卒業研究で自分との対峙が多く起ることは以前書いていた
それもそのはず関心のあることを手掛けているからだ
今の私の関心ごとは自分が設立した任意市民団体Feel at home の活動についてである
今ごろと思われるかもしれないがFeel at home の活動窓口が3つというところまで整理されてきた
①はたけをとおして自然と触れ合い自己との対話をしていく
②コミュニケーション(ことばや態度)表現することと聴くこと
③料理(親子ですることで会話しながら準備・共食)
その辺まで整理されてきたときに刺激があった
先週の金曜のカウンセリングの時だった
カウンセラーから3つの窓口は私の父・実母・養母ではないかという仮説が伝えられた
私自身何故この3つが関りあい切り離せないのかを説明がつかなかったのだがそんなことは考えたこともないと言いつつ
ただ重なり合う事でその川成が一番大事だという感覚はあると伝え
しばらくつらつら考えてみると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確かにそうかもしれない
①はたけ…禅のような考えが潜んでいる…父との関係
②コミュニケーション…養母は国文学専攻していた人で小学校の教員…ただし物語の中の人物の描写から登場人物の気持ちについては私に尋ねるが
私の気持ちについて聞いた記憶はない
③料理…実母は飲食業を営み他人様に料理を提供していた…食べた記憶が無い
という事が浮かんできたので先生に伝えかえした
これにはびっくり
そこで無意識での世界で足りないものを欲していたとしたら
生活の中で親子で家庭菜園そしながら自然のことや何やかや体験したり話したりすることが欠けていたから子ど大事だと感じていても不思議ではない
国語の先生といっても今ここにいる人の気持ちの理解が不十分であるという感覚を持て居たら今ここに生きている目の前の人の気持ちを知りたいと思う
いい匂いのする美味しそうなものを一緒につくって味わう事がしたかったから大事だと思う
そんな子供心に感じた事など
言語化されているわかでもなく
ただ感じてきたことだろう
一部については感じていることもあったのだがこの3つの関りの意味が解らなかった
自分が不足に想う事が
自分が満たすことで理想の形になるのではと思った居たのかもしれない
3人の親のかけ散るところをどうしたら埋め合わせできるかと無意識だ思っていたようだ
それは3つの親が重なり合うところでカバーしてきたのかもしれない
けれどその捉えかたが
自分の不足感からくるものであるから切り離せずまとわりつくような形であったのかもしれない
京都市のまちつくりに申請する書類の制作・卒業研究のレポート製作や資料作り・自分の為のカウンセリングなどを通じて
薄皮がめくれるように何かがはがれ こころの新陳代謝が進んでいるようだった
ところが…
18日昼からフォーカシング体験に参加すると
ことばでいい表せないFeel at home の活動が言語化出来て来たし・卒論も何か一つ光が観えたようではある
けれど何か残っているようなないような…・・
ワインを飲もうとコルクをポン!と開けたら下の4分の1くらいが残って便の中に落ちていったような感じ
まあ、注いだら出てくるので飲めるのだがお変わりをする時に残っていた栓がすっぽりハマり栓もワインも出ないぞ!って感じ
そのことは3人の親たちの不足を思っていることから始まっているのではないかという気づきにつながった
という事はそれぞれ独立していい感じならば重なり合う事でさらに何かが生まれる
2つでも起こることが3つとなるならそれ又いいじゃない!
