(神代植物公園の梅園にて 2月8日撮影)
第3章 真言密教の広がり
1.東密と台密
1,1,東密と台密のちがい
わが国の密教は二つの流れがあります。一つは東寺を中心とした空海の教義にもとづく「東密(とうみつ)」であり、もう一つは、天台宗の密教であって、これは最澄の教義にもとづく「台密(たいみつ)」です。
(1)最澄の台密と東密の立場
最澄の天台宗は中国の智顗の天台に密教、禅法(ぜんぽう)、円(法華)、戒(大乗の戒律)を集合したところの四宗兼学であるのです。
最澄の立場においては、天台の密教は、もっぱら『大日経』を中心とするものであり、しかもその注釈書『大日経義釈』にもとづく密教であるところにその特徴があります。もともとこの注釈書は『法華経』の真意とするところによって『大日経』を注釈(唐の一行(683-727)の注解的態度)したもので、最澄は法華一乗と密教とは根本において一つのものすなわち「円密一致(えんみついっち)」をむねとしたのです。
これに対して、空海は真言密教の真理の一つの現れとして法華一乗の教えを容認しているものの、『大日経』と『法華経』の価値等式を認めないのです。
(2)円仁らの台密
密教を最澄も入唐して学んだが、やや傍系のものでした。最澄後、その法系の円仁、円珍らが入唐して本格的に密教を取り入れたもので、著しく密教的色彩を強め、東密をしのぐほどになったのです。
台密は円仁によって大成されたもので、東密が密教は大日如来が説いたものだとしているのに対して、釈迦の教えだと説いているのです。東密が説く密教と顕教の区分に対しても、教えが深秘であるか、浅略(せんりゃく)であるかによって両者は区分されるとしているのです。
経典については、東密が『大日経』『金剛頂経』を根本経典としているのに対して、台密ではこの両経に『蘇悉地経(そしつじきょう)』を加えています。
1.2.天台止観の密教媒介
(1)最澄の止観の特徴と密教媒介
天台の中心的な実践課題は止観(東密では身・口・意の三密修行による三摩地の法門)であるが、最澄のそれは、中国正統派の「妄心観(もうしんかん)」よりも別派の「真心観(しんしんかん)」をとったと言われるています。迷いの心をつぶさにみるのが、そのままさとりではない、自然のままの清い心をみるのが真心観の特徴だと説かれるています。ここには、密教が現実肯定の表徳の法門をとって、煩悩の現実をそのまま否定する遮情(しゃじょう)の法門の立場をとらないと相応ずるものがあるといえます。
(「凡聖対立」と「凡聖不二」(「台密」と「東密」の違い))(表40)
以上、同じ密教でも、東密と台密とはさまざまな違いが認められます。しかし上代平安朝の四〇〇年間にわたって、それらが日本人の心の世界を深め高めていったのであり、これらの土台のうえに立って鎌倉の諸宗派が興起することになったのです。
2.密教と浄土教
2.1.密厳国土と西方浄土
ここでは密教と浄土教の関係についてみてみます。
(1)密厳国土と西方浄土
空海の密教世界(密厳国土(みつごんこくど))によると、あらゆる十方国土は浄土であるから、浄土を阿彌陀如来の西方浄土に限定する必要はなく、その西方浄土は十方浄土に包摂されるものであったのです。具体的には曼荼羅世界に以下のように表われています。
金剛界曼荼羅:成身会(じょうじんね)の中央五仏中に西方無量寿如来(阿彌陀仏)が配されている
胎蔵曼荼羅:中台八葉院でも西方に阿彌陀如来が配されている
(2)密教の浄土化事例
空海の『請来目録』には「無量寿儀軌」があり、また阿彌陀三尊を造立した空海の願文を『性霊集(しょうりょうしゅう)』に収めてあるように、真言密教は阿彌陀信仰を大きくつつんでいるのです。(下表41参照)
以上、わが国の浄土教は密教より出たものですが、彌陀一尊仏への信仰に凝集化されたものであり、日本人の単純直截な精神構造と抒情的な精神風土との産物といえます。
空海の真言密教は現世に仏の世界を実現することを目ざしたものでした。これに対して、浄土思想には現世と死後の世界、此岸と彼岸との緊張関係がつねに問われているのです。わが国古来の民族固有の信仰である素朴な死の課題への回答が用意されたのが浄土信仰であったのです。この点に、浄土信仰が現実的な密教の実践体系から離れて、庶民感情のなかに浸透していった基本的な理由を見だすことができるのではないでしょうか。
3.仏教の土着化
3.1.來迎型と勧誘型
(1)密教と本地垂迹
わが国固有の民俗信仰は一種の自然信仰であって、「神ながらの道」とか「産霊(うぶすな)信仰」などとよばれています。そうした民族固有の信仰と結びついた密教は神仏習合の信仰を生み、本地垂迹(*)の思想を発展させたのです。
大乗仏教では権化思想が説かれます。この権化はincarnationですが、あらゆる仏菩薩や神がみはすべて絶対の仏である大日如来の顕現であるとするのが密教です。
