうけ苦悩の時代であり、同時に禅宗も全体として衰退期に入っていた。
(3) 如浄との出会い-「出会い」の意義=「面授」
「まのあたりに先師をみる。これ人に逢ふなり」(『正法眼蔵』「行持」)。この「出会い」を大事にするのが、ほかならぬ禅宗の特色です。諸方遍歴の自由もそのためでした。禅ではこれを「機縁(きえん)」といいます。
道元は『正法眼蔵』「面授」の巻で二度この事実を述べてその重要性を確認しています。
「大宋宝慶元年乙酉(いつゆう)五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏はじめて道元を見る」(『正法眼蔵』「面授」より)
本文の著者は「宝慶元年(1225)五月一日という両者の最初の出会いを道元とともに大事にしたいと思う。これがいわば<面授(めんじゅ*)>の本質である。」としています。この正師との出会いを重視することがまた、道元の家風の大きな特色となっています。(詳細後述)
*面授:じかに対面しておしえを授けること。
(参考:如浄の生涯 表4)
(4) 身心脱落とは
ⅰ)身心脱落についての道元と如浄のやりとり
『宝慶記』(*)には『正法眼蔵』など後年の著作の基礎となる材料を含んでいますが、その中で一番大事なことばは「身心脱落(しんじんだつらく)」です。これは禅宗一般に<大悟(だいご)徹底>というもの、つまり<さとり>に相当する重大な体験をさして、如浄が用いたことばであるのです。
(以下、このことばについての如浄と道元のやりとり 表5)
*『宝慶記』とは:この著は、道元が如浄への掛搭(かた)の誓願を出し、それが認められて以降の仏教に関するあらゆる疑問-<教>と<禅>の区別、経典のこと、寺院のあり方(禅院、教院、律院、徒弟(つち)院の四院の区別)から坐禅中の足袋のつけ方まで-に対するこまやかな解答を記録したメモである。
ⅱ)「身心」と「心塵」
如浄の答えからすると「身心脱落(しんじんだつらく)」ということはごく平凡な意味のようです。それと如浄の語録をみると、「身心脱落」は「心塵脱落(しんじんだつらく)」と書いてあるのです。つまり心塵ならば如浄の答えの「五蓋の除く云々」とぴったりきます。五蓋や五欲とよばれる、いわゆる煩悩が心に積もる塵であるということは、インド以来の仏教の伝統的な理解であるからです。
「身心」という熟語は肉体と精神であるが、仏教語とはいえません。また中国語としてもあまり見かけません。和製くさいのです。ただし、この<身心>の語は道元の著書で多用される「身心脱落」という表現が、「心塵脱落」に比して道元の哲学の深さを倍加させたことは間違いないのです。
いずれにしろ如浄の説明のかぎり、「身心脱落」は心の塵を除き去ることであり、その手段として「祇管打坐」、つまり坐禅をわきめもふらずすることによりほかないのです、ということで、このことばの意味としてはしごくわかりやすいのです。
ただし、脱落は「さとり」をさし、「行」(坐禅)がただちに「証」(さとり)につながるであろうか?この間の消息は後述することとします。
(5) 「弁道話」にみる坐禅独立宣言-<証上の修>
道元は、帰国直後しばらく建仁寺に滞在したが、そこを退居し「洛外」の地深草の安養院にこもり、「弁道話」の執筆を行いました。寛喜三年(1231)道元三十三歳の時でのことです。
「弁道話」は形を変えた立宗宣言といえるものです。そこでは坐禅がなにゆえ<正伝の仏法>であるかということをはじめとして、十八の問答を展開し、以後の宗風の根本となる<証上の修(しょうじょうのしゅ)>(悟後の修ともいう。さとったものがさらに修行をすること)を説いています。
