(神代植物公園にて・東海桜 3月15日)
前回は、「第1章 親鸞の思想背景」「1.親鸞の略歴」をみてみました。
本日は、「2.親鸞の信仰・思想の背景」を取り上げます。
2.親鸞の信仰・思想の背景
以上、親鸞の生涯をみてみると、一家離散、出家、流罪・還俗、晩年には実の息子の裏切りと、波瀾をもって彩られ挫折と絶望、苦難の人生であったことが知られます。
また、当時の僧の常識としては許されない妻帯の身での布教活動は決して容易なものではなかったと想像されます。
親鸞の信仰・思想を考えるとき、これら人生の経験を背景として、以下のようなキーワードを上げることができます。
① 師法然への傾倒
② 妻帯
③ 「悪人正機」
④ 主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」
以下、これらを念頭にして、特に第2章以降で、親鸞の信仰・思想を明らかにしていきたいと思います。ここでは、法然への傾倒をみてみます。
2.1.法然への傾倒
親鸞は、京都六角堂での百日参籠の95日目に聖徳太子の夢告により、100日法然のもとに通い、私の学ぶべきものはこれしかないと確信し、法然のもとに入門します。そして、この確信は生涯変わらなかったと言われています。
「たとえ地獄に落ちようと法然について行く」と。「浄土真宗」の「真宗」とはまさに法然の教えそのものを指しており、彼自身は新しい宗派を起こしたとは思っていませんでした。(浄土真宗の開祖は親鸞ということになっていますが、実質的な開祖は三祖覚如(かくにょ、親鸞のひ孫)と言われています。)(法然への傾倒事例:下表7)
それほどまで法然に傾倒した親鸞ですが、それでは法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗はまったく同じ教え・思想だったのでしょうか?法然の教えには、肉食妻帯を認め、「悪人正機」という思想があったのでしょうか?
親鸞がどんなに傾倒し、まさに「真宗」と唱えたとしても、その主著「教行信証」などを検証する限り、彼の思想は師法然の思想とは違ったもの、極論すれば、それを否定するものであったともいえそうです。
2.2.法然までの浄土思想
そこで、親鸞の信仰・思想を考える前に、法然を中心にそれまでの浄土思想の流れを簡単に整理してみます。
インドの大乗仏教の教えの一つとしてスタートした浄土思想(阿弥陀信仰)は、中国において、曇鸞・道綽・善導の三人の高僧により成立・確立します。特に善導は「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の実践により、阿弥陀仏のいる極楽浄土に行けると人々に広く流布します。
こうした浄土思想・阿弥陀信仰は奈良時代に日本にもたらされますが、当初は鎮魂のための阿弥陀仏として信仰されます。特に聖徳太子一家暗殺による死霊への恐怖から逃れるために信仰されたものと思われます。そして、その鎮魂の役割が空海や最澄の祈祷仏教つまり密教に引き継がれると、阿弥陀信仰はこの世の苦しみや絶望から逃れるための夢の世界、西方浄土を求める信仰へと、その役割を変えていきます。
その甘美でロマンチックな幻想の世界、西方浄土を描いたのは、平安期の天台宗の僧、源信(げんしん、恵心僧都942-1017)でした。彼は、天台流の止観(心を静めて、仏世界を頭に描く)の手法で阿弥陀浄土の世界を想像する行を説きます。しかし、その止観の行は必ずしも一般的には容易な手法ではありませんでした。また、そのロマンチックで幻想的な世界は、現実の苦難な世界に生きる一般の人々には、そこまでの余裕を持てる世界でもありませんでした。
人々が源信の阿弥陀世界に不満を持っていた時期に登場したのが法然(1133-1212)でした。法然は説きます。「口でナムアミダブツと唱えればよい、誰でも極楽に行ける」と。
叡山に学んだ法然は、「知恵第一」とのうわさをとる大秀才として有名でした。時は混乱の時代、末法の時代、もはや今の時代には「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」しかないと人々に説きます。大秀才法然のこの教えに人々は狂喜し、法然は生き仏と崇められます。
法然は善導(中国禅の高僧)一辺倒だったと言われています。善導の著『観経疏(かんぎょうしょ、『仏説観阿弥陀経』の注釈書)の「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の勧めから、やがて法然独自の「専修念仏」の思想を導き出します。この時期は、彼が主著『選択集(せんじゃくしゅう)』を書いた時期(66才頃)で、念仏仏教に対する旧仏教派の批判が激しくなっていた時代でした。同時に、この時期に親鸞は法然の弟子になっています。つまり、当然ながら法然は新しい思想を導き出した先生、親鸞はその生徒という関係に両者は立つことになります。そしてその立場の違いが、生徒としての親鸞に先生である法然とは違った考えをもたらすことになります。
2.3.信仰の人親鸞
一般的に親鸞は法然の思想を引き継ぎ、さらにそれを発展させたととらえられているようですが、どうやらそれは間違えで、親鸞は法然の教えから、信仰の喜びを知り、法然とは違う思想をもった、と言えそうです。
鎌倉仏教の代表者、法然、道元、日蓮はいずれも理論家であり思想家であったようですが、親鸞はこれらの思想家とは違っていたようです。たんなる凡人ではなかったことは間違いなく、大変な勉強家であったことは確かですが、思想家というより仏教の実践者、信仰者、つまりは人間親鸞としての面が強かった、そんな人だったようです。「真宗」を法然の教えそのものという意味で使った親鸞、彼はひたすらまさに法然の教えを信仰し続けた人であったようです。
苦難の人生が親鸞に信仰の人生へと進めさせたのかもしれません。本著ではこのことははっきり書かれていませんが、私個人では、彼が妻帯していたことに対するうしろめたさ、人間的弱さを持っていたことも背景にあるような気がします。有名な『歎異抄(たんにしょう』には親鸞の人間臭さが随所に登場します。日本人の心に刺さる書として人気で、有名な学者、著作家に取り上げられているところです。
2.4.「念仏為本」と「信心為本」
前述の「第1章2.2.法然までの浄土思想」の末尾で少し触れましたが、法然と親鸞の教えの違いには、それぞれの立場の違いがあったということがまず挙げられます。
法然は自らが考えた他力の教え(「専修念仏})であって、先生の立場、親鸞はその他力の教えを受領する生徒の立場にありました。法然は「安心起行(あんじんきぎょう)」ということを説きます。「ひたすら念仏を唱えていれば(つまり起行のこと)、自然に心がそちら、つまりは安心の世界(極楽浄土)に向いてくる」と。つまり、法然の立場ではまずは起行、念仏を唱えることが大事なのです。一方、親鸞は教えを受け取る立場ですから、もっぱら念仏を唱えることが大事だが、その結果「安心」が得られるのだから、真の目的は「安心」を得ること、つまりはこちらの方がより大事だと受け取ることとなったと思われます。
これは後に登場した用語ですが、「念仏為本(ねんぶついほん)」と「信心為本(しんじんいほん)」という言葉があります。簡単に言えば、念仏も信心も大事だが、どちらかといえば、前者は念仏がより大事、後者は信心がより大事ということです。つまりは親鸞の立場では一番大事なのは「信」(「信心為本」)ということになります。
少し短めですが本日はここまでです。次回は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』について」を取り上げます。
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