*本地垂迹(ほんじすいじゃく):インドの仏がわが国では神の姿をとって現われて衆生済度(さいど)しているから、本来、仏と神とは同一であり、しかも仏は本、神は末である、とする説。
(2)来迎型と勧請型
空海の流れをくむ密教、あるいは台密だけが神仏習合、本地垂迹の今日の日本人の基本的感覚である「神仏」という観念を形成した背景には、固有の民族信仰と密教とに「生命の思想」という共通の基盤があったからだと諸家はいっているのです。
また、それを宗教現象として別の角度から見た時に、以下(表42)のように來迎型と勧請型という二つのタイプの類型があることに注目がされます。
3.2. 民族感情とのつながり
現世を肯定するわが国古来の民族的宗教的感情は、現世において、われわれが仏になり、現世においてわれわれが浄土を完成しようと努力する(即身成仏)密教によって、いっそう深化し精錬されていったといいうるのです。以下(表43)、我が国宗教における密教の影響事例を示します。
以上の例のように密教がわが国の宗教に及ぼした影響は少なくないのです。もともと密教は、多元的な価値をもって、全体統一と調和を原理としています。反面そこには密教が呪術的に退化しやすい性質をもっていたともいえます。
わが国における仏教の土着化、風土化を考えるとき、密教の役割を過小評価することはできないのです。
4.むすび
(1)情感の仏教
感覚を排除した知性の仏教が顕教だとすれば、密教は情感の仏教だといえます。
空海は多角的な天才で幅広い分野(*)を手がけていて、他の例をみないが、特に密教の重要な教理を詩(「密教詩」)で表現したことは情感豊かな密教世界を誘(いざな)うのにきわめて大きな意義をもっているといえます。
仏教が一般に生の否定をおもてに出すのに対して、密教は生を肯定する仏教だといえます。このため一面において単純な感覚世界に退化しやすい危険性を密教はたえずもっていますが、また感覚のなかに知恵を探り出してゆくのが密教ともいえるのです。
*文芸評論:『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』『文筆眼心抄(ぶんぴつがんしんしょう)』、詩文集:『性霊集(しょうりょうしゅう)』、思想劇:『三教指帰(さんごうしいき)』、辞典『篆隷万象名義(てんれいばんしょうみょうぎ)』など
(2)永遠の生命の世界
空海のめざした曼荼羅世界は永遠の生命の世界であるのです。それはダイナミックな調和をもつが、その調和は多元的な価値の融合を意味しています。独一の原理による統一ではなく、多様性の肯定のうえに立つところのいっさいを総合的に包含した合一において、かえって個の多様性を生かすのです。このような曼荼羅の思想は、人類のさまざまな思想価値体系を越えた普遍的な宗教の新しい意義が問われてもよいではないでしょうか。
曼荼羅世界を説いた空海の個人的な信仰は彌勒菩薩の信仰でした。彌勒信仰は永遠なる生の信仰であるのです。
アメリカの宗教学者チャールズ・モリス(1903-79)は「ミロク的人間の道」を説いています。
これは六道の対立を調和統一するところの人類に残されたもう一つの世界、もう一つの人生の道があることを暗示するものであるのです。その道は多様性を内につつみながら、肯定的にそれらを生かす<人間性の全一>をとりもどすものであるのです。だが、まさしく遠いはるかな永劫の未来に出現する人間の救済主、彌勒仏にちなんだもう一つの新しい世界、もう一つの新しい人間像を形成するにはミロク的な時を必要とするのです。ところで「宇宙はふんだんな時をもっている」というのがモリスのことばであるのです。
生命の曼荼羅世界は、生の肯定の表出です。われわれはときには、この理念型としての曼荼羅世界を描いてみてもよいのではないでしょうか。あたかも空海が彌勒信仰に導かれたように、われわれもまた「宇宙はふんだんな時をもっている」ことを思い出しながら。
以上 仏教思想概要9《空海》 完
本概要は、「仏教の思想9 生命の海<空海>」の第一部を中心にまとめています。
二部、及び三部については、そのポイントとなる内容について、概要の中に取り入れています。その場合は、「である調」で表記し、その旨を追記していますのでご確認ください。
なお、第三部は、西洋哲学者の梅原猛氏が執筆しています。特に、釈迦仏教から空思想、さらに華厳思想への思想の展開と密教との関係を順を追って説明しています。概要では省略しましたが、これまでの復習にもなる内容となっています。興味のある方は本文をお読みいただくことをお勧めします。
「仏教思想概要9《空海》」にお付き合いいただきありがとうございました。
次回からは、「仏教思想概要10.《親鸞》」です。しばらくお待ちください。
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