というとらえ方が変わったことで
残っていた詰まった栓がお見事に外れたわけです
その時の爽快感たら さわやかなパーっとした外向きのエネルギーが粒粒の気泡になってシュワシュワシュワって飛び散って言う感じ
堅く鉛のような決断が
爽やかな発砲の泡が泉のようにでて周りの広がって 泡が消えていく時に何か香りとかエネルギーとか・・・ぬくもりを感じるような
そんな物に変化したようです
自分との対峙は苦しいことが多かったように感じますが今ここ手放さず見つめてきて原点にひょっとしたらたどり着き
こころの新陳代謝してきたんだなと感じているし
これからも続いていくんだろうな
身体の栄養は口から入ってくるもの・食べ物・水・空気です
こころの新陳代謝はたぶん 知る
↓
行動する
↓
どんな結果からも振り返り学ぶ
↓
よいサポーターを持って共有している(相談できる人がいる)
↓
フィードバックを受け入れる(知らない自分を知る)
↓
さらに行動する
私の場合は こんな流れだな
失敗を怖がって安全な出来る範囲のことしかしないのはもったいないなあと強く感じる
昼間 倉本聰氏の脚本のドラマ「いやしの郷」で年代的な振り返りや直面がありつつ
こころも体もみずみずしく居たいものだと願うこの頃である
それもそのはず関心のあることを手掛けているからだ
今の私の関心ごとは自分が設立した任意市民団体Feel at home の活動についてである
今ごろと思われるかもしれないがFeel at home の活動窓口が3つというところまで整理されてきた
①はたけをとおして自然と触れ合い自己との対話をしていく
②コミュニケーション(ことばや態度)表現することと聴くこと
③料理(親子ですることで会話しながら準備・共食)
その辺まで整理されてきたときに刺激があった
先週の金曜のカウンセリングの時だった
カウンセラーから3つの窓口は私の父・実母・養母ではないかという仮説が伝えられた
私自身何故この3つが関りあい切り離せないのかを説明がつかなかったのだがそんなことは考えたこともないと言いつつ
ただ重なり合う事でその川成が一番大事だという感覚はあると伝え
しばらくつらつら考えてみると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確かにそうかもしれない
①はたけ…禅のような考えが潜んでいる…父との関係
②コミュニケーション…養母は国文学専攻していた人で小学校の教員…ただし物語の中の人物の描写から登場人物の気持ちについては私に尋ねるが
私の気持ちについて聞いた記憶はない
③料理…実母は飲食業を営み他人様に料理を提供していた…食べた記憶が無い
という事が浮かんできたので先生に伝えかえした
これにはびっくり
そこで無意識での世界で足りないものを欲していたとしたら
生活の中で親子で家庭菜園そしながら自然のことや何やかや体験したり話したりすることが欠けていたから子ど大事だと感じていても不思議ではない
国語の先生といっても今ここにいる人の気持ちの理解が不十分であるという感覚を持て居たら今ここに生きている目の前の人の気持ちを知りたいと思う
いい匂いのする美味しそうなものを一緒につくって味わう事がしたかったから大事だと思う
そんな子供心に感じた事など
言語化されているわかでもなく
ただ感じてきたことだろう
一部については感じていることもあったのだがこの3つの関りの意味が解らなかった
自分が不足に想う事が
自分が満たすことで理想の形になるのではと思った居たのかもしれない
3人の親のかけ散るところをどうしたら埋め合わせできるかと無意識だ思っていたようだ
それは3つの親が重なり合うところでカバーしてきたのかもしれない
けれどその捉えかたが
自分の不足感からくるものであるから切り離せずまとわりつくような形であったのかもしれない
京都市のまちつくりに申請する書類の制作・卒業研究のレポート製作や資料作り・自分の為のカウンセリングなどを通じて
薄皮がめくれるように何かがはがれ こころの新陳代謝が進んでいるようだった
ところが…
18日昼からフォーカシング体験に参加すると
ことばでいい表せないFeel at home の活動が言語化出来て来たし・卒論も何か一つ光が観えたようではある
けれど何か残っているようなないような…・・
ワインを飲もうとコルクをポン!と開けたら下の4分の1くらいが残って便の中に落ちていったような感じ
まあ、注いだら出てくるので飲めるのだがお変わりをする時に残っていた栓がすっぽりハマり栓もワインも出ないぞ!って感じ
そのことは3人の親たちの不足を思っていることから始まっているのではないかという気づきにつながった
という事はそれぞれ独立していい感じならば重なり合う事でさらに何かが生まれる
2つでも起こることが3つとなるならそれ又いいじゃない!
というとらえ方が変わったことで
残っていた詰まった栓がお見事に外れたわけです
その時の爽快感たら さわやかなパーっとした外向きのエネルギーが粒粒の気泡になってシュワシュワシュワって飛び散って言う感じ
堅く鉛のような決断が
爽やかな発砲の泡が泉のようにでて周りの広がって 泡が消えていく時に何か香りとかエネルギーとか・・・ぬくもりを感じるような
そんな物に変化したようです
自分との対峙は苦しいことが多かったように感じますが今ここ手放さず見つめてきて原点にひょっとしたらたどり着き
こころの新陳代謝してきたんだなと感じているし
これからも続いていくんだろうな
身体の栄養は口から入ってくるもの・食べ物・水・空気です
こころの新陳代謝はたぶん 知る
↓
行動する
↓
どんな結果からも振り返り学ぶ
↓
よいサポーターを持って共有している(相談できる人がいる)
↓
フィードバックを受け入れる(知らない自分を知る)
↓
さらに行動する
私の場合は こんな流れだな
失敗を怖がって安全な出来る範囲のことしかしないのはもったいないなあと強く感じる
昼間 倉本聰氏の脚本のドラマ「いやしの郷」で年代的な振り返りや直面がありつつ
こころも体もみずみずしく居たいものだと願うこの頃である