修行につとめ励むことは、生まれながらに仏である人間の<証上の修>であり、したがって仏法作法である。そして坐禅こそがそれにほかならない。これこそ出家以来の疑問「生まれながらに仏であるのになぜ修行が必要か」に対する解答であったのです。
道元の念頭に当時あった第一のことは、いかにしてこの正伝の仏法を「弘法」(ぐほう、仏教の教えを広めること)し、それによって「求生」(ぐしょう、世の衆生を救済する)するかという点であったのです。この意気込みが坐禅の「普勧(ふかん)」(あまねくすすめる)となり、また「弁道話」の「修すれば得道(とくどう)す」という男女や在家出家の差をこえ普遍的な人間性(仏性)をまっこうから強調する理想主義的主張になったものと思われます。
(6)永平寺にて
寛元元年(1243)、道元四十四歳の時、京都の修行の拠点興聖寺より北陸越前の山中に引き移ります。
これは興聖寺(極楽寺)の叡山側の破却によるものでしょうが、『正法眼蔵』の説示に関してはその影響は全く見られませんでした。
ⅰ) 一箇半箇の接得の開始
一年間の仮住まいの後、義重らの世話で本格道場(大仏寺)が完成し、新しい道場で興聖寺以上の活発な接化(接得心導の意で、師家が学人を親しく教化し指導すること。)がはじめられました。
夏安居(げあんご、僧が一か所にこもって修行をすること)の制度が確立、結夏(けつげ、安居のはじめ)と解夏(げげ、安居の解散)の上堂が規則的にくり返されました。安居の際の<晩参>(晩の略式の法語、仏語。夜、住持が修行者を集めて教えを述べること。また一説に、夕刻の念誦をいう。朝参に対していう語)が規則づけられたのも日本でははじめてのことでした。天童山の行事はしだいに完全に実施されつつあり、一箇半箇の接得(せっとく、*)が文字どおりはじめられたのです。
*一箇半箇の接得とは:ただ一人でもよいから法をつぐ能力のある弟子を育てること。
興聖寺時代と比べて、この時期より、道元の示衆の内容は「普勧」的方面から専門家の養成へと変化がみられる。その証拠として臨済宗に対する評価が悪化しており、対抗意識がみられる。臨済はその頃、九条兼家の庇護により東福寺の建立にかかっており、性格的に権力者に頭を下げたり、ごますりが出来ない道元にはあい入れないことであったと思われる。
ⅱ)永平寺への改称
寛元四年(1246)六月十五日大仏寺を永平寺と改称します。(道元の上堂のことば 表6)
永平とは文字どおり永遠の平和です。永平は仏教がはじめて中国に伝わった漢の明帝の年号(永平十年)です。したがって永平は道元が釈尊の行跡にならって、仏教の東漸(とうぜん)の任務をいま中国から日本へと果たしたという自負を示すものであったのです。
興聖寺の「空手還郷(くうしゅげんきょう)」は「当処永平(とうしょえいへい)」としてここに結実したのです。この後、「永平寺知事清規(ちじしんぎ)」(知事すなわち役職者の任務規定)が制定され、「示庫院文(じくいんぶん)」によって山の共同生活における食事の心構えまでこまかく示されました。『正法眼蔵』の示衆に代わって上堂回数が増加しているのも後継者育成に専念したゆえと思われます。
(7) 示寂
八月二十八日京都にて示寂。辞世の句、および遺偈(いげ)は以下のとおりです。(表7)
以上、十五歳で叡山に登った道元は「悟っているのになぜ修行をするのか?」という疑問をもち、叡山を下り栄西の門をたたき、やがて宋にわたり禅宗を学びます。そして疑問のその答えとしての「正伝」(=坐禅)を得て帰国、京都を経て永平寺の修行道場を開いたのです。
ということで、次章では、道元が学んだ「正伝」の内容について、みてみたいと思います。
本日はここまでです。
次回からは「第2章「正伝」の意義」に入り、「1.仏道=仏法」、「2.正伝の方法」を取り上げます。
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