今日の人間は幸福についてはほとんど考えない様である。
古代の倫理学の中心課題はほとんどが幸福について論じていた。
アリストテレスの著書ではないが、彼の幸福についての思考過程が二コマコス倫理学に残されている。
近年の倫理学において、幸福について論じたものがあるのだろうか。
過去の哲学や、宗教すなわちキリスト教などにおいても、人間という生き物はどこまでも幸福を求めているという事実を論拠にして、
宗教論や倫理論を作り上げている。
古代から中世の倫理学は人は如何にして幸福を達成しうるかという問題がその中心問題を成していた。
だが今日の幸福論はどうなのだろうか。
すべての人間はその本性によって幸福という究極目的の達成に向かうように生まれながら定められていると考えられていた様である。
憲法13条の規定は今日の幸福追求権と言えるかもしれない。
とは言っても、現代日本の人権保障などは公共の福祉の一言で、跡形もなく吹き飛んでしまう。
生まれながらに有する人権などというもは存在することはなく、国家によって与えられた人権であるとするのが、日本国憲法の人権規定である。
幸福とはと学術的な事はさておいて、幸福とは何だろうと考えたことがある人は少なかろう。
内心の奥底では幸福でありたいとは思いながら、幸福が意識の表面に出ることはほとんどないのではなかろうか。
今日、倫理の混乱が叫ばれているが、倫理学からこの幸福が抜け落ちてしまったことと関連がある様な気がする。
幸福について考えることは不幸だからであるからかもしれない。
人間の体調に何の心配もない人は健康については改めて考えることはほとんどないであろう。
それと同じように幸福である人は、幸福について考えることはないのだろう。
だが、現代の人間は幸福について考える気力をさえ失っているために、幸福について考えることがないのかもしれない。
幸福とは何かを知らないものに、不幸とは何なのか知ることができるわけもない。
今日の人間は内心の奥底では誰もが幸福を求めている。
それが意識として登ってくることがないのはなぜなのか。
これが現代人の精神状況であるとすれば、これが現代人の不幸を特徴付けているのかもしれない。
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