神楽坂の路地
もともとは、武家屋敷の街で、当時の町割りが、現在も残っています。大正時代の関東大震災では、ほとんど被害を受けなかったため、他の場所からの商店、娯楽などの事業者が多く流れ込み繁栄しましたが、第2次世界大戦では、空襲に会いほぼ焼け野原となりました。現在に建物は、戦後の物になります。地場産業としては、印刷・出版業が盛んになり、花柳界が盛んになり、芸者が600人ぐらいはそれぞれの置屋に所属していました。現在は、料亭が5・6軒、芸者は20人ぐらいになりました。高度成長期には、ドーナッ化現象で、再開発などからは取り残され、商業等は低迷していました。町割り(区画)が、小さかったため大規模な再開発は、行われなかったが、路地が多く残っていたため自然とまち歩きの人(女性)が増えてきて、賑わい始めましたた。表通りでは、ナショナルチェーン店が増加してきて、地価が上がり事業承継(遺産相続)等では、税金が払えなくなりオーナーのビル化が進んでいます。
路地が残るヒューマンスケールのまちができ、大道芸や浴衣など、文化で客を呼ぶ、商店だけでは人を呼ぶことができないが、路地の商店が人を呼び込んでいる。商店も地域資源となっています。袖ふり坂に黒塀を設置したところ、ひとが集まり始めたので、商店に黒塀を設置すると人が呼べると広がり黒塀を設置する飲食店等が増加し、それが路地裏での雰囲気を出している。
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