人間は己のあずかり知らぬうちに、一個の生命として理由も知らされず突如として、この世に投げ出される。
この出生に対して承諾することも拒否することも許されない。
どんな地に生まれるか、男としてか女としてか、その美醜にさえかかわりなく,出生の条件も、自己の自由意志と選択を超えたところで決まってしまう。
人間はただ自己がこの世に生まれてきたという、ただそれだけを理由として生きていかねばならぬ。
そしてその生きていくところは、己の自由には生かしてはくれない。
人間という生き物が生きている世界は、果てしない欲望と煮えたぎる様な情念に引きずり回される生き物たちが生きている世界である。
そしてその人間という生き物、人との関わりの中で初めて生きていくことのできる生き物なのである。
その人との関わりの中では、個々の人間の自由を拘束しあるいは抑圧し人間の生きざまに干渉して、その自由を侵すことも多い。
その煩雑な人間の生き方、人生は旅とはよく言われる。
その旅というのは何なのか、はっきりと認識する必要がある。
人はさまざまな理由から旅に出る。
人生が様々であるように、旅もさまざまである。
様々な人が様々な旅をするが、どの様な理由で旅に出ようと、人が持つそれぞれの感情は何かしら共通するものがある。
人それぞれの人生が短くても、長くても、その一生の人生にはある種の感情がある。
人間という生き物は旅にも同じような感情を感じるのであろう。
ようやく手に入れた休暇での、一、二泊の旅行も、芭蕉の奥の細道などの有名な句を見るまでもなく、旅とは漂泊の旅である。
これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であろう。
旅に出るという事は日常の生活環境から抜け出るという事であって、習慣的な環境から抜ける、すなわち解放されるという事であり、旅にはその喜びがある。
ある種の環境から解放され、あるいは脱出するという感情には漂泊の感情が伴う事が多い。
そのことを考えると、旅は漂泊であるということも出来る。
人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通じるものがある。
すなわち人生は漂泊であるということも出来る。
過去に対する配慮は未来に対する配慮から生ずるのである。
我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、これは常に人生に於ける根本問題であり謎である。
人生の航路は遠くて、しかも近い。しかも人生はあわただしい。
それぞれの人間が、それぞれの生涯を生きてたどり着くところは一人の例外もない死。
拒否することも反抗することも無意味な不可解な世界である。
そうである限り、人生が旅のごとく感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。
我々は我々の創造に従って人生を生きている。
現実の人間は自己自身に対して不自由であるばかりではなく、他人や社会に対しても不自由なのである。
しかし、人間を不自由にし、その生活を脅かし拘束するのは、唯単に内面的欲望情念や外面的な権力、社会的な人間関係だけではない。
旅は人生の姿である。
人生は未知のものへの漂泊である。
そしてその旅において出会うのは己自身、どんな旅であっても出合うのは絶えず己自身である。
我々は旅に出て、どこへ行こうとしているのだろうか。
我々はそれを知ることはない。
人生は芭蕉のいうように未知へのものへの漂泊でもある。
一体人生に於いて、我々はどこへ行くのであるか、我々はそれを知らない。
何処へ行くかという事はどこから来たかと問われるであろう。
その行きつく先は死であるといわれるであろう。
とは言っても人間はどこから来て何処へ行くのか、その行き先が死であるといっても、死とは何であるか誰もが明快には答えることはできないである。
人間が人生を旅するとき、死は刻々に、我々の足元にあるのであるが、それでもその人生に於いて、人間は夢を見ることは辞めない。
この様に人間は不自由な生き物であるが、人間には今一つの一層の根源的な、そして決定的ともいうべきたどり着く先が選択の余地なく死であるという不自由がある。
それが人間の生と死なのである。
そして今日、人生の旅の終焉近くに来て、その人との関わりの中では、あるいは無能な権力の横暴によって、
個々の人間の自由を拘束しあるいは抑圧し人間の生きざまに干渉され、その自由を侵されることが多くなっている。
その煩雑な人間の生き方、を強制されるのは旅の終わりに近ければ近いほど煩雑さを感じる。
その煩雑さを避けるためには、そろそろ漂泊を終わりにしなければならぬ。
よく終焉を迎えた時、天命を全うしたなどと言われることがある。
天命とは古代中国からの思想であるが、人がなすべきことを為し終えて終焉を迎えた時、天命を正しく受け入れたなどと言われることがある